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November 26, 2004

満月伝説 #6 ツキヨダケ

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昌義はくたくたに疲れていた。
肩は重く、目も痛かった。
鏡を見なくてもフロントの女の子の怯えた目を見て、自分の様子に察しが付いた。
ルームキーを受け取り、誰かいるかと期待してロビーを見たが誰もいない。
ふらふらと喫煙席に座って、タバコを取り出す。

そう言えば、タバコを吸うことさえ忘れていた。
火を点ける。
タバコは舌に苦かった。煙はそれでなくても痛かった目に沁みた。
涙がにじんだような気がして、目をこする。

そのまま、タバコを指に、どれだけの時間が過ぎたのだろうか……
「山田さん、どうしたん?」
碧子の声に気が付いた時、タバコはほとんど灰になっていた。
「ああ、ちょっと……」
熱さを感じて、慌ててタバコをもみ消す。

向かいに腰掛けながら、「彼女とうまくいかなかった?」
いたずらっぽく、碧子が訊く。
「どうして、そう思うんですか?」
自分ながら不機嫌な声だった。
「名探偵碧子を見縊っちゃ駄目。
男に電話がかかってきて、ほいほい飛び出していくのなら、相手は愛人に決まっている」

――その結果、殺されそうになって、好きな女の本性を見て、がっくりしている。
俺は大馬鹿者だ。

「大丈夫よ」
碧子は口にくわえたタバコに火を点けながら、言った。
「え?」
「みな、多かれ少なかれ、そんな思いはしている」
「そんな思いって?」
「男の真実と女の真実は違う。そのすれ違いに気付いただけでしょ? 
違うと知ったうえで、これからはうまくやるのね」
「水商売の女って、そんなものかな?」
碧子はきっと昌義を見据えた。
大きな目が光る。
「水商売であろうが無かろうが、そんなこと関係ないよ。
女は男とは別の生き物ということ」
「そういうものですか……」

昌義はももこの言葉を思い出していた
「黄泉の国に行った恋人や、奥さんを追いかけて、黄泉の国に行った英雄や神様は、決して振り返ってはいけないという言葉を守らず、振り返る。
そして、そのあまりの醜さに、顔を背けて、逃げ帰る。
彼女たちの本質は変わっていないのに……
愛する人を早く見たいと振り返ったというのに、その容姿が醜いというだけで、それまでの試練や努力を捨て去って、愛する人を裏切る……」

――俺は亜里沙の綺麗な容姿に騙され追いかけて、醜い姿を見たというわけか。
そして、逃げ帰ったわけだ。
それでは亜里沙の本質は、どこにあるのだろう?
俺を愛しているといったあの愛くるしい口にか、それとも、あの階段の上から、タクシーを見下ろしていた冷たい目にか……

「そろそろ、食事ね。着替えてくる」
タバコを消して立ち上がり歩き出した碧子は、昌義の横で立ち止まり、軽く昌義の肩を叩く。
「元気、出す」
命令調のぶっきら棒な言い方だが、声は優しかった。
昌義が見上げると、もう、碧子はエレベーターに向かって歩き出していた。

昌義はふらふらと立ち上がり、テラスに向かった。
風が冷たい。
その冷たさが心地よい。

ふと気配に気付いてみると、ももこが一人でいつもの席に座っていた。
テーブルの上のガラス容器の中のキャンドルが灯り、広げられた絵模様のカ―ドを照らしている。
ももこはもう、ドレスに着替えていた。
シンプルなデザインの黒の長袖のドレスに、ゴ―ルドの光る素材の肩掛けを羽織っている。まるで、怪しい占い師のようだ。

ももこは昌義に微笑みかける。
キャンドルが、ももこの幼い顔を怪しく照らしている。 
形の良い口から嗄れ声が漏れた。
「月が昇り始めましたね」
「ああ」
「満月の前日の月を何と言うか、知っています?」
「いや。何と言うの……?」
「小望月、もしくは待宵月」
「子持ち月?」
「この世をば我が世ぞと思ふ望月の欠けたることもなしと思へば……の望月ですよ。
小は小さいと書きます」

「なるほど、それで小望月か……」
大きな青白い月を昌義は見上げる。
ももこも同じように見上げて言った。
「いよいよ明日、運命が決まりますね」

「ああ、君はもう、願い事が決まったの?」
「ええ、最初から決まっていました」
「どんな……?」
答えずにももこは微笑んだ。

その笑みを見て、ふっと思いついて、昌義はももこに語りかける。
「ももこさんは、幽霊を信じますか?」
「もちろん、信じますよ」
ももこは、躊躇わない。
「見たこと、あるんですか?」
昌義のほうが驚いて質問する。
「いいえ」
平然とももこは答える。

「それでは……?」
「どうぞ、おかけになって……」
ももこは前の席を示す。
昌義は素直にももこの向かいに座った。

「居ても不思議ではないと思います」
ももこはテーブルの上のカ―ドを一枚ずつ集めながら話す。
見ると、綺麗だが、髑髏のついた恐ろしげな模様のカ―ドもある。

「私たちの現在の生活を、石器時代の人が見たら、魔法だと思うに違いありませんわ。
私たちは空を飛べるし、遠くの人と話すことも、遠くの人の姿を見ることも出来る。
魔法そのものです。

でも、私たちは、それをテクノロジ―のおかげだと理解できるし理論付けできる。
それと同じように、私たちの脳の働きが電気信号だとしたら、つまり、心が電気とか磁気とかで構成されているなら、それは肉体が無くなっても保存できるかもしれない。
それって、CDとかMDに記録されている情報と同じでしょ?

石器人の誰が、あんな薄っぺらなつるつるの板にあんなに膨大な情報が記録され保存されていると理解できますか?

同じように、私たちが理解していないだけで、地球上に、自然に在るものの中に、私たちの記憶を保存できる何かがあるかもしれない。
それが、石だったり、木だったり、空気だったり、何かその場にあるものだとすれば、その人間の情報自体は保存されていて、何かの拍子に再生されるというのは有り得ることですわ」

「大胆な説だね」
昌義にはますますこの女性が理解しがたくなってきた。
こんなことをこんな子供のような顔をして考えているとは……
「神楽坂史記の先月のエッセイの受け売りですよ」
ももこは無邪気に笑う。

「史記はそれを再生できる人、つまり、プレイヤ―のような働きの出来る人がいて、その人たちが霊を視る事の出来る霊能者かもしれないと言っていました。
殺人や事故、自殺など、不慮の死を遂げた人は、肉体を失う瞬間に強い電気信号を残すから、強く書き込みされ、幽霊として目撃されやすいのだというの。
そう思えば、確かに幽霊は論理的な存在といえるでしょう?
それに、お諸仏さんを信じる私たちが幽霊を信じないのはおかしい……」
「まあ、そうだね」
「世の中には、人智では計り知れないものがあるのです」
予言者のように、ももこは言い放つ。

ももこの言葉を、今の昌義はなんとなく理解できた。 
――癪に障る。が、彼女の言葉は、今の俺には思い当たることばかりだ。

「ところで、山田さんこそ、お諸仏さんへの願いは決まりましたの?」
集まったカ―ドをシャッフルしながら、ももこは訊く。
その一瞬、昌義の心は決まった。
「ああ、決まりましたよ」
思わず、笑みが出ていた。

「望むのは、地位ですか? 名誉ですか? それとも、金?」
そういいながら、ももこは裏返しにカ―ドを広げて差出す。
昌義は、つい、一枚選んで取り出す。
ももこはそれを受け取り、そのまま裏返しに置く。

「もっと、僕にとっては価値のあるものだよ」
昌義は自分でも不思議なほどにすっきりした気分だった。
ももこは、微笑むと、カ―ドを表に返した。
陽気な若者が、歌でも歌っているように山道を歩いている、足元には犬がじゃれているカ―ドだ。

「愚者(FOОL)ね。これは逆位置の愚者。
愚者はタロットカ―ドのナンバ―〇(ゼロ)なの。
すべての始まり。すべての終わり。
逆位置の愚者には、新たなる旅立ちの意味もあるわ。
何かが終わり、何かが始まる」

キャンドルと月明かりに照らされたももこの顔は、幼い童女のようにも、お婆さんの魔法使いのようにも見えた。

「ああ、山田さん、どこに行ってたんですか?」
丹波がテラスに顔を出す。
彼はもう、ブラックタイに着替えている。
「もうすぐ、ディナーですよ。妻に逃げられたもの同士、一緒に如何ですか?」
「ええ、ありがとうございます」
もう少し、ももこと話したいと思ったが、丹波の顔を見て、ほっとするものを感じ、昌義はももこに頭を下げる。
「貴重な意見をありがとう。着替えてきます」

昌義は三階の部屋に向かいながら、ももこの言葉を反芻する。
「何かが終わり、何かが始まる」

今まで、夢で見る杉崎は、悲しそうな顔で、昌義を睨んでいた。
だが、秋田に来てから現れる杉崎はちゃんと話している。
さっき、腕を掴まれたときには、まるで生身の人間のような感触さえあった。

――俺は、生きている杉崎に会うことが出来るかもしれない。


その夜のディナーに着慣れないタキシードにブラックタイで出ると、昌義は坂田、丹波、碧子、陽子が座っている中央の大テーブル席に案内された。

「お連れの方は?」
今宵は真紅のシンプルなシルクのスリップドレス姿の陽子に訊くと、当たり前のように、「仕事中なの」と答える。
「こんなところに来てまで仕事ですか? 大変ですね」
「まあ、好きでやっているから、放っておくの」
「華楠さんは?」
碧子に訊くと、碧子は肩を竦める。
「今日は近くのホテルに呼ばれて歌っている。
あの子は歌声一つで世界の何処に言っても生きていけるね」
薄いグリ―ンのオ―ガンディ―と濃いグリ―ンのサテンを重ねた胸の開いたドレスを着た碧子は淡いピンクのシャンパンに口を付ける。
「歌一つで世界を放浪できたら、それは素晴らしいですね」
接待カラオケで歌う歌に悩む昌義には信じられない才能だ。
「そういう才能が有れば、私、きっと、今頃はここに居ないわ」
陽子がワインリストから目を離して言い出した。
「陽子さんが歌手なら何処に行きますか?」
「そうね。アメリカに行ってカ―ネギ―ホ―ルを目指そうかしら」
「歌の世界的成功を目指すわけだ」
碧子が茶化す。陽子は真剣な顔で、
「ええ、それが才能を持って生まれた者の使命というものだわ。
神様に預けられた才能を存分に発揮して、成功者になって、誰かの目標になる。
それが、才能のある者の使命よ」

そんな話を、どこかで聞いたような気がして、そうだ、ももこの話に似ているのだと気付いて、昌義は苦笑した。
丹波はニコニコしながら、話に耳を傾け、ワインを飲んでいる。

そういえば、丹波もその料理と言う才能で、きっと何処に行ってもやっていけるだろう。
華楠の才能を賛辞している坂田や陽子だって、十分にそれぞれの道の成功者だ。
それに気付き、昌義は思う。

――俺には無い才能。
ここに居る人は多かれ少なかれ、才能に溢れた人ばかりだ。
それぞれの業界でトップにいる人ばかり。
俺のようなサラリ―マンとはまるで違う人種だ。
お諸仏さんに出会って、その成功を手に入れたと、彼らは言うが、本当にそうだろうか?
お諸仏さんに会えたということが、すでに才能の証明なのかもしれない。
あの、窓際の席で二人の世界を作っている若いアベック、あの二人だって、何かとんでもない才能の持ち主かもしれない。
アベックの隣席で談笑しているももこ達。
あいつ等こそ、侮れない。類い希な才能の持ち主たちかもしれない。
それにしても、俺のように、金勘定ばかりしてきたサラリ――マンがお諸仏さんに選ばれるには、何が必要なんだろう?

そんなことを考えながら、ぼんやりとももこたちのテーブルを見る。

祐一が何か言って、歩夢が笑い、それを見て、祐一が微笑む。
ももこが何か言うと、歩夢が嬉しそうな表情で懸命に話している。

「どうなさったの? 山田さん」
目聡い陽子に声を掛けられて、昌義は我に帰る。
「いや、何でも有りませんよ」
「あら、あの男の子に見惚れていたのかと思ったわ」
碧子がアミュ―ズのからりと揚げた湯葉を口に運びながら言い出す。
「女の子じゃなくて、男の子ですか?」
坂田が聞き咎め、碧子は肩を竦める。
「あの男の子二人、滅多に無い美形だわ。創作意欲をかき立てられるくらい。
あのチビの女があんな美形に囲まれているというのは癪だけど、漫画的にはかなり良い線ね」
「漫画的?」
「少女漫画の読者に、夢を与えるじゃない。
あんな、チビでそこそこの女が、あんな美形に大切にされる、ま、よくあるパタ―ンだけど……」
「碧子さん……」

全員が引いた所へ支配人がシェフを連れてきた。
「皆様、シェフの大鶴湊人を紹介いたします」
学校出立てのような若いシェフは深々と礼をして、料理の説明を始める。

「本日のディナ―は、丹波先生のご指導で、キノコ料理をご用意させていただきました。
香り高いこの地方のキノコとフレンチのコラボレ―ションをお楽しみください」
再び、仰々しく礼をして、シェフは厨房に下がる。

やがて、ス―プが運ばれてきた。
シェフの言葉どおり、コンソメス―プに一片の白いキノコが浮いている。
「『カノカ』ですよ」
丹波は嬉しそうだ。
この香りが素晴らしいキノコは「カノカ」と言うものらしい。
一匙のスープを口に含むと、山の香りが口内に広がる。

「これはさっき、僕が採ってきたんだ」
丹波が自慢する。
「凄い、こんなのがこの山にあるの? 自然に生えているの?」
陽子が歓声を上げる。
「ああ、地元の人に案内してもらってね。いろんなキノコが採れた」
「毒キノコだったりして」
碧子がいたずらっぽい目で丹波を見る。

丹波は面白そうに、
「そうそう、それなんだけどね、もの凄く立派な椎茸があって、こりゃ凄いと思って、山ほど採って籠に入れていたんだ。
帰る途中、地元の人に自慢して見せたら、椎茸じゃないと言われた」
「へ―、何だったんですか?」
「ツキヨダケというキノコだそうだ」
「ツキヨダケ?」
「月夜の晩に青白く光るんだそうだ。もっとも、月が無くても光るようで、昔はヤミヨダケとも言ったそうだよ。
闇夜に提灯代わりに出来るくらいに光るんだそうで……」
「すご―い、ロマンティックなキノコ」
碧子は漫画家らしく目を輝かせる。
「それは、良い絵になるなあ」
「そのキノコが毒キノコなら、神楽坂史記が喜ぶだろうね」
昌義の言葉に、丹波が笑う。
「仰せの通り、そのキノコ、物凄い毒キノコだそうだよ。毎年、中毒患者が出るそうだ。時には死者も……」
「笑っている場合ではありませんわよ」
スプ―ンを置いて、陽子が丹波を嗜める。

「大丈夫ですよ、このス―プにはツキヨダケは入れていませんから……」
「どうしたんですか? そのキノコ……」
おそるおそる昌義は尋ねる。
「ゴミ箱に捨てました」
丹波は軽く流して、次の皿を出すよう、側に立っていたウエイターに指示を出す。
直ぐに、前菜のエスカルゴが運ばれてきた。
エスカルゴはニンニクとパセリのほかに細かく刻んだマイタケが散らしてあり、熱々で、薫り高く美味だった。
「このマイタケも採っていらしたの?」
陽子の問いに丹波は嬉しそうに頷く。

「これはこんな大きな株だったんですよ」
両手抱えるような仕草をして、丹波は自慢げに答える。
「あんな大きなマイタケの株、見たこと無いなあ。それにどうです? この香り! ニンニクとバタ―とマイタケ、素晴らしい!」
その意見に、誰も異論は無かった。

次の皿はヒメマスのポワレ、様々なキノコのソ―スが掛っている。
「凄く良い香りだけど、このキノコは?」
碧子は歓声を上げたあとで丹波を見る。
「それが……」
丹波にしては歯切れが悪い。
「食べられるとは言われたのですが、名前が判らないキノコたちです」
「え―? 大丈夫なの?」
陽子がフォ―クを持ちかけて止める。
「大丈夫ですよ、この辺りの人は、食べているそうです。私も念のため、毒味しましたが、この通り、ぴんぴんしています」
「このキノコたち、素晴らしい。木の味がする。森を食べている感じがする」
碧子は嬉々としてもりもり食べている。
それを見て、陽子も坂田も食べ始めた。昌義も手をつける。
「うわあ、これは……」
それ以上何も言えず、皆、黙々と食べた。
あっという間に皿が空になる。
その後の短角牛のフィレのメダイヨンも、マツタケが利いていて良かったが、この皿がこの夜の逸品だと言うことで、皆の意見は一致した。

デザ―トの山葡萄のム―スの芳醇な香りと上品な甘酸っぱさに驚かされ、山の匂いと色と味を存分に堪能して、食事は終わった。

皆そのまま、バ―に移る。
今宵は、バンドは入っておらず、落ち着いたジャズが流れている。
そのバ―で、彼らは古い友人のように真夜中まで語り合った。

丹波と坂田が四十代の半ばで、同じくらいの年、昌義は少し年下、陽子は三十台半ば、碧子は二十台の後半。
結構幅広い年代に渡っているのに、話題は繋がった。
昌義と坂田は同じアニメのファンだったし、碧子はそのアニメの再放送を見て、漫画家を目指したと言う。
丹波は修行時代の海外の話、坂田は近頃の学生について、陽子は鴇野雄一郎の思い出話をした。
碧子は飲みながらそれを聴いている。

昌義はお諸仏さんの話を聞くつもりで彼らに付き合ったはずが、そんなことはすっかり忘れ、心温まる楽しい一時を過ごした。
何の利害も無い、つい一昨日までは存在さえ知らなかった連中と、こんなに楽しい時間を共有できるとは……
昌義はその夜、本当に幸せだった。

次の朝、昌義がロビーに降りると、客はまだ誰もいなかった。
従業員は忙しそうに働いている。コーヒーを頼んで、テラスに出る。
ワインと水割りで荒れている胃が寒さにぎゅっと収縮した。
フロントの背の高い女性がコーヒーを運んできた。
「ありがとう」
コーヒーを受け取り、ふっと思いついて訊いてみた。
「このホテルは若い子ばかりだね、皆、この辺の出身?」
胸に山本というネ―ムプレ―トを付けたその女性は、笑顔を作りながら、
「いいえ、出身は、全国各地でございます」
「どうして、ここに……?」
その質問を測りかねるように、山本は首を傾げる。
「いや、ごめん。変なこと聞いちゃったかな?」
「いいえ、ただ……お客様はシーファをご存じないのですか?」
「シーファ?」

――何のことだろう?
今度は昌義が首を傾げる番だった。
「申し訳ございません、あの、私、失礼いたします」
山本は蒼褪めて帰ろうとする。
「シーファ? 何のことだ?」
昌義はその後姿を見送っていたが、山本がロビーに入るのと入れ替わりに、丹波が顔を出した。
振り返り、山本に「コーヒーを頼むよ」と注文する。

「山田さん、お早いですな」
丹波はテラスデッキに出てきて、立ったまま、シガーに火を点け、辺りを眺める。

ホテルの前の赤と金色に色づいた繁みは朝の光に光っている。
空を仰いだ丹波の吐く息が湯気のように立ち上るのが見えた。
今朝も冷え込んで、蒼くすき透っている空には雲ひとつ無い。

「良い天気だ」
「……本当に」
「満月日和だな」
「丹波さん、お諸仏さんはどんな願いでも適えられますか?」
昌義の問いに、丹波は昌義の顔をじっと眺めていたが、やがて口を開いた。

「山田さん、あんたの願い事が何かわからないが、それが正しいことなら、きっと適うと思うよ」
「正しいことって?」
昌義が聞き返した瞬間、丹波の携帯が鳴った。
意外なことに丹波の着信音はなんだか可愛い子供が喜びそうな曲だ。
「ああ、ジュリかい? ん、ママと一緒か? そうか……」
相好を崩している丹波は、優しい言葉で話している。
どうやら、子供からのようだ。

ひとしきり、子供と話した後、昌義に、
「奥さんが話したいそうだ」と携帯を渡す。
「あなたあ、私よ」
美奈子のキンキン声が響いた。耳が痛いくらい興奮してテンションが上がっている。

「元気そうだね」
「もう、スッゴク楽しくて、幸せ」
「それは良かった」
その様子が目に浮かんだ。
セレブの夫人たちに囲まれて、絶好調の美奈子。
亜里沙の本性を知った今、美奈子の不機嫌な顔も懐かしく愛しく思えた。

「実はねえ、私、岡様にハワイの別荘にお招きいただいたの」
「ハワイの別荘……?」
「今から家に帰って、パスポ―トを取ってくるわ。一週間くらい行って来るけど、良い?」
いまさら「良い?」も無いもんだと思いながらも、
「いいよ、行っておいで」
少し心細い……その感情を出さないように返事をする。
「ありがと、じゃ、急いでいるからこれでね。ごきげんよう」
美奈子は取って付けた様な挨拶をして、電話を切った。
山本がコーヒーを運んできて、昌義のテーブルに置く。
「ハワイに行くそうで……」

「家のも一緒のようですよ」丹波はあっさりと言う。
昌義は驚いた。「奥さん、お子さん連れで、ですか?」
「ええ、さやか夫人は息子を可愛がってくれて、たまに連れて行って下さるんですよ」
「お子さん、お幾つですか?」
「四歳になるところです」

――丹波さんの子供なら、十代でもおかしくないのに。あの細い奥さんが○高出産できたとは……

「遅くに出来たお子さんなんですね」
丹波は椅子に座り、コーヒーに口を付ける。
「そうか、山田さんはご存じなかったか……」
「何を、です?」

「実は私らは再婚同士なんだ。樹里は前の妻の産んだ子供です」
一瞬、昌義は絶句した。
丹波夫妻が一緒に居るのを見ていると、長年連れ添った夫婦のように馴れ合った雰囲気だったので、そんなことは考えたことも無かった。
昌義の驚きを他所に丹波は続ける。

「前の妻は……樹里の母親は、かなり年下でしてね。
一年前に、まあ、その、自殺したことになっているんです」
「自殺した、ことに、って……?」
昌義の表情を見て、丹波は苦笑する。

「本当は僕の義理の母親に殺されたんですよ」
あっけに取られた昌義の、口から出たのは間抜けな質問だった。
「また、どうしてそんなことに……?」
「僕の義理の兄、彼女の息子を、妻が殺したからです。不倫の挙句ね」
丹波は何のためらいもなく答えた。

――それは……そんなことを会ったばかりの俺に話して良いのか?

「そんな大事なこと、どうして……?」
丹波は真剣な表情で、昌義を見る。
「僕はその事件で、多くのことを学びました。
藤江、今の妻ですが、彼女と神楽坂史記が居なければ、僕は今ここには居ない」
そう言って言葉を切ると、丹波は昌義の目を見て続ける。

「山田さん、神楽坂史記を知っていますか?」
「いや、あの、一度だけ、部屋を間違えて叱られたことは有りますが……」
「史記が叱った?」
「ええ、あの、陽子さんと一緒の人ですよね? 細くて」
神経質そうなと言いかけて慌てて口を閉じる。
丹波はにやっと笑い、弾んだ声で言った。
「史記を、史記の真意をあなたは知らない……」
「え?」

――真意って?あの部屋に何か問題でも有ったのだろうか?

次の丹波の言葉は意外な言葉だった。
「とにかく、あなたは心配要りませんよ。
あなたは幸運な人だ。あなたは護られている」
「はあ? 僕が幸運? 護られている……?」

整えられた髭がその掘りの深い顔立ちに深みを与えている丹波は、よく見ると澄んだ瞳の美男子だ。
「僕がそう信じていることを、山田さん、憶えて置いてください」
「何のために?」

理由が判らず、戸惑う昌義に、丹波は、話を逸らした。
「ああ、お諸仏さんは死人を生き返らせることができるかと言うことでしたね」
「はあ」
丹波は元の陽気で気さくな丹波に戻っていた。
「あなたがお諸仏さんのおめがねに適えば、きっと、生き返りますよ」
こともなげに言う。
言い出した昌義のほうが信じられない。
「でも、もう、死んでかなり経っているから、戸籍とか……」

――それに死体は火葬されているし……
それを口に出すのは流石に躊躇われて、言葉を濁す。

「山田さん、お諸仏さんが人を生き返らすことが出来るのなら、そんなことは何の傷害にもならない」
丹波はそう言うとシガーを消して立ち上がり、伸びをする。
「さあ、今日は良い日になりますよ。早く食事して、動きましょう」
丹波に促されて、昌義も慌てて立った。

ロビーに入ると、陽子、碧子、坂田が蒸気機関車のように煙を上げていた。
口々に朝の挨拶をし、食事を摂ることにし、ダイニングに入る。
昨日のディナーと同じように五人分のテーブルがセットされていた。
この胃ではト―ストは辛いと思っていた昌義は、おかゆが出てきて驚いた。
「おかゆですか……」
「あら、お気に召さなかったかしら?」
陽子が昌義を気遣う。

「いや、有り難いですよ。ちょっと、胃がね。夕べ、飲みすぎたみたいで」
「さすがにシェフは、私たちのコンディションを知っているみたいね」
碧子の言い方は相変わらずぶっきらぼうだ。
「大鶴君がこの方が良いと、言い張ったんだよ」
丹波は嬉しそうだ。
「このタクアン、燻製されている」
早速、おかゆに添えられた漬物に箸を付けた碧子が驚きの声を上げる。
「燻りガッコだよ」
「何ですの、それ?」
「ガッコは漬物のことさ。燻りと言うのは碧子さんの言ったとおり、燻製のことだ」
「へ―、珍しいですね」
坂田が燻りガッコを口に放り込み、歓声を上げる。
「うん、燻製だ。なんとも言えない味わい」
「秋に採れたタクアンを、冷たい水で洗い、軒先で乾し、その後、囲炉裏の煙で燻すんです。
それぞれの家の味がある、この地方独特の漬物ですよ。
これをこの茶粥に合わせると、どんなバッドコンディションでもするすると喉を通りますよ」

皆は丹波の説明を聞き、美味しさが増したような気がして、漬物に箸を伸ばす。
昌義もそれを口にして、そのまろやか味に驚いた。
確かに燻製の匂いがして、苦味も有るが、大根の自然な甘さが出ている洗練された味だった。
それに茶粥を合わせると、茶粥の旨みが強調される。ついつい、三杯もお替りしていた。

すっかり満腹になり、ダイニングを出てロビーに向かいながら、昌義はタバコが無くなったのに気がついた。
「ちょっと、タバコ取って来ます」
「私のタバコを差し上げますわ」
陽子も碧子も坂田も、輸入タバコを吸っている。丹波はシガーだ。

「お気持ちはありがたいのですが、やはり、吸い慣れたのが良いので、取ってきます」
「僕もちょっと部屋に帰ってきます」
坂田が一緒にエレベーターに乗った。

三階の部屋からタバコを持ってロビーに戻り、新聞を取ろうとフロントの前の新聞のフォルダ―の前に行く。
「シーファ」と言う言葉が耳に入った。
昌義に気付かず、フロントの女性二人が話している。
「へ―、知らなかったの?」
「うん」
「そっか、今回、何か変だと思っていたんだよね」
「変って?」
「だって、今回のゲスト、なんか凄いメンバ―だよ」
「そう言われれば……」
「大楠碧子、華楠、岡さやか……凄いよね。それに丹波先生でしょ?
大鶴さんなんか、緊張で吐いてたよ」
「そうだよね。私だって、毎日、どきどき。身体に悪いわ」
「史記さんも何を企んでいるのかしら?」
「ミステリ―ツア―かなんかかな?」
女性たちはこそこそと話し合っている。
「ミステリ―ツア―?」

――このフロントの女たちは満月伝説のことを知らないのか? 

昌義はおかしいと思ったが、直ぐに思い直した。
この従業員たちまで満月伝説のことを知ってしまえば、このホテルの従業員全部がライバルになる。
昌義はそれまでは彼女たちに「シーファ」とは何かを問いただそうと思っていたのだが、止めることにした。
 
新聞を取り、喫煙席に戻ると、坂田が戻っていて、全員、そこで談笑している。
「楽しそうですね」
「ああ、山田さん」
「今、お諸仏さんのことを話していたんですよ」
「それは、それは」
願ってもない展開だと昌義は期待する。
「皆さん、どうやってお諸仏さんに出会ったんですか?」
丹波がコホンと咳払いする。
坂田と陽子は顔を見合わせる。
碧子はテーブルのコーヒーを飲み干して話し出す。

「如何すれば良いか教えて上げる。
今夜、満月が昇ったら、このロビーで待っているの。
林の中から、お諸仏さんたちが現れる迄……
お諸仏さんが現れたら、あなたは自分の真実を話す。
そして、願い事する」
「それで、どうなるんですか?」
「候補が何人か居るから、一人ずつ、お願いしていくの。
お諸仏さんたちが話し合って、あなたの望みを適えるかどうか決めるわ」

「僕には何の才能も無い……」
つい本音が出た。
「才能は要らないわ、真実さえあれば」
「真実って?」
「あなたが自分の人生を反省して、これからの人生で成さなければならないものがあるというなら……」
「成さなければならないこと……」
昌義は勢い込んで言った。
「ええ、僕には、それが有ります」
「だったら、あなたには候補の資格がある。
心からの願いをお諸仏さんにぶっつけるしかないっしょ?」

碧子の言葉をご宣託のように聞き、昌義は勢い込んで話す。
「僕はお諸仏さんに適えて貰いたい願いがある……」
「頑張ってね」
真面目な顔で碧子が言う。
「適うと良いわね」
陽子は嫣然と微笑む。
「頑張ってください」
坂田は昌義に握手の手を差し出す。
丹波はうんうんと頷いてやはり握手の手を差し出した。
「僕は、ここに来て、本当に良かった。
こんな暖かい励ましを誰かに貰えるなんて……見ず知らずの僕に、こんな……」
昌義は丹波と握手しながら、息が詰まって、声が出なくなった。

――こんな人たちが居るのか? 
この世智辛い世の中に、こんな人たちが……
杉崎、お前を生き返らせて、この人たちに合わせてあげたい。
俺はとんでもない人間だが、こんなに素晴らしい人たちと巡り合えたって……

「ところで、鶴の湯に行きましょうよ」
陽子が言い出した。
鶴の湯は秘湯というと一番に名前の挙がる温泉で、昌義も芸能人が乳白色の湯に使っている映像をテレビで見たことがある。
その温泉がこの田沢湖高原の奥にあることは昌義も調べていた。
「鶴の湯はいいですな」
坂田も相槌を打つ。
「丹波さん、今日は?」
「良いですよ、行きましょう」
「ここに来たら、玉川温泉も良いけど、鶴の湯にも行かなきゃ。
日本の秘湯というと一番に名の挙がるところよ。山田さんも行きましょうよ」
陽子の言葉に坂田も頷く。
「良いところですよ。特に紅葉の頃の景色は素晴らしい。
それにあの下から湯の沸いてくる感覚は堪りません」
「混浴もあるのよ」
碧子が付け足す。
「一緒に入りましょうよ」
陽子の誘いは魅惑的な誘惑だった。
「どうなの、山田さん?」
「もちろん、ご一緒させていただきます」
昌義は躊躇い無く言った。

「皆でお風呂に入って、ビ―ルを飲んで、きりたんぽ鍋を食べましょう」
陽子が立ち上がる。
「そうと決まれば、さっさと支度して。出かけるわよ」
碧子の号令で、皆、慌てて立つ。


青い空を切り取る真っ赤に紅葉したナナカマドの葉。
金色に輝くブナの森。
腐葉土の匂い。キノコの匂い。風に飛ぶ落ち葉。そして、乳白色の温泉。
「良いところだなあ」
湯に浮かんだ落ち葉を掬いながら昌義はため息をつく。
「良いところでしょ?」
丹波は傍らの岩に置いた冷酒の盃を取り、飲む。
「天国ですよ」
頭の上に乗せたタオルを取り、汗の吹き出た顔を拭きながら坂田は頷く。
露天の男湯で、彼らは何とはなしに空を見上げる。
「空気の層の向うに宇宙が見えるようだ」
坂田がため息を漏らす。
「坂田さんはロマンチストだな」
丹波は目を細める。

「そう云えば、坂田さん、そろそろ、どうです?
陽子さんとのご結婚は?」
その言葉に昌義は驚き、坂田を見るが、坂田は首を振る。
「結婚は無理でしょう」
「あ、あれですか、あの、彼女が家庭的じゃないからですか?」
昌義は昨日の会話を思い出し、問い質す。
「いや、そうじゃありませんよ」
坂田は空を見上げたまま続ける。
「あの人は誰とも結婚できないでしょう。
あの人の中には鴇野雄一郎が居る。彼は死んでも、彼女を放さないんです」
「そんなに良い人だったんですか? 鴇野雄一郎って……」
「良い人ってのは、どうかな?
確かに凄い人だったけど、夫向きじゃなかったんじゃないかな?」
「陽子さんはどうして、お諸仏さんに彼の生き返りを願わなかったんだろう?」
昌義の言葉に坂田は目を丸くする。
「生き返りねえ? 
ああ、あの時は、雄一郎はまだ生きていたから……」
「山田さんはお諸仏さんにお友達の生き返りを願うつもりなんだそうですよ」

「へえ、そんなに大事な人だったんですか?
でも、お諸仏さんにそんなこと出来るのかなあ?」
坂田は丹波ほどお諸仏さんを信じていないようだ。
「それに、果たして、本人は生き返りたいんですかね?」

その言葉に昌義は胸を突かれた。
――自殺した杉崎、俺を憎んでいるだろうか?
俺の勝手で生き返らされても、喜ばないかもしれない……

様子を見て昌義の動揺を察した丹波は穏やかに話しかける。
「山田さん、大丈夫ですか?」
「ああ、ええ、大丈夫です」
「悪いこと言ってしまったかな?」
坂田が頭を掻く。
「いや、そんな……そうですよね。喜ばないかもしれませんね」
昌義は溢れそうになる気持ちを誤魔化すために、ばしゃばしゃ湯を顔に掛け、声を振り絞った。
「いやあ、良い湯です」
丹波と坂田は黙って、空を見上げる。遠くで鳥の鳴き声が聴こえた。

鶴の湯の木造平屋の新館の囲炉裏の部屋で、全員で昼食を取り、また、湯に浸かり、ビ―ルを飲み、三度、湯に浸かり、のんびりと半日を過ごした。
夕方、暗くなる前にホテルの駐車場までもどると、フロントの山本が血相を変えて迎えに出てきた。
「山田様、警察の方がお見えです」
「警察?」
 
その刑事たちはロビーで昌義を待っていた。
百九十センチは有りそうな長身の若い刑事と、百六十センチそこそこの中年の目つきの鋭い刑事たちは、出されたコーヒーを飲んでいた。
二人は昌義を見ると立ち上がり、黙礼する。

「山田ですが……」
「いやあ、鶴の湯にお出かけだったそうで?」
中年の刑事が愛想良く話しかける。だが、目は笑っていなかった。
「ええ」
「あそこは良かったっしょ?」
「ええ、で、何か?」
「ちょっと、お訊きしたいことがありましてね。あ、私、佐々木と言います」
「千葉です」
年配の刑事が佐々木で、若いほうが千葉だった。
「ああ、どうぞ、座ってください」

昌義が彼らの向かいに座ると、若い刑事は写真を取り出す。
免許証の写真のようだ。
正面を向き、真面目な表情で写っていたのはあの亜里沙の店のボーイだった。

「この人、ご存知ですね?」
「ええ、僕が良く行く地元のクラブの従業員だと思うけど……」
「『マリエンバ―ド』にお勤めの鈴木拓也さんです」
「名前は初めて知りました。彼がどうかしたんですか?」
「実は鈴木さん、亡くなりましてね」
「亡くなった……?」

――昨日は生きていたぞ。俺を殺そうとしていた……

「ええ、今朝、この先の林の中で、死んでいるのが発見されたんすよ」
「この先って……?」

――なぜ、そんなところで死んだんだ?
まさか、俺を殺しに来たのか?

若い刑事が上目遣いに昌義を見る。
「夕べ、九時頃はどちらに?」
「このホテルにいました」
「ここに?」
刑事たちは驚いたように顔を見合わせる。
「こんただとこで、何していたんすか?」

――こんただとこってとはこんなところってことか?

変な質問だと思いながらも、昌義は正直に答える。
「皆さんと一緒に飲んでいました」
「そうですか……皆さんというのは?」
年配の男が疑り深そうな目つきで見るのを感じ、昌義は思わず、隣りの席でタバコを吸っている丹波達に話しかける。
「すみません、あの、夕べの事、この人たちに話してくれませんか?」
若い方の刑事がそれを遮る。
「あ、後で、お一人ずつお聞きしますので……」

「千葉君、ここじゃ何だから……」
年配の刑事が皆の前では不味いと思ったのか、通りかかった支配人を呼び止める。
「あ、君、どこか話できる場所は無いか?」
「それでは、ダイニングのほうへどうぞ」

支配人は三人をダイニングに案内する。
「へ―、ここ、こんな風になっているんだ?」
若い方の刑事が物珍しそうに、辺りを見回す。
どうやら、彼らはこのホテルに入るのは初めてのようだ。

窓際の席で、刑事たちは再び尋問を始める。 
「何時くらいまで、飲んでいたんすか?」
「二時半か三時くらいだったと思いますが……」
「それからは?」
「部屋に帰って寝ました」
「その後、夜中に外に出られたとか言うことは?」
「有りませんよ。朝までぐっすり寝ました。といっても、七時には起きましたが……」
「そうですか……」
「こちらには奥さんもご一緒だとか?」
若い刑事はメモを見て訊ねる。
どうやら、昌義の帰りを待つついでにホテルの従業員に色々訊いていたようだ。
「一緒に来たんですが……一足先に帰って、今はハワイだと思います」

「ハワイ……って、あのハワイ? 外国の?」
素っ頓狂な声を佐々木が出す。
変な質問だ。
昌義もついぶっきら棒になる。
「それ以外、どこにハワイがあるんですか?」

「常磐ハワイがあるべさ」
年配の刑事がにんまり笑う。
「何ですか? それ」
「あれ、おめ、常磐ハワイ知らねのけ?」
「知りませんよ」
「へ―、あっちじゃ有名じゃないんだ?」
「佐々木さん、常磐ハワイなんかどうでも良いっしょ?」
「んだ、んだ。そっか、奥さん、いねがったのか。ま、身内の証言はアリバイにはなんねし……」

昌義は不安になった。今の話では彼らは昌義を疑っているらしい。

――亜里沙はどうしたのだろう? 
亜里沙もまさか?

「その、刑事さん、一体、何が何だかさっぱり判らないんですが、その、鈴木さんは何故死んだんですか?」
 刑事たちは顔を見合わせる。
「言って良いんだべか?」
「良いっしょ」
相談の結果、話しても良いという結論になったらしい。
千葉が話し始めた。
昌義もそのほうが助かる。
佐々木の方言では、「理解する」より「想像する」になってしまう。

千葉は周りを見回し、声を潜める。
「実は、東京の警視庁捜査一課の刑事殿が、お忍びで、この近くのホテルに泊まっているんですよ」
「はあ?」
「それで、今朝がた、婚約者の方と散歩されていたところ、林の中で、変死体を見つけたということです。
ま、死因は検死の結果、中毒死と判ったんすがね」
「中毒死?」
「なんとまあ、ツキヨダケ、食っちまったんですよ」
夕べ聞いたばかりのキノコの名前が出て、昌義は思わず
「あの闇夜でも光るという毒キノコですか?」
と訊いてしまった。

「あっら―、知ってる―?」
佐々木が素っ頓狂な声を出す。
「夕べ、食事の時にその話が出ました」
「あら―、それは、それは……」
佐々木と千葉は思わせぶりに視線を交わす。
佐々木が続ける。
「んで、何処で、そんなもん食ったのか判らんのよ」
「心当たり無いですか?」
千葉の問いに、昌義は首を振る。

「でもねえ、鈴木の手帳に、あんたの名刺が挟まっていて、それにあんたの泊まっているホテルの電話番号が書いてあったし、この近くで亡くなったとなると、やっぱし、あんたに訊くしかないっしょ?」
「確かに……」
つい、納得してしまい、慌てて、
「でも、そう云われても僕には心当たりなんか……」

――大いにあった。多分、亜里沙に命じられて俺を殺そうとしていたに違いない。
 
若い刑事も困ったように、ダインニングの入り口を顎で示す。
「ま、確かに、あんたのアリバイは、ここの従業員もあんたが言ったとおりに答えているし……
でもねえ、何のためにここさ来ただか……」
「何処に止まっていたんですか?」
「いや、この近くのホテルに問い合わせたども、宿泊名簿には鈴木拓也なんた名前は無いのしゃ。
行方不明の宿泊客もいねし……」
「何処にも泊まっていないんですか?」
「んだ」
恐る恐る、昌義は訊いてみる。
「あの、その人は、一人だったんですか?」
「一人って?」
「いや、こんなところに一人で来るのは、ちょっと、考えられないから……」
「連れがいた可能性……うん、あるかもしれないな」
千葉が言い出し、佐々木が頷く。
「んだな。その線でちょっくら調べてみっか?」
二人は昌義が理解不能の会話を少し交わした。

やがて、千葉が昌義に向き直り、
「したらば、そういうことで、山田さんは明日までここにいるんだすな?」
「はあ」
言葉があまり理解できず、昌義は曖昧に頷く。
「ひば、また、あとで、寄らせてもらいますわ」
「ひば……」
刑事二人はそそくさと帰っていく。

彼らを見送り、呆然としている昌義に、ダイニングに入ってきた丹波が声を掛ける。
「どうでした?」
丹波の顔を見た途端、昌義は鈴木の死因を思い出した。

――ツキヨダケの中毒!

「丹波さん、ツキヨダケ、何処に捨てたんですか?」
昌義の迫力に驚きつつも、丹波は、笑顔で答える。
「あれは、ちゃんとゴミ箱に捨てましたよ」
「良かった―」
ふ―と息を突き、テーブルに突っ伏す昌義を、丹波も、後からダイニングに入ってきた碧子たち三人も、訳がわからずに、見守っている。

「ツキヨダケの中毒ですか……」
「そう言っていました」
「丹波さん、本当に大丈夫なの?」
「ゴミ箱に捨てたから大丈夫……」
そう言いながらも心配になったらしく、丹波は突然、立ちあがり急いでダイニングの奥の厨房に向かう。
「それにしても、その人、何だって山田さんの泊まっているホテルの電話番号なんか持っていたんですか?」
坂田が丹波を見送りながら聞く。
「さあ」

そう答えながらも、「理由は判っている。俺を殺すためだ」と昌義は思う。

 ――亜里沙はどうしたのだろう? 一緒じゃなかったのか? 

山の中で斃れている亜里沙を想像して、昌義は首を振る。
「それにしても、夕べ、ツキヨダケの話をしている間に、その人はツキヨダケを食べていたことになるのかしら?
何だか怖いわ」
陽子は寒気を覚えたように二の腕を擦っている。
「大変だ」
厨房に行っていた丹波が厨房の入り口で怒鳴る。
「どうしたんです?」
丹波はよろよろと皆のところに来て、ぺたんと昌義の前の椅子に腰掛ける。
「どうしたんです、丹波さん?」
「ツキヨダケが……ゴミ箱に捨てたはずのツキヨダケが無くなっている」
全員、絶句する。

息を呑んで、最初に口を開いたのは碧子だった。
「どういうこと……?」
蒼醒めた顔の丹波は漸く息を吐き、話し始める。
「今、厨房でゴミ箱を確認したんだ。
ここのゴミ箱は毎日、回収に来なくて、昨日のが、まだ、残っていたからね。
見たが、ツキヨダケを入れた紙袋が無くなっていた」
「それでは、死んだ鈴木がゴミ箱漁りして、ツキヨダケを持ち出して食べちゃったってこと?」
「まさか、そんな……」
「しかし、無くなっていると言う事はその可能性も有りだな」

「下手すると、誰かが持ち出して食べさせたとか……?」
碧子の言葉に一瞬、会話が途切れた。
昌義は皆が自分を見ない振りをしているようで居た堪れず、
「僕じゃ有りませんよ」
言わずもがなの弁解をしてしまった。

碧子の鋭い声が飛ぶ。
「そんなの判っているわよ。私たち、ず―っと、一緒だったんだから」
「心配は要らないですよ、山田さん、私たちが証人です」
坂田も、昌義の肩を叩く。
丹波が沈痛な面持ちで言い出した。
「警察に話したほうが良いだろうか?」
「それはどうかと……山田さんに要らぬ嫌疑が掛りかねません」
「そうですわ。きっと、山田さんを犯人に仕立てますわ」
「史記に、史記に報告してくる」
碧子が立ち上がる。
「そうですね、それが良い……」
坂田がそう言い、碧子が歩き始めた瞬間、ダイニングに歩夢が入ってきた。

「どうしたんですか?」
歩夢はにこやかに碧子に語りかける。
「あ、あの……」
碧子が口ごもり、昌義達のほうを振り返る。
「警察の人が来ていましたね」
「ええ」
「ぼくらはもう事情を聞かれたんですよ」
「そうなの……?」
碧子は緊張した声を出した。

「僕らは今日一日、ホテルにいましたからね。
警察が来て、僕らが最初に会いました」
歩夢は平然としている。見かけよりも芯がしっかりしている子らしい。
「それで?」
「亡くなった人、このホテルの電話番号を書いた山田さんの名刺、持っていたそうです」
「そう……みたいね」
「警察は、何も知らずにツキヨダケを採って食べた中毒か、山田さんに食べさせられたのか、判断を迷っているようでしたが……
僕ら、昨夜は山田さんとダイニングでも一緒でしたし、バ―でも十二時過ぎまで一緒でしたから、そう証言しておきました」
昌義はホ―っと胸をなでおろす。
「ありがとう、助かります」
「推理作家なら、これをどう推理するかな?」
碧子が「どう、思う?」と歩夢に訊く。

「さあ、僕は作家じゃないから判らないけど、何もしないのか一番じゃないかな。
ほら、ヤブヘビっていうでしょ?」
その言葉に、皆ハッとする。
「そうだな、そうしよう。僕らは何も悪いことはしていない」
坂田がそう呟く。
「とりあえず、史記に内容だけは連絡しておくわ。
あの人のことだから何か気付いたかもしれない」
碧子は歩き出そうとする。
「でも、史記さんは、昨日は部屋に籠もりきりだったじゃないですか?」
そう言った途端、全員の視線を受けて、昌義はたじたじとなる。
「だって、食事の時間にはいなかったから……」
碧子は微笑んで、昌義に言った。
「最初から説明してくるわ」
碧子の後を、歩夢も着いていく。

残った四人は、ロビーに戻りコーヒーを飲むことにした。
坂田が注文に立った。
陽子が「大変なことになったわね」
そう言いながらも、この女性はあまり動じていないように見える。
女のほうが、度胸が据わって居るのかもしれないと昌義は思う。
それに比べて、丹波はかなりショックを受けているようだ。

「まさか、僕が採ったツキヨダケでは……」
「まさか」
陽子が笑い飛ばす。
「そうですよ。仮にそうだとしても、丹波さんのせいじゃ有りません」
昌義もつい余計なことを言ってしまう。

昌義は亜里沙にあったこと、亜里沙と鈴木に殺されそうになったことを話そうかと思ったが、そうすると、杉崎のことを話さざるを得ないと思い、辞めた。
コーヒーを飲み終えると、みな着替えのために部屋にもどることになった。
昌義も部屋に帰り、タキシードに着替えて、タバコを取り出し、ベランダに向かう。

満月は明るく、辺りは薄墨色に染まっている。

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November 23, 2004

満月伝説 #5 幽霊

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「山田さん」
呆然と立っていた昌義は、その声に飛び上がった。
三人が立っていた。
歩夢が心配そうに声を掛けてくる。
「どうしたんですか?」

「あ、いや、今、ここに子供がいたんだが……」
夢だったのかと昌義は思う。
あれは昌義の出た小学校のジャ―ジ―だった。
真冬でも、ずっと、杉崎は短パンで通していた。この北の国の寒い秋に、あの頃のことを思い出したのだろう。

――それにしても、白昼夢を見るとは、俺も終わりだ。

「もう、行きませんか? 玉川温泉まで、もう少しですよ」
祐一がそう言い、先に歩いていく。
歩夢とももこが続き、昌義も振り返りつつ、車に戻った。

それから、小一時間、車で走った。
もうひとつの新しいダムの側を走り、山道を走ると、やがて、焼けたように削り取られた赤い山肌が見え始めた。
煙がもうもうと上がっている。
玉川温泉だ。

硫黄の強い臭いがする。
車を上の駐車場で止めて、谷底のようなところに下りると、もう、そこは地面が熱く、ところどころに湯が吹き出ていた。
「凄い、こんなところから湯が沸いているよ」
歩夢が驚きの声を上げる。
「周りが黄色いのは硫黄分だな」
「硫黄の臭いって、何だか腐った卵みたいな匂いじゃない?」
後の二人は醒めた表情でそんなことを言っている。

歩夢は少しでも足場の悪いところでは、ももこに手を差し伸べる。
ももこはそれを自然に受けている。
昌義は歩夢を見て、小学生の頃の同級生、男女を問わず人気のあった少年を思い出した。
彼は多くの女の子の初恋の人になった素直で優しい可愛い顔立ちの少年で、今は福祉関係の仕事をしていると聞いた。
祐一は個性の強い優等生タイプ、結構、運動神経も良いように見える。
少し近づきがたいほど整った顔立ちは誰かに似ているような気がしたが、その誰かを思い出せず、昌義は胸に何か痞えているような気分になった。
ももこには、何ともいえない違和感を感じた。
可愛い女の子なのに、およそ色気と言うものが無い。
そんなまるっきり個性の違う三人が、阿吽の呼吸で、相手の言いたい事やしたい事を理解しているように見えるのは不思議だった。

温泉施設には入らずに遊歩道を歩くことにした。
遊歩道の側を熱湯の川が流れている。
「玉川毒水だ」
祐一がその川を指差す。
「この水が川に流れていた頃は、川水は毒水で、生き物が棲めなかったそうだ。
この川の水が流れ込んでいたから、田沢湖には魚がいなくなったというよ」

どこから、仕入れた知識か知らないが、祐一がそんなことを言う。
昌義はその強烈な匂いに、あのホ―ムペ―ジの文章を思い出していた。
強烈な酸性の温泉の成分、それが空気まで酸性にしている。
だから、金属はすぐに錆びる。テレビや冷蔵庫さえ、置けない温泉。

「なんだか、毒をもって毒を制すと言う言葉が実感できる匂いね」
病人が聞いたら、怒りそうなことをももこは言っている。
「ももこさん、僕ら、待っているから、入ってきたら?」
祐一が、信じられないほど優しい声で言った。
「そうだよ、入ってきたら。
僕ら、この辺で、ぶらぶらしているから。いいでしょ? 山田さん」
歩夢が昌義を見る。
いやだと言える立場でもないので、昌義は頷いた。

「いいわ。もう、帰りましょう。
少し、疲れたし、ここでは、昼食を取るのは無理だわ」
「そうだな、食事を出来るようなところも無いし、帰ろう」
昌義も異存は無かった。

急な坂道を登る。
硫黄の匂いの上に坂道が急なので、眩暈がして、昌義は途中何度か立ち止まったが、少年たちはいたって健康なようで軽い足取りだった。
だが、ももこは息が苦しそうだ。
「大丈夫ですか? ももこさん」
昌義が声を掛けると、ももこは青白い顔で笑う。
そのやり取りで、少年達は気がついたらしい。
歩夢が「おんぶしたげようか?」などと言い出したが、ももこは首を振る。
漸く駐車場に戻ったところで、昌義はももこに声を掛ける。
「運転、代わろうか?」
「お願いできますかあ?」
ももこはほっとしたような顔をした。
あどけない顔がさらに子供に見える。

昌義が運転し、史記は助手席に座った。
運転して見ると、ジャガーは見た目よりは運転しやすい車だった。
「いい車ですね」
快適なエンジン音は気分を高揚させる。
「ええ、結構、気に入っているんですよ」
そう言いながらも、助手席に座ったももこはまだ顔色が悪かった。
「どこか、具合が悪いんですか? ももこさん」
「え、どうして?」
「いや、少し、顔色が悪いから……」
そういった途端、後部座席の歩夢が、持ってきていたポットを取り出しカップに中身を注ぐと、ももこに差し出した。
車内に良い香りが広がる。
ほんのり暖まるような匂いだ。
「少し車を止めて、山田さんも如何ですか?」
祐一の言葉に従って、昌義は新しいダムに掛かった橋の上で車を止めた。

このダム湖は行きに車を止めたダム湖よりも急峻な山に囲まれていて、幅が狭い。
向うのダムが湖のような佇まいなら、こちらは山の中の大きな川のように見えた。
五百mほどの長さの橋の先の道は行き止まりになっている。
ダムを囲む山々は紅葉が素晴らしく、風に葉が裏返るのか、きらきら光っている。
 
歩夢に貰った飲み物を持って車外に出ると、吹きぬける風は身を縮めるほど冷たかった。
だが、それが心地良かった。
祐一も飲み物を持って車から降りて来る。
昌義の隣に並ぶと、身を乗り出して、欄干から湖水を覗く。

昌義が、この風の中でもしっかり香る紅茶の匂いをくんと嗅いで、首を傾げると、
「ア―ルグレイですよ」
「え?」
「その紅茶」
祐一が昌義を見ていた。
子供っぽいことをしているのを見られたのを恥じ、昌義は必要以上に褒めてしまった。
「ああ、なんだか、いい匂いだね。それに美味しい」
「温まりますよね」
「ああ」
昌義はカップを橋の手すりにおいて、タバコに火をつける。
祐一は風に飛ばされないように、そのカップを支えた。

「この下に、昔、玉川という集落があったそうですよ」
「今は、水の底か……住んでいた人たちはどこに行ったんだろう?」
「生保内という田沢湖駅のあるところに移ったそうです」
「オボナイ?」
「アイヌの言葉らしいですよ。生きる、保つ、内、と書いてオボナイ、深い川という意味だそうです」
「このあたりは、お諸仏さんといい、アイヌ名のついた場所といい、古くからの由緒のある土地なんだな」
 ――こんな山の中に、何故、皆住もうと考えたんだろう?
「こんな所にねえ……恐ろしく不便そうだ」
その疑問を口にすると、祐一はニコリともせずに即座に答えた。
「なんといっても、東北地方は三内丸山遺跡のある場所ですからね。
縄文人が居た場所ですから……
その時代は歩いていける範囲が生活圏で、そこにすべてが揃っていれば、どこに行く必要も無かったんでしょう。
この山を見てください。
豊かな恵みをもたらしたに違いない。
ここにいれば山や川が生活に必要なものを与えてくれたんですよ」
祐一は頭の良い子らしくそんな知識をひけらかす。
そして、じっと昌義を見ると、訊いた。
「さっき、男の子がいたって、言ってましたよね?」
「ああ、思い違いだった。あんなところにいるわけがない」

昌義は苦笑いする。
車に戻ったときに、辺りを見回したが、その駐車場には彼らの車しかなかった。
その下の駐車場にも、道路にも、止まっている車は無かった。
それに、杉崎の少年時代とそっくりの少年がこんなところに居るはずが無い。

「それより、彼女、どこか悪いのかい?」
ももこの様子が心配になり、訊ねると
「ええ、去年、ちょっと怪我をしましてね。寒くなると痛むようなんです。
冷えや、疲れすぎは禁物なんですよ」
祐一は車を見やりながら言う。
その口調は優しさに満ちている。
「君たち、ずいぶん、彼女のこと大切にしているんだね」
昌義はからかい口調に言ったのだが、
「彼女は僕らの大事な人なんですよ」
祐一はなんの衒いも無く答える。

「へ―、年上の恋人なのか、恋愛関係には見えないけど……」
昌義の言葉に祐一は照れくさそうに笑うと、
「そんなんじゃないですよ。少なくとも、僕はね」
そして真面目な顔になり、言った。
「彼女は、居なきゃいけないんですよ。僕らのためにも、この国のためにも」
「この国のためって、大げさだな。
そういえば、クリエ―タ―って、どんな仕事なの?」
あんな小娘が日本に何かを与えられる存在とは到底思えなかった。
「木を植えているんですよ」
――木を植えるって、植林?
昌義が聞き返そうとするのを遮るように昌義に紙コップを渡すと、祐一はさっさと車に戻った。
歩夢が窓から顔を出し、声を掛ける。
「そろそろ行きましょうか?」

最後の一服をしてタバコを消し、紅茶を飲み干し、昌義も車に戻った。
ももこは大分顔色が良くなっていた。
「ごめんなさい。ご心配かけて……少し、冷えてしまったみたい」
「それじゃ、とっとと、ホテルに帰りましょうか?」

「田沢湖に行きませんか?」
歩夢が言い出す。
「今、ももこさんと話していたんだけど、田沢湖に寄って帰りましょう。
昼ごはんもまだだし……」
「ああ、いいけど、うちの奥さんはどうしているかな?」
「ああ、そうですね。この次の集落に着けば、きっと携帯が使えますよ」

ダム湖を抜けて小さな集落についてすぐに、車を止めて、昌義は美奈子に電話した。
何回か呼び出すと、美奈子が出た。
かなり雑音がひどい。

「あら、あなた、さっきから何回も電話していたのよ」
それが本当なら、普段はこんな穏やかな声ではないが、今日は余所行きの声を出している。
どうせ、岡夫人が傍に居るのだろう。
「あなた、私、岡さんにご招待いただいて、今、東京に向かっているの。今日は帰れないわ」
「帰れないって、お前……」
「あなたのタキシードは、岡さんの運転手さんが持っていってくださったから、心配しないで」
「なんだよ、それ」
「私は岡さんと丹波さんとご一緒に、今、東北新幹線の中なの。また、連絡するわね」
自分の言いたいことだけ言って、美奈子は電話を切る。

「奥さん、どうなさったの?」
「いや、あいつ、岡夫人たちと東京に行くって、今、新幹線の中だそうだ」
「あら、それは、それは……」
ももこが呆れたように言うのに対して、歩夢は
「置いていかれたんですか? 寂しいですね」
慰めるように言う。
この少年には悪意というものがまるで感じられない。馬鹿かと思えるほどだ。
「ま、いいけどね」
と言いながら、昌義は、内心、ほっとしていた。
お諸仏のことを夜までに話さなければ不味いかもしれないと思っていたのだが、話さずに済んで幸いだった。
「岡夫人ともなると、お諸仏さんのご利益なんか要らないんだな」
昌義のつぶやきに祐一がませた口調で言う。
「人の幸不幸は、他人には見えないものですよ」

「とりあえず、田沢湖に行きましょう。お腹空いたわ」
ももこの言葉で、皆、空腹を思い出した。
高原には戻らず、田沢湖に向かう。
 
田沢湖にはその道から小さな山を登っていく。
坂道を登りきると目の前に湖があった。
小さな湖だ。
周りにはホテルや土産物屋がごちゃごちゃと並んでいる。
田沢湖は直径約六km、周囲二〇㎞、面積二五.五平方㎞の六角形に近い円形の小さな湖だ。
だが、その深さは最深四二三mと日本一、世界でも十七番目の深さを誇る。
まるで、お風呂の湯を汲む桶のような形をしていることになる。

噴火の後に水が溜まったカルデラ湖と思われているが、実態はわかっていない。
湖面の標高が二四九mなので、湖底は海面下、一七四mに達することになる。
透明度は大きく、水色と藍色の美しい湖だ。
今日は風が強く、白い波が立っている。

湖畔のレストランに入る。
デパ―トの食堂のように、なんでもありのメニュ―の中から、四人は、辰子定食というものを頼んだ。
刺身が付いているので心配だったが、結構新鮮で煮物も美味しかった。
昌義が不思議だったのは、彼らが食事をしながら、なにか物足りなさそうにしていることだった。
そして、食事のスピ―ドがかなり速いのに驚いた。
なにかに追われているように食べている。

彼らは、食後の飲み物が出て、ようやく落ち着いたようだった。
昌義はタバコが吸いたくて、「ちょっと、出てくるよ」と断って、外に出た。

ぶらぶらと、目の前の砂浜に向かって歩く。
観光シ―ズンが終わったからか、寒いからか、砂浜には人影が無かった。
小さな湖の水は風が強いせいで、ゼリ―のように震え、波立っている。
細かな砂を踏みながら水辺まで歩く。
海辺で育った昌義には砂浜は見慣れたものだが、三河湾の広がりに比べて、この湖は手を伸ばせば、対岸に手が届きそうで面白かった。

子供の頃、昌義が杉崎と遊んだ海岸は、埋め立てられてもう無い。
国立公園の中にある市は、山を開発できず、海へ海へと市街地を延ばしている。

振り返ると、駒ヶ岳が、青空にくっきりと聳えている。
頂上には白いものが見える。その山に続く稜線がなだらかな線を描いている。
――今頃、彼らはどうしているのだろう?

「この水、凄く冷たい……」
角館に行くと言っていた碧子たちのことを考えながら、タバコに火をつけてほっとした瞬間、後ろから声が聞こえた。
思い振り返ると、中学生くらいの少年が波打ち際に裸足で立って昌義を見ていた。

「昌義は、泳ぎ下手だもんな。こんなところで泳いだら、溺れちゃうな」
綿のチェックのシャツ、紺色の長袖セ―タ―を首にかけて袖を結んでいる。
ジーンズの裾を打ち寄せる波が濡らしている。
杉崎だった。

海の側で生まれ育ったというのに、昌義は泳ぎが苦手で、杉崎はいつもそれをからかっていた。

「竹島で、いつか、お前、溺れただろう? 
あの時は焦ったよな。あんなところで溺れるとは思わなかったもん」

そう言うと、少年は二十m位沖にある飛び込み台を指差す。
「あそこでも、かなり深いんだって。
それに、田沢湖は湧き水だから冷たい水の塊があって、心臓麻痺で死んだ人が結構居るんだよ」
「杉崎……」
「まったく、お前って、泳ぎだけじゃなく、危なっかしいな」
そういって笑う顔は、確かに中学時代の杉崎だった。

「杉崎……」
そういって、少年に手を伸ばそうとした昌義は、
「山田さん」
突然、後ろから呼ばれて、振り返った。

歩夢と祐一が立っている。
「どうしたんですか?顔色、悪いですよ」
歩夢が心配そうに言う。
「今、ここに……」
振り返ると、そこにはただ、波が打ち寄せているだけだった。
杉崎の姿は消えていた。

「ももこが、疲れちゃっているみたいだから、帰ろうと思うんですけど……」
「わかった。今、行くよ」
祐一と歩夢は砂浜を先に戻っていく。
その後を追いながら、昌義はこの意味を考えている。

――誰かのいたずらだろうか……だが、何のために?

竹島で溺れたことは、昌義と杉崎の秘密だった。
昌義が恥ずかしいから言わないでくれと、助けてくれた杉崎に頼んで、杉崎はそれを律儀に守っていた。

――何よりも、あのいたずらっぽい目、あれは紛れもなく中学時代の杉崎だ。


高原のホテルに帰りついたのは、三時近かった。
車を運転しながら昌義は、ずっと、杉崎のことを考えていた。
ももこはかなり調子が良くないようで、歩夢と祐一はその心配をしていて、昌義には興味が無いようだった。
まっすぐ部屋に戻るという彼らとロビーで別れて、テラスに出ると、碧子と坂田がガーデンチェアに座り、ビ―ルを飲んでいた。

「お子様方とのお出かけは如何でした?」
碧子が笑いかける。
「楽しかったですよ」
「玉川温泉に行ったんですか?」
坂田が訊く。
「ええ、ついでに鳩峰神社とお諸仏さんと田沢湖です」
「ほう、それは盛り沢山ですな」
「疲れたでしょう?」

確かに昌義は疲れていた。
碧子の隣の椅子のどさっと座り、タバコに火を点ける。
「角館は如何でしたか?」
「スッゴク良かったわ。いっぱい買い物してきちゃった。
天気も良くて……明日も晴れそうね」
碧子は嬉しそうに言う。
「雨だと、お諸仏さん、来ないんですかね」
「そんなことは無いが、やはり、満月の中で迎えるのが一番だ。感動的だよ。」
坂田は何かを思い浮かべるように、虚空を見つめる。
「もう、願い事は決まっているの?」
碧子は興味津々と言った様子で昌義に尋ねる。
「まあ……」
煙を吐き出しながら、曖昧に昌義は答える。

――お諸仏さんなんて荒唐無稽の話、本当に信じて良いんだろうか……
でも、杉崎が、どうして……死んだ人間が現れるんだ?

「ところで、奥さんは?」
坂田が辺りを見回す。
「ああ、岡夫人や丹波夫人と東京に行きました」
「まあ」碧子が目を見張る。
「それじゃ、今晩は帰らない?」
坂田の問いに、「そうみたいですよ」と答えると、
「まあ、それは、それは……」
碧子は呆れる。

「夫婦って、面白いわね」
「碧子さん、ご結婚、まだですか?」
昌義は、これはセクハラと思われるだろうかとヒヤヒヤしながら、訊いて見る。
「ええ」
「やはり、そうですか」
「あら、どうして、やはり、独身だと?」
「やはり」を強調して、碧子はキッと昌義を睨む。

「いや、やはりって、その……」
慌てて弁解しながら、昌義は言い出したことを後悔した。
「昨日、税金を一億払われたと聞いて、そんなに仕事しながら主婦業も、では大変だろうなと思って……」
「ああ、そう言う事……確かにね、私の手は主婦業まで回らないのが現状ね」
碧子は納得したように頷き、右手の中指の救急バンドを取った。
「これ見て」

中指には大きなペンダコがあり、それが割れている。
「痛そうですね」
昌義はそのペンダコの大きさと、傷口の深さに顔を顰める。
「こりゃ酷い、これは痛いでしょう?」
覗き込んだ坂田も、思わず声を上げる。

「痛いわよ。とっても」
碧子は小さなバッグから新しい救急バンドを取り出し、昌義に渡す。
昌義も何気なくそのバンドを受け取り、指に貼り付けながら訊く。
「こんなになるまで書くんですか?」
「これだけじゃないわ。腕だって、これ以上、上がらない」
そう言うと、肩の辺りまで腕を上げる。
「腱鞘炎、慢性になっちゃって……」
「自分の身体を痛めて、漫画を描いているんですね」
「この指先がこんなでなければ、もっと描けるんだけど、人間の皮膚って柔なもんだから、ペンに勝てないのよ」
「そんなに酷使されて、その言われ方では指が怒りますよ」
坂田が笑う。
「書きたいことは一杯あるから、寿命が足りるかどうか、心配」
 そう言うと、碧子は愛しそうに指先を擦る。
「漫画家って、身を削る職業なんですね」
昌義は感嘆し、「それにしても、同じ女性でうちのと碧子さんじゃ偉い違いだな」
思わず愚痴を言ってしまった。
「うちのは、自分が守られて、安泰なのは当然と思っているみたいで……見栄と意地の張り合いをして、周りを振り回す。どうしようもない奴で……」

坂田がその場を取り成すように口を挟んだ。
「まあ、良いじゃないですか。自分の稼ぎで妻子を養うっての男の甲斐性ですよ。
僕も奥さんには専業主婦で居て欲しかったな。
僕が結婚した人はとても元気な人で、うちに閉じ込めて置けなかったから、離婚してしまったけどね」
「まあ、坂田さんってバツイチ……」
碧子が目を丸くする。

「ええ、元奥さんは経済産業省のキャリアだったんですよ。
僕は結構、わがままだから、奥さんには家に居て欲しかったんです。
帰ったら、部屋が片付いていて、お風呂が沸いていて、食事が出来ていて、子供がそこらで遊んでいる……」
「ああ、そんな人、私も欲しいわ」
切実そうな声を碧子は出すが、直ぐに我に返ったようだ。坂田を睨む。
「でも、キャリアにそれを求めるのは無理じゃない? そんなの国の損失だよ」

「何のお話?」
陽子が、ダイニングからコーヒーカップを手にやってきた。
「坂田先生の理想の家庭の話」
碧子の返事に、陽子は眉を上げる。
「どんな?」
「綺麗に片付いた家に帰ると、お風呂が沸いていて食事ができていて、可愛い子供がそこいら辺で遊んでいるんだって」
「子供は居ないけれど、そんな生活、私、していますわ」
立ったまま、陽子が馬鹿にしたような目で坂田を見下す。
「家政婦さんがやってくださいますの」

坂田は苦笑して昌義を見る。
「僕の周りの女性は、皆さん、陽子さんや碧子さんのように頑張りやさんでね。男以上の頭脳と知恵を持って世に出ている。
だから、僕はいつまで経っても再婚できない」

陽子はカップをテーブルに置くと、坂田の隣のソファに深く腰掛け、足を組み、タバコに火を点ける。
昌義はその長く美しい足に釘付けになってしまった。
「結婚なんて、しなくて結構。
結婚すると、どんな優秀で自立した男でも、女でも、相手に甘えて堕落していく。
一人で立っていた人間が、結婚した途端、凭れあって、相手に要求ばかりするようになるんです」

坂田は力なく笑う。
「はは、相変わらず、君は結婚に手厳しいね」
「出来ない人間のやっかみだと思っていらっしゃるんでしょ?」
コーヒーを口に運びながら、陽子が突き放した口調で言う。
碧子も「そうそう」と相槌を打つ。

「君たちのように何もかも備えた女性が、嫉むような相手が居るとは思えないが……」
「ま、お上手ですこと」
彼らの会話を聞くともなしに聞きながら、昌義は亜里沙を思い出していた。

――亜里沙は今頃どうしているのだろう? 
あの夜以来、会わないまま、ここに来てしまった。
亜里沙なら、良き妻、良き母になるに違いない。
家に帰るのが楽しみな、楽しい家庭を作ってくれるだろう。
子供だって夢じゃない。
父親になれる。そうだ、帰ったら、美奈子と別れよう。
信用金庫を辞めて、違う土地に行って亜里沙と結婚しよう。

昌義は使い込みの件には目を瞑り、一瞬、楽しい夢を見る。
突然、携帯のベルが鳴った。
ポケットから取り出し、表示を見ると、亜里沙を示すAの字が出ている。
――ここにきていることは知っているはずなのに、どうしたのだろう?

「はい」
「亜里沙です」
「ああ」
「今、話していて大丈夫?」
「ああ、良いよ」
思わず声が和らいだ。
それを聞きつけて、碧子と陽子が意味ありげに囁き交わし、笑っている。
「奥さんは?」
「東京に行った」
「まあ、あなたは?」
「ホテルに居るよ」
「そうなの。私、どうしても会いたくて、田沢湖に居るの。
会いに来てくださる?」
「今から?」
切なげな声が言う。
「ほんのちょっとの間でもいいの。ね、来て」
その言葉に抗うことは出来なかった。
電話を切って、立ち上がろうとすると、碧子と陽子がニヤニヤして声を掛ける。
「あら、奥様がお出かけした途端に、彼女と待ち合わせですか?」
「山田さん、なかなかやりますね」
碧子と陽子に冷かされながら、フロントに行き、タクシーを頼む。

フロント係は「そういえば、奥様からということで、これをお預かりしていました」と奥から箱を持ってきた。
運転手に頼んだタキシードのようだ。
部屋に持って上がり、箱を開くと、やはり、タキシードだった。
クロ―ゼットにタキシードを掛け、ロビーに降りると、もう、タクシーが来ていた。

見慣れた坂道を下る車の中で、昌義は亜里沙の白い横顔を思い浮かべ、幸せな気分になった。

亜里沙は御座の石神社で待っているといっていた。
御座の石神社には、さっき、昌義たちが通った道からさらに湖を回って対岸にいく。
砂浜のあった場所から二十分も走ると、岩場になり、赤い鳥居が見えてきた。
タクシーの運転手に待っているようにと頼んで、降りて亜里沙を探す。
鬱蒼と繁った杉林の中に神社がある。
真っ赤な鳥居は神社と道を挟んだ反対側、湖のほうにあった。
ここにもやはり、観光客はちらほらとしか居ない。

鳥居の向こう、湖に突き出た大きな岩の上に見慣れない皮ジャンと皮のパンツ姿の亜里沙の、すらりと背の高い華奢な身体が見えた。
いつも女らしいピンクや柔らかい素材の服を着ている亜里沙にしては珍しい格好だ。
今まで皮パンツ姿など見たことが無いので、別人かと思うほどだった。
だが、スタイルの良さは隠しようが無いし、サングラスを掛けていても、形の良い唇が目立っている。。
亜里沙が歩くと、すれ違う数少ない観光客が振り返る。
黒の革ジャンは、亜里沙の整った日本人形のような顔と、細い身体を引き立てている。
亜里沙は目の前まで近づいて、サングラスを取った。
その笑顔に昌義は見惚れる。

「ご免なさいね。わがまま言って……」
そう言うと上目遣いに昌義を見る亜里沙は、砂糖菓子のように甘く、美しいと昌義は思う。
絶世の美女だったという辰子姫がいたら、きっと、こんな姿だろう。
そんな女性と親しげに話すことに優越感を覚えながら、「いや、良いんだ。俺も会いたかったよ」と肩に手を回す。
亜里沙もごく自然に、昌義にしな垂れかかる。

「奥さん、どうなさったの?」
「ああ、あのホテルで知り合った奥さんたちと東京に行った。
今日は帰って来ないとさ」
「せっかくの旅行なのに、旦那様を置いて行っちゃうなんて、亜里沙、信じられない」
亜里沙は眉根を寄せて美奈子を非難する。
その姿がまた可愛くて、また、昌義は幸せな気分になった。
「あいつはそういう人なんだよ。亜里沙とは違う」
「そういうものかしら。私なら貴方を一分でも一人にはしないわ」

それから二人は、神社の石段を登り、おみくじを引いた。
昌義は吉だった。
「おい、吉だってさ。
 待ち人、遅いが来たる。家内運、波乱が起こる、注意。
 金運悪し。病、健康なり、安心せよ。
 人の姿に騙される。人は自分の鏡なり……なんじゃこりゃだな」
亜里沙を振り返ると、亜里沙はおみくじを見つめて、肩を震わせている。
「どうした?」

「大凶、ですって」
亜里沙は昌義を見て、ようやく言った。
「大凶? 珍しいな。大凶なんて……」
「失礼しちゃうわ、なによ、この神社」
その言い方は、いつもの亜里沙に似合わない蓮っ葉な言い方だった。
昌義の怪訝そうな表情に気づいたのか、亜里沙は慌てて、
「大凶なんて、初めてなの。折角、あなたと一緒に居るのに、つまんない」
と誤魔化す。
「たかが、おみくじだよ。気にするんじゃない」
「そうね」

近くの木の枝におみくじを結びつける。
社務所の近くにある木という木に、おみくじが結びつけてあり、彼らのおみくじもその群れに紛れた。
「私、この先にあるホテルに泊まっているの。奥様がいないのなら、こっちに来れば良いのに」
「今晩は、ちょっと……ホテルを空けるわけには行かないんだ」
昌義は断腸の思いで断った。
亜里沙は寂しそうな顔をする。
だが、明日の満月に備えてお諸仏さんのことを、もう少し、聞いておかなければならない。

「レンタカ―を借りているから、少しドライブしましょうよ。
それから送るわ。それなら、少しでも長く一緒にいられるでしょ?」
「ああ、それなら、いいよ」
「ねえ、さっき私が居たところで写真撮りましょうよ。
折角の記念ですもの」
「あの岩の上でか?」
「すごい断崖になっているんですって。
覗いてみたけど、結構深そうで、面白かったわ」
「ふうん」
「アー、わかった」
「何?」
「怖いんでしょ?」
「そんなこと無いよ」
「道路の側の駐車スペ―スに車を置いてあるの。
戻りがてら、もう一度鳥居の向こうの岩で写真を撮りたいわ」
「わかったよ」
亜里沙のおねだりに負け、鳥居のところに戻ることにした。

「ねえ、私、ちょっと」
もう、一年近い付き合いだというのに、亜里沙はトイレに行くときに「ちょっと」という。
そんなところも可愛いと昌義は思う。

「あなた、さっきの鳥居のところで待っていてくださる?」
そう言って、亜里沙は持っていたカメラを差し出す。
亜里沙が社務所に入るのを見て、昌義は階段を下りかけた。
つい、頬が緩んでいるのを自分でも感じる。

カメラの操作方法を確認しながら降りていた昌義は、階段半ばで、ぐっと、腕を掴まれて引っ張られた。
二十代くらいの体格の良い男性が昌義の腕を掴んで、階段の横の大きな秋田杉の根元のほうに引っ張る。
「昌義、行っちゃ駄目だ」
「お前は……?」
逞しい腕の、日に焼けた青年だ。
それは、確かに、大学時代の杉崎だった。
ボ―ト部に所属していた杉崎はいつもに日に焼けて、筋肉モリモリだった。
そのままの杉崎が、今、目の前にいた。

「ちょっと、こっちに」
杉崎に引っ張られて、直径二m近い杉の大木の裏に隠れる。
「なにを……?」
「シッ!」
杉崎は口に指を当てて、黙るように指示する。
そのままの状態で、五分も経つと、階段を上ってくる人影が見えた。
若い男だ。
少し長めのヘアースタイル、細身のサングラスをかけている。
ジーンズにTシャツ、革ジャンを身につけている。
彼は昌義たちの隠れている杉の木の手前で立ち止まり、あたりを見回している。
その時、軽い足音がして、亜里沙が上から下りてきた。
不審な男と鉢合わせするのを心配して、昌義が木の陰から出ようとするのを、杉崎は物凄い力で抑える。

「何しているのよ」
亜里沙が男に近寄ると、厳しい声で言った。
どうやら、二人は知り合いらしい。
思いがけない展開に昌義は耳を澄ます。

「いつまでたっても、あいつが来ないから探しに来たんだ」
「すれ違っちゃったんじゃない。さっき、下りて行ったわ」
「だが、鳥居の影で待っていたけど、来なかったんだ」
「ちゃんと、見ていたの。よそ見してたんじゃない?」
「そんなこと無い」
「使えない人ね。いいわ、私が探すから、あなたは鳥居の影に居て。
連れて行くから、うまくやるのよ」
「わかった」
男は階段を下りていき、亜里沙は階段を上り、神社のほうに向かった。

「御座の石神社の鳥居の岩がある岸は、山で言えば絶壁になっていてさ、水深四百m近いらしい。
落ちたら、お前みたいにろくに泳げないやつは、そのまま、ずぼずぼと沈んじゃうだろうな。
ま、溺れる前に心臓麻痺ということも考えられるな。
なんと言っても、この季節のこの冷たい水だからな」

耳元に聞こえる杉崎の囁きは、悪魔の声のようだった。
「亜里沙が、俺を殺そうとしているというのか?」
声が震えているのが自分でもわかった。

「あの男、見覚えないか?」
「いや……」
と答えてから、あの細身の姿に、なんとなく引っかかった。
「亜里沙の店のバ―テンだ」
杉崎が囁く。

いつも、お仕着せのチョッキと蝶ネクタイの姿しか見ていなかったし、亜里沙に夢中でほかのものには気を使っていなかったので、昌義は彼の存在など気にもしていなかった。

「大学時代にバ―テンのアルバイトを始めて、そのままずるずると本業になって、今は大学を辞めて女に食べさせて貰っている、寄生虫のような男さ」
「その男が、どうして……?」
「寄生虫は宿主と一緒に居るものさ」

昌義はその言葉に衝撃を受け、杉崎を見つめる。
一瞬、杉崎と目が会った。
懐かしい優しい目だ。

あの男が亜里沙の愛人と知っているくらいだから、杉崎は亜里沙と昌義の関係も知っているに違いない。
それにしてはその目は穏やかだった。
正義感の強い以前の杉崎なら、こんな時、出て行って亜里沙を糾弾したに違いないのに、と昌義は不思議な気がした。

――この男は杉崎ではないのか……?

「お前、このまま、帰ったほうがいい。
あそこに、お前を乗せてきたタクシーが止まっている。
こちらから下りて、あのタクシーに乗って帰れ」
杉崎はそういうと、昌義の手をぐいぐい引っ張って、藪の中をタクシーの側まで連れて行く。
「早く、あいつがこっちを見つけたぞ」

鳥居のほうを見ると、男がこちらに向かって走っているのが見えた。
昌義はその近くにあった岩の上にカメラを置くと、あわててタクシーに乗り込んだ。
「ホテルへ戻ってくれ」

タクシーが階段の下を通りかかったとき、亜里沙が階段の途中でこちらを見ているのに気が付いた。
亜里沙は、何の感情もない冷たい眼差しで、通り過ぎるタクシーを見下ろしていた。
昌義が一度も見たことの無い女の本性がそこには現れていた。

神社が見る見る遠ざかり、ほっとして、隣を見たとき、自分が一人でタクシーに乗っているのに気づいた。
杉崎はいなかった。
「運転手さん、僕と一緒にいた男はどうした?」
運転手はミラ―越しに
「お客さん、からかわないでくださいよ。お客さん、一人だったっしょ」
「そう、だったかな」
「ああ、あの、エンジンを掛けて待っているようにと言いに来た人だすか?」
「え?」
「あのお客さん、急いでいるからすぐに動けるようにして待っててくれって、言いに来た人。
あの人はお友達だすか?」
「ああ」
杉崎だろうと思った。
――この事態を予測していた?

「そりゃ、幽霊ならそれも可能だ」と、昌義は変なことを思って可笑しくなった。
「楽しそうすね、お客さん、良い事あったすか?」
つい、笑っていたらしい。
「ああ、すごく良いことがあったよ」
つい、三ヵ月前の亜里沙との会話を思い出していた。

夏の終わり、昌義と一緒に自分の部屋に帰った亜里沙は、服を着替え、昌義の好きなスコッチの水割りを作って差し出し、何か思い出したように、クロ―ゼットを探った。
A4サイズのファイルをクロ―ゼットの奥から出すと、その中に入っていた証書を昌義に見せる。

「友達が……ほら、あの、前、ウチに勤めていた彩ちゃん、彼女、今、保険の外交をしているの。
亜里沙もあなたを受取人にして入ったのよ」
はにかみながら亜里沙が見せた証書は一千万の額面で、確かに受取人は山田昌義になっていた。
自分を受取人に指名した気持ちが嬉しくて、昌義は涙が出そうになった。
感激で何も言えずに居ると、亜里沙は昌義の顔を覗き込む。
「気を悪くしたの?」
「いや、なんか、感動して……」
 
亜里沙は微笑みながら、昌義の右手を取り、両手で包み込む。
「私、貴方にこんなに良くして貰っても何も返せない。
せめて、私が死んだ時には、貴方に保険金くらい残さなきゃ、罰が当たるわ」
昌義はやっとのことで答えた。
「そんなこと無い。亜里沙が生きているだけで、俺は幸せなんだ。こんな保険、いらないよ」
亜里沙は首を傾げ、昌義の顔を覗き込む。
「でも、彩ちゃん、なかなかノルマが達成できないんですって、協力したかったの」
「亜里沙は、本当に優しいんだね」
「彼女、苦労しているのよ。あの若さで未婚の母でしょ?   
少しは力になりたくて」

彩と言うホステスは、確か二十歳くらいだったような気がした。
子連れとは思えない軽い感じの子だったが……

「あの子が未婚の母ねえ? 人は見かけに寄らないな」
「そうだ、ね、あなたも付き合ってやって下さらない?
彼女、また、今月、一件も取れていなくて、首になりそうなんですって」
昌義は思わず頷いていた。

次の日、早速、彩が勧誘にやってきた。
手回しが良いと思ったが、仕方なくサインした。
自分が受取人の証書を見せられた後では、亜里沙を受取人にせざるを得なかった。

「ほんとに、私が受取人でいいの? 奥様に悪いわ」
三千万の保険の証書を渡すと、それを胸に抱いて、亜里沙は尋ねる。
「大丈夫だよ。心配するな」
死ぬ時までには事態が変わっていると思っていた。

美奈子と離婚して、亜里沙とやり直す。
もしくは使い込みがばれて、会社を首になり、すべてが破綻する。
どっちでも良い様な気がしていた。
どうせなるようにしかならないのだ……
「ね、お願い、私がこんな保険を受け取らなくていいように、私よりも長生きしてね」
たしか、亜里沙はそんなことを言った。
その言葉が嬉しくて、高額の保険の支払いをどうするかという悩みを、一瞬、忘れていた。

「みんな、嘘か……」
波立つ湖面を車窓から眺めながら、昌義は自嘲する。
「運転手さん、男って馬鹿だね。甘い言葉や美しい容姿にころっと騙される」
運転手はバックミラ―越しに昌義を見る。
「おらも、いっぱい女子には騙されたども、まだ、女子のことは愛ごいとおもってら。
男は女子に騙されてなんぼだは」
運転手は方言丸出しの陽気な声で答えた。
それは運転手の優しさだろうと昌義は感謝した。
 
高原への長い坂道を登る途中で、麓は薄闇に包まれた。
だが、駒が岳は、夕日に照らされ、ピンク色に染まり、ますますくっきりと空に聳えている。
月は東の空に、丸いその姿を白い影となって現している。
碧子の言ったとおり、天気のよい月の夜になりそうだ。

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