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August 21, 2005

満月伝説 #10 そして、ウサギ達は・・・

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「あなたって人は、まったく……」
十夜は首を振る。
「叔母はただ、あなたに会うようにといっただけですよ。
あなたに会うのは十夜の運命だって……」
「凄いわ。あなたは私にとって運命の人なの?」
史記は自分の赤いオーバーブラウスの胸元で手を拭き、十夜に差し出した。
「よろしくね」
「あ、よろしく」
釣られて、十夜もコートで手を拭いて出す。
「お兄さんは残念でしたね」
その手を握ったまま、十夜は言い出した。史記は目を見張る。
「どうして、それを……」
「お兄さんの志を次いであげてください……って、言うまでも無くあなたはやるんでしょうけど」
「兄の霊が、ここにいるの?」
「ええ」
――嘘でしょ? 霊能者?
あてずっぽうに言ったことに頷かれ、史記は動揺を隠しながら、明るく言った。
「兄は、なんて言っています?」

「もうすぐ、あなたを真に理解し受け入れてくれる仲間が出来る。
でも、その前に……」
十夜は少し言い辛そうに言葉を切った。
「その前に?」
「注意をするように、命を狙われているって」
「誰に? 何のために?」
史記が問うと、十夜は史記越しに何かを見るように目を細めた。
「答えません」
「答えない?」
「ええ、でも、大丈夫ですよ……お兄さん、それにお父さんとお母さんも笑っていますから」
「お父さんも……いるの?」
「ええ」
史記の目から初めて涙が溢れた。

雨がまたひどくなってきた。
遠雷が響く。
異国の人々は雨宿りしている二人に見向きもせずに通り抜けていく。
史記は雨を払うように誤魔化して涙を拭いた。

高校生の頃、母を失い、朝、兄の死の連絡を受け、十年行方不明だった父の死を聞いたその日のことを、今でも史記は折に触れ思い出す。

帰国した史記を待っていた事件は十夜の予言通りだった。
そして、その事件で、史記は祐一と歩夢、雅文たちに出会った。

それから二年。
その間に十夜の予言で史記は命拾いしたこともあったのだが、十夜は人と親しく付き合うことを嫌う人間で、めったに史記の家に来ることはなかった。

そんな十夜が、夏前のある夜、不意に史記の家のドアを叩いた。
その夜の十夜は普段とは違い、打ちひしがれたような表情を浮かべていた。
そんな人間臭い十夜を史記は初めて見た。

話を聞くと、十夜の「夢視」の叔母が弱りきっているという。
ある夢をずっと見続け、寝込んでいるのだという。

「山の中のホテルに、神楽坂史記さんがいる。
そこに、お隣のご夫婦が来るの。
ディナーの席は、タキシードやロングドレスの人たちがいて、その中の一人が、隣のご主人にお諸仏さんのことを教えるのよ」

「オショブツサンは私の住んでいたダム湖の側に伝わる言い伝え。
山の中にモアイに似た石が三十四個あって、諸々の仏、お諸仏と呼ばれているの。
そこから、少し離れたところに、子供のころ、私は住んでいたの。
お諸仏の側には神社があるわ。

女の人が、満月の夜にお諸仏さんが人の姿になって現われて、望みを適えてくれると隣のご主人に教える。
隣のご主人はその話を信じてお諸仏さんのある場所に行くの。
史記さんと、男の子二人が一緒よ。

でもそこからが良くわからないの。
断片的で……
複雑な要素があって、たぶん、流動的な未来なのね。

その夢を視ると、助けてくれという男の声が聞こえるわ。
でも、暗闇に隠されて、その人の顔は視えないけど……」

「たぶん、来月、隣のご主人と庭で出会うわ。
百合の花が咲いていたから……
そして、玉川温泉のことを訊かれる。
玉川温泉はとても、効能のある温泉なの。
前にちょっとその話を、奥さんにしたことがあるの」

「隣の奥さんはもうすぐ、骨折するわ。
駅の階段から落ちるの。
それで、歩けるようになったら、玉川温泉に行くために、そのホテルに泊まる。
ホテルの名前はレリーブドホテル」

夢の内容を聞き、史記は訊ねた。
「それって、霊のせいなの?」
「たぶん」
「十夜でもその霊を払うことはできないの?」
「そいつはとても巧妙に隠れていて、私がいる間は出てこない」
「で、その霊は何を訴えているの?」
「判らない。
一つ判ったのは、隣の家のダンナはかなり追い詰められているって事」
「奥さんじゃなくて、ダンナのほう?」
「うん、あの家に行くと、夜になると隣から悪い思念が流れてきて息が詰まる。
奥さんのいる昼間は大丈夫。
まあ、奥さんのほうもかなり問題ありの人物だけど、ダンナのほうがかなり……」
考え込んだ史記を見て、十夜はため息をつく。

「人が集まるかどうかよね」
しばらく考え込んでいた史記が唐突に言い出した。

「え?」
「その夢の話を実現するとなると、何人かは隣のダンナが納得するような人がいなきゃダメよね?
陽子さんと、碧子と、雅文たちと、あ~、丹波さんはダメかもねえ」
史記は指を折って登場人物の予定者を数えている。
「まさか、史記、やるつもりなの?」
話した十夜のほうが呆れ声を出す。
「当たり前じゃない、こんな面白いこと、見逃すはずがないじゃないの」

とうことで、今回の茶番劇は演じられたわけなのだが……


「雨のニューヨークの出会いかあ、なかなか、ロマンティックだわ。
登場人物が史記、あなたって言うのが、難ね」
碧子は何か思いついたのか、メモを取りながら言った。
「そんな予言をされていたから、素直にあの遺産相続のときに現れなかったのね」
と陽子は納得している。


祐一と歩夢は、今回の茶番劇を始める前に初めて十夜を紹介されたのだが、
「初めて会ったような気がしないよね」
と歩夢は祐一に言い、祐一は何も言わない事でその言葉を肯定した。
「私たち四人はソウルメイトだから」
十夜は二人にそんなことを言った。
「ソウルメイトって?」
「前世の恋人だよ」
何でも知っている祐一が答える。
「へー、じゃあ、私達って、前世からの腐れ縁なんだ?」
史記の言葉に十夜は照れくさそうに俯き、歩夢は嬉しそうに笑い、祐一は迷惑そうにそっぽを向いた。

「私は、十夜の叔母さんのために出来ることしたかったの。
だからあの茶番劇を仕組んだんだけど、でも、その代わりに山田さんをあそこまで追い込んでしまった」
「史記が何もしなくても、山田さんはああなったんじゃないかな?」
祐一は相変わらず冷静だ。
「そうだよ。なんてったって、横領なんかしていたわけだし」
歩夢も祐一に同調する。

「でもね、山田さんと話していて、私、山田さんのなんとも切ない気持ちがわかったような気がしたの。
あの人は横領して、悪い女に溺れていたけど、本当はとても純粋な人なんじゃないかって。
だから、私、仕事くらいは紹介したいの」
黙り込んだ皆を見回し史記は言う。
「そんなのたいしたことじゃない。
何かしたうちにも入らないわ。
だって、働くのはあの人で、あの人はその働きでお給料を貰うんだもの」
「確かに、金を貸すとか恵んでやるとかいう話じゃないわよね」
碧子が頷いた。
「そうよ、たったひとつ、場所を紹介するだけよ。
その場所で何をするか、どう生きるかはあの人次第。
だから、千鶴さんも普通に面接して、厭なら断れば良いだけ」
「判りました」
千鶴は素直に頷いた。

「紹介状が必要なら、私が書きましょうか?」
黙って聞いていた陽子が言った。


「それにしても、あの人、前よりずっと良い顔していたね」
食後の紅茶を飲みながら、歩夢が言い出した。
「なんか吹っ切れた顔していたな」
祐一も相槌を打つ。
「最初は仮面のように冷たい表情を顔をしていたのにね。
硬く冷たい金属のような表情の下に、熱く沸き上がるマグマを、どんな人でも持っているのね。
社会の中で生きていくために、それを地底に押しやっているだけ……

あの人は、地位も家も愛人も失って、失意のどん底に居るはずなのにすっきりしたいい顔をしている。
あの人はそれらの物を所有していたのではなく、それらのものに縛られていたのね。
いろんなものをドンドン失って、最後に残ったのが美奈子さん一人……」

「あの不機嫌なおばさん、最初に逃げ出すと思っていたけど?」
歩夢が不思議がる。

「美奈子さんも自分の中のマグマを抑えられなくなっていて、爆発寸前だったんでしょ」
「あのおばさんのこと、さやか夫人は優しくて良い人だって言ってたよ」
歩夢が言うと、
「ハワイは楽しかったみたいだね。お袋、上機嫌で帰ってきた」
と、祐一も続ける。

岡さやかが協力してくれたことは、お諸仏さんの信憑性をかなり高めた。
本人は祐一と一緒に旅行できると言うだけで嬉しくて協力したのだが、結構、楽しかったらしく、
「また、何かございましたらおっしゃってくださいませね」
と、ハワイの土産を届けに来たときに、史記に言った。

手のかからない優秀な祐一の母親としては、そんなことで祐一との触れ合いを感じていたいらしい。
なにしろ、祐一は、IQ一六〇以上という頭の良さで、たいていのことは自分で解決するし、最近は史記の家の隣の歩夢の家に入り浸って、代官山の実家には寄り付かない状態なのだ。

「それにしても、女って」
祐一が言い出す。
「どうして、相手を殺してまで、自分の意志を貫こうとするのかな」
歩夢は無言で頷いている。

史記はサクラを抱いて撫ぜている。
犬は目を細めて今にも眠りそうだ。

「愛されたいから殺すのよ。
彼女たちは、自分にはすべてが捧げられるべきだと思い込んでいる。
その価値が自分にあると思っている。
だから、何をしてもよいと思っている。

愛の本質なんて考えたことも無い。
それなりに愛は与えられていたのに、別の現れ方をしていた愛に気づこうともしない」

「別の現れ方って?」
歩夢が聞き返す。

「結婚はしなかったけど、杉崎さんは亜里沙に出来るだけの事をしたわ。
山田さんも彼なりに誠意を尽くした。犯罪者になってまでね。
でも、そのことに彼女は満足しなかった。
もっと、自分は幸せになるべきだと思っていた。
自分のことしか考えないから、人と共有する幸せについて考えない。

自分以外の人間が、自分と同じ、生身の人間だという認識がない。
すべてを自分のものにしようとするから、いつまでも、満足できないのよ」

「辰子姫みたいだね」
歩夢が言い出す。

「辰子姫?」

怪訝そうな表情の祐一と史記に歩夢は続ける。

「田沢湖の主という辰子姫の伝説はいろんなバリエーションがあるんだけど、そのひとつにそんな話があるんだって。

辰子は凄い美人で、気立てのよい子だった。
ここまでは他の話と一緒ね。

ある日、辰子は川に行って、仲間と魚を採った。
仲間と一緒に食べるつもりだったけど、焼いているうちにあまり美味しそうな匂いがしたので、つい口を付けてしまった。
一口なら良いだろうとね。

魚は美味しくて、我慢が出来なくなって、ドンドン食べて、ついに、全部食べてしまった。

そうしたら、もの凄く喉が渇いてきて、側の川の水を飲んだ。
でも、飲んでも飲んでも喉の渇きは治まらない。

気がつくと、彼女は竜の形になっていた。
そして、いまでも、田沢湖で水を飲んでいるという話さ」

「それはかなりマイナ―なほうの伝説なんだろうな」
祐一はあの趣味が良いとはいえない金色の辰子像を思い出して、苦笑いする。

「まあ、あまり、格好のよい伝説じゃないからね」
「歩夢は誰からその話を聞いたの?」
「運転手さんだよ。
土地の人しか知らないバリエーションみたい。
おじいさんがその話をした後に、いつも、人を裏切って、欲をかぐなといったらしいよ」

歩夢はあの秋田弁丸出しの運転手の言い回しを真似する。
運転手とは昌義を御座の石まで送って行って、杉崎を目撃したタクシーの運転手のことだ。

「綺麗な女の子が竜に変えられるというのは、ご褒美ではなく、罰だと思ったほうが自然だな。
その伝説のほうが自然だ」
祐一は納得する。

「欲望のままに、自分を優先させてしまった罰ね。
美味しいよ、一口なら大丈夫という悪魔のささやきに耳を貸して、美しい容姿を失い、罰を受け続けている、可哀想な話」
「え? そんな話なの?」
 歩夢は史記のまとめに驚く。

「この話は昔人の戒めだわ。
そんな伝説の形で、昔の人は欲望の恐ろしさを子供に教えたのよ。
そんなに欲張ると辰子になってしまうよってね。

その戒めを語る老人が、家庭の中に居なくなって、日本は崩壊しているのよ。

世界でひとりしかない私、大切にするのは結構よ。
でも、あの人も、この人も世界に一人しか居ない人だという視点が欠けている。

ひとつしかないりんごを、少しずつ、分け合おうとする知恵がなくなっている。
一人でも、自分だけおなか一杯になろうとするものが居れば、奪い合いになってしまうでしょ。

経済状態にしても、食べて着て、寝るところがあるなら、それでよしと思うなら、今の日本の大抵の人は大丈夫でしょ?

問題なのはそれすら出来なくなった人をどうするかということだわ。

組織なんかいくら潰れても問題ない。
問題なのはその組織に組み込まれていた人間をどう助けるかよ。
それがわからない限り、日本の未来は無いわ」

歩夢はぽかんと口を開けて史記を見ている。
史記と結婚したいなどといって周囲を唖然とさせたことのある歩夢だが、なかなか、道は遠そうだと、祐一は思いながら眺めている。


夜中、祐一はパソコンで昼間の昌義の発言を整理していた。
山田昌義はシーファ学院を調べたようだが、上っ面だけで終わっている。

シーファ学院の真のオーナーは史記だ。
史記は木を植えるという人生の目標のために、人生の意味を探す子供たちのための学校に出資した。
元のオーナーが夜逃げして、生徒も教師たちも路頭に迷って、迫田がグローバルラインに助けを求めたのだが、グローバルラインは断った。
それを陽子から聞いて、史記が神楽坂史記事務所から出資したのだ。

シーファはホテルの従業員を育成し、マネジメントを学ぶという学校だが、本当は人間と人間の付き合いを学ぶ学校。

史記は今度の計画のために訪れた北の地が、すっかり気に入った。
そこで、あのホテルを買収し、別荘に立て替えようとしたのだが、結局、シーファの研修所にするために、5月の連休明けに壊すことになっている。

美術書を眺めていた歩夢は、パソコンに向かっている祐一と史記を見て、お茶を入れに立った。
新しい紅茶を入れながら、歩夢は二人に話しかける。
「ねえ、春になったら、秋田に行こうよ。あのダム湖が新緑に包まれるのを見たいな」
「そうね、あのホテルで最後のパーティでもしようか」
大きなあくびをして、史記が言った。
 


風の中に甘い花の匂いが潜んでいる。
まだ、雪を頂いている奥羽山脈から吹き降ろす風は、相変わらず冷たいが、陽射しの強さが、それを緩和している。
ダム湖は満々と雪解け水を湛え、山の緑と青い空が水面に映り、揺れている。

北国の春はいっぺんにやってくる。
あらゆる緑が燃え出し、あらゆる花が咲く。

史記は十夜と、ダム湖の上流の湖底に立っている。
「ここらへんに、住居の跡があったのかなあ」
史記は濃い紫の野花菖蒲の咲いている場所を指差す。

「もう、土砂に埋もれて見えないわね」
「長い年月が経ったんですね」

ハルジョオンの咲いている水辺の草むらで、犬たちが走りまわっている。
小さな体のヨ―クシャテリアのサクラは必死で、ゴ―ルデンレトリバ―のル―は大きな体をゆったりと揺らして、追いかけっこをしている。
祐一と歩夢は犬たちにボ―ルやフリスビ―を投げて、囃し立てていた。

彼らは、昨日、秋田にやってきた。
あの古いホテルが壊される前に、パ―ティをするためだ。

東京からの客は新幹線で着くことになっている。
迫田が迎えに行った。
時間差で最後に昌義達が着く様に切符を送ってある。

史記たちは、朝の便でやってきた十夜を空港で迎えて、その足でこのダム湖に来た。
十夜が歩夢たちのほうに歩き始めたので、史記も後を追おうとしたのだが、
「よう」
突然、背後から男の声が聞こえた。

史記が振り返ると、香り高く咲いている野薔薇の大木の側に、がっしりとした体格の中年男が立っていた。
中年男は史記に頭を下げる。

十夜を振り返ると、十夜はチラッとこちらを見て笑ったが、そのまま歩いて行った。

史記は思いついて
「あれでご満足ですか」と男に笑いかける。
「ああ、大満足だ」

男は首を掻きながら、十夜を見る。
「あの方のおばさんには迷惑を掛けてしまった」

「ちゃんと謝りました?」
「いや、あの人には近づけないんだ」
「ふうん、そうなの」
史記には意外な返事だった。
「あの人の前にいくと、人間はすべての思いを申告してしまう。
そして、あの人の波長は、俺らのようなものと同調する。
だが、あの人は俺らが視える事を望んでいない。
あの人が俺らを視たくないと思えば、俺らを消し去ることなど簡単なんだ。
俺はまだ消されたくなかったんでね」

「十夜の叔母さんには、そんな力もあるんだ」
「あの人が眠ると、意思は弱まる。
だから、あの人が眠る夜に、皆、懸命に囁きかけるのさ。
何とかして欲しくてね」

史記は笑った。
「それじゃあ、董子さんを眠らせなかった張本人はあなたなのね。
でも、どうして、秋田で、お諸仏さんだったの?」

「それは、俺がどうにかできることじゃない。
あの人が視たから、現実になったのさ」
それも思いがけない話だった。

「あの人や君達のおかげで、俺は昌義に会うことが出来た。
昌義はいかにもエリ―トでございます見たいな顔をしている癖に、女の心なんかちっともわからない朴念仁で、純で……亜里沙みたいな女にかかるといちころだ。
亜里沙は俺みたいな男じゃなきゃ、乗りこなせないじゃじゃ馬だ。
あいつの手に負える女じゃない」

「亜里沙さんのこと、恨んでいないんですか」
男は首を振る。
「あいつをあんな女にしてしまったのは俺だ。
なまじ情けをかけて、気を持たせて、放り出そうとした。
あいつの男性不信は、俺が作ったようなもんだ」
「だから、連れて行ったんですね」
「ああ」

知りたがりの史記は思わず聞いてしまう。
「鈴木を殺したのは、やはり、亜里沙さん?」
男は頷く。
「ツキヨダケを鍋に入れ、自分は食べなかった」
史記はそれを見ていたのと思わず聞きかけたが、やめた。

「酷い人ね」
「ああ、怖い女だ」
「でも、好きだった……?」
男は、照れくさそうに笑い、野薔薇の枝を折った。

「心配なのは昌義だったが、君たちが居れば何とかなるだろう。
君たち、昌義の面倒を見てくれるんだろう?」

史記はにまっと笑う。
「私が面倒見なくても、山田さんは大丈夫ですよ。美奈子さんがついているから……」
「美奈子さんも気が強いからな。
昌義も大変だ。
だけど、彼女が昌義を見捨てなかったのことには感謝しているよ。
実体を持たない俺がどんなに気にしてもどうすることも出来ない。
生きている君達や美奈子さんに頼むしかない」
「でも、御座の石神社で、触ったって、山田さんが……」
「あの方のお陰だよ」
男は十夜を指差す。

「十夜の?」
「ああ、あの方は言わなかったかも知れないが、彼の力で俺は形を得ることが出来たんだ」
「十夜、私たちに貴方のこと言わなかったわ。
どうしてかしら?」
「あの方は、オレの出現を許してくれたのさ」

「ああ、そういうこと……他の人が杉崎さんの役をやってしまえば、貴方は出現できなかったのね」
「さあ、もう行かなければ……ま、昌義をよろしく頼むよ」
史記が頷くのを見とどけ、男はきびすを返して、道路のほうに歩き始めた。

道路の上では、背の高いスタイルの良い女がこちらを見ていた。
男が女のいる場所にたどり着くと、女は嬉しそうに、男の腕に腕を絡ませた。
男は手にしていた野薔薇を女の髪に挿す。
そして、二人は史記のほうを振り向き、頭を下げて、新緑の中に溶け込むように消えた。

「どうしたの?」
いつの間にか、祐一が史記の側に立っていた。
「――うん」
「何かあるの?」
祐一は史記の見ているほうを見るが、そこはもう、新緑に包まれた道路でしかない。

「ちょっとした神秘をね、感じたみたい」
摘んだ野薔薇の匂いを嗅ぎながら史記は答える。
甘いだけでなく清潔な香りだと史記は思う。

「ふうん」
祐一はそれ以上聞かなかった。

「ねえ、祐一」
「ん?」
「お諸仏さんは、本当にいたのかもしれないわね。この山の中に。
私たちは山田さんを騙しているつもりで、本当はお諸仏さんに騙されていたのかもね」
「この山の中では、どんな不思議もありだな。
ここは、この世とあの世の交差地点なのかもしれない」
わかったような口を聞いて、祐一は水面に移る山を見やる。

「史記、もし、お諸仏さんがいたら、何を望む?」
史記はその問いに、くすっと笑いを漏らす。
「お諸仏さんが居たらねえ。願い事が多すぎて困るわ」

歩夢が二人を呼んでいる。
十夜は水際に立って山を眺めている。
犬たちが二人のほうに駆けてくる。
その吼え声が山にこだまする。

花の匂いがする。
タンポポの綿毛が風に舞い、その間を忙しそうに虫が飛んでいる。
空はあくまでも蒼く、水はあくまでも清く澄んでいる。
穏やかな午後だ。               
 

2005.8.21 満月伝説 了    

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