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November 15, 2004

満月伝説 #4 お諸仏さん

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「あなた、あなた」
美奈子の声に、昌義は目を覚ました。美奈子は、流石にパックを取っている。
「ああ、どうした?」
「凄くうなされていたわよ。どうしたのよ?」
「ああ、ちょっと、夢を見て……」
「もう、あなたはうんうん唸っているし、何処かから、犬の泣き声はするし、誰かが怒鳴っているし、最悪だわ」
「犬?」
「こんな朝早くから、何してんだか」
「聞こえないぞ」

時計を見ると、まだ、朝の六時前だった。外はまだ暗い。
「さっきまで、凄かったのよ。きっと大きな犬だわ。野犬でもいるのかしら?」

酷く喉が乾いているのに気付き、昌義は起き上がり、次の間への襖を開ける。
備え付けの冷蔵庫からミネラルウォ―タ―のペットボトルを出し、ごくごく飲んだ。

サッシを開け、ベランダに出ると、朝霧が漂っていて、まるで雲の中にいるようだった。

――天気はどうだろう。満月が出なければどうなるのだろう?

杉崎の夢を久しぶりに見た。
夢の中の杉崎は、冷たい見下したような目で、昌義をあざ笑っているように思えた。
亜里沙に会いたかった。
亜里沙のあの良い香りの温かい身体を抱きしめたい。
美奈子の側に居ると現実が迫ってくる。自分が哀れな中年男であると自覚してしまう。
亜里沙といると、強くて立派な支店長さんの役割を演じることが出来る。
自分が若く美しい女に愛されている英雄のように思える。 
だが、そのために、もう、信用金庫の金に手を付けている。
来月の監査が、ごまかしの限度だろう。
二千万、今の昌義にどうにかなる金ではない。

――美奈子の生命保険の二千万が入れば……昨日まで、その思いから、抜け出せなかった。
だが、今は、お諸仏さんに気に入ってもらえば、なんとかなるかもしれないという希望が生まれた。

――とにかく、何とかしなければ……

タバコに火をつけ、下を見ると、あの三人組が散歩にでも行ってきたのか、真っ白なロングコートを着てホテルの前に佇んでいる。
――こんな、薄暗いうちに、どこに行ってきたのだろう?
大きな犬と小さな犬が彼らの足元でじゃれている。
美奈子が言っていたのはあの犬の吠え声かと目を凝らす。
――犬も連れて来られるのか?

覗きをしているような罪悪感で声を掛けるべきか迷っているうちに、彼らは犬を連れて、目の前の林の中に入っていく。
見ると、その彼らと入れ替わりに、丹波や、丹波夫人、岡夫人、あの大野とか言う男とその恋人、昌義が神楽坂史記かと思っている愛想の無い女、それに、坂田教授、陽子と華楠、このホテルの泊り客がぞろぞろと歩いてくる。
なぜか全員少年たちと同じ真っ白なロングコートを着ている。
霧のせいで彼らはゾンビのようにふわふわと歩いているように見えた。

最後に碧子が歩いてきた。
碧子は気配に気づいたのか、ふっと上を見上げた。
昌義と目が合うと、彼女はじっと見上げている。
感情の無い、見知らぬ人を見るような目で……
「おはようございます」
昌義は大きな声で挨拶した。
歩いていた全員が上を見上げる。
全員の視線を受けて昌義はたじろいだが、彼らは何も見なかったかのように視線を戻すと、黙って、ホテルに入っていく。
碧子も黙ったまま、ホテルに入った。

「何なんだ、こんな朝っぱらから……それに人が挨拶しているのに無視しやがって」
昌義も寝室に戻る。
美奈子は二度寝したらしく、布団に包まっている。
昌義ももう一度寝ることにした。
 

次に目が覚めた時、部屋には、明るい光が満ちていた。
美奈子はもう着替えている。

「いつまで寝ているの。もう、七時過ぎよ。さっさと起きて。今日は忙しいんだから」

昌義は髭を剃りながら、あの光景は何だったのだろうと思い返していた。二度寝したせいで、本当のことだったのかどうか、確信が持てない。 

――あんな朝霧の中で、ふわふわと歩いていた宿泊客たち、あれには何か意味があるのだろうか?
それが、お諸仏に関することなら、自分は出遅れてしまったのかもしれない。だったら、大変だ。

「あなた、このスーツで大丈夫かしら?」
美奈子は、昌義が見たこともない黄色のスーツを着ている。
「朝ごはんに、そんなおしゃれをしなくても……」
昌義のセーターとチノパンを横目で眺めて美奈子は、
「何言っているのよ。夕べの屈辱を忘れたの。侮れないわよ。このホテルの客は」
「まあ、そうかもしれんが……」
「さあ、行くわよ。早く食事をして、さっさと買い物に行かなきゃ」
美奈子に急かされて、一階のダイニングに行くために部屋を出た。
昌義たちの部屋は、エレベーターから左側二つ目だが、奥から、少年二人が歩いてきた。、
「おはようございます」
愛想の良い少年が挨拶する。
もう一人の背の高いほうも黙礼する。

――犬はどうしたのだろう? 外に繋いでいるのだろうか?

エレベーターを待っているうちに、坂田が奥の右側のドアから出てきた。
坂田は紺のフィッシャーマンズセーターを着てチノパンを穿いている。
昌義はなんとなくホッとした。

「おはようございます」
昌義が挨拶すると、坂田は機嫌よく答える。
「おはようございます」
そして、美奈子を見て、笑いかける。
「奥様ですか」
「ええ、美奈子、こちらは東都大の坂田教授だよ。夕べ、お知り合いになったんだ」
権威に弱い美奈子は、教授という言葉に、もう、思いっきりの愛想笑いをしている。
――判りやすい女だ。
「そうなんですの?
主人ったら、何も教えてくれないもので、ご挨拶が遅れまして申し訳ございません」
「いや、こちらこそ」
坂田はたじたじとなりながらも愛想良く答えた。

エレベーターを降りると、坂田は用事があるらしく、フロントに向かい、少年たちはテラスデッキに向かう。
ソファに、丹波夫妻と岡夫人が座っている。
岡夫人を見て、美奈子が息を呑むのが分かった。
岡夫人の美しさは、朝の光の中でも、褪せない。
淡いクリ―ム色の値の張りそうなスーツを着て、豊かな髪を波打たせている。
たしかに美奈子の言うとおり侮れない連中だ。

「おはようございます」
昌義が声を掛けると
「おはようございます。良い天気で何よりですな」
「おはようございます。爽やかな朝ですわね」
丹波も、岡夫人も、昌義の挨拶ににこやかに答えてくれる。
美奈子がその様子に驚いているのが分かって、昌義は少し誇らしい気持ちになった。

丹波は紺のフランネルのジャケットにジーンズというカジュアルなスタイルだ。
「ほら、結構、普通だろ?」
美奈子に耳打ちすると、美奈子は囁き返した。
「あれ全部、高級ブランドなのよ。判らないの?」
昌義には良くわからないが、どうもなんと言うことは無いように見えてかなりの高級品らしい。

その場に立ったまま、昌義は丹波に問いかけた。
「それにしても、皆さん、あんなに朝早くどちらにお出かけだったんですか?」
全員、顔を見合わせる。丹波が怪訝そうな声を出す。
「何のことですか? 僕たちは、今起きてここに来たばかりですよ」
「六時ごろ、外を歩いていませんでしたか?」
ほほほと上品な笑い声がした。
「夢をご覧になったのではございません?」
岡夫人が笑っている。つられて、丹波夫人も笑い始めた。
「そうだったんですかね」
昌義は二度寝したせいで、自信が無くなった。
「まったく、あなたったら」
美奈子が、恥ずかしそうに昌義のセーターの裾を引っ張る。

「奥様でいらっしゃいますの」
藤色のシンプルなワンピース(これにも美奈子の目が光ったところを見るとかなりのブランド品らしい)の丹波夫人の問いに、あわてて美奈子を紹介する。
「美奈子、こちらは、料理の超人の丹波さんと奥様だ。それから、岡夫人、あの、リ―ドの社長夫人だよ」
「まあ」
美奈子は憧れの料理の超人とリ―ドの社長夫人と聞き、とっさに声が出ない。
岡夫人がこの上なく優しい声でとどめを刺す。
「奥様、殿方は煙に飢えていらっしゃるようですから、私たちと、先にお食事に参りません?」
そして、立ち上がり、美しい大きな目でじっと昌義を見た。
身長が高くて、昌義と目線が同じ高さになっている。
「奥様をお借りしてもよろしいかしら」
もちろん、異存は無かった。
――いっそ、地球の裏側まで連れて行ってくれれば良いのに。

美奈子は夢見心地でふわふわと、岡夫人に導かれて奥のダイニングに向かう。
丹波は灰皿の置いてある席に座り直し、昌義もその席に向かい合って座った。
とりあえず、タバコに火を点ける。
ふっと、香水の香りが漂ったと思うと、昌義の隣に金沢陽子が座った。
相変わらず、仕立ての良い派手なオレンジ色のスーツを着ている。
「おはようございます。ご機嫌いかが?」
「ああ、おはようございます」
みると、陽子はもう、口にタバコを咥えている。
「ああ、よく寝たわ―。こんなに寝たの、久しぶり」
煙を吐き出しながら、陽子が言う。
丹波は陽子を見て笑っている。昌義はおずおずと言い出した。
「あの、今朝、どこかに行きませんでしたか?」
陽子は頚を振る。
「今朝って? 今さっき起きたばかりですのよ。山田様は、早く起きられたんですか?」
「彼、夢見たみたいなんだよ。さっきから、僕らにも、朝どこに行ったのかって……」
丹波が口を挟む。
「あら、そうなんですの。夢にまで見ていただけるなんて、光栄ですわ」
陽子はさすがの切り返しをする。

――やはり、夢なんだろうか?
それにしては、かなり鮮明に覚えているのだが。

「さあ、食事に取り掛かろう。今日は忙しい」
シガーを消して、丹波が立ち上がる。
「私も、今日は鶴の湯に行く予定なんですの。山田さん、お食事は?」
「ああ、もう一本、吸ってから」
「それでは、お先にね」
二人がダイニングに入るのを眺めながら、昌義はテラスに出た。

もう、霧はすっかり晴れて前の雑木林の紅葉が見える。
例の三人組が奥のテーブルで地図を見ていた。
「やあ」
昌義が手を上げると、三人は頭を下げる。
愛想のよい少年が話しかけてきた。
「食事、まだですか?」
「ああ、もう一本と思って」
「ヘビ―スモ―カ―なんですね」
「ああ、止められないんだ」
「今日はどこかに行かれるんですか?」
きりっとした無口なほうの少年が口を開いた。
それに少し驚きながら、昌義は今日の行動を考えると気が重くなる。
「午前中は、盛岡まで買い物に行こうかなと思っている。それから、玉川温泉に行くつもりなんだが……
レンタカ―を借りなくてはね」
「それなら、僕たちも昼から、お諸仏さんを見物した後、玉川ダムに行くつもりなんです。
ご一緒にいかがですか?」
「君たち、車で来ているの?」
――誰が運転するのだ?まさか・・・?
「ええ、彼女の運転ですけどね」

それは、少し怖いと思いながらも、同乗させて貰えるのなら頼もうかと思った。
いざとなれば、代わりに運転してもよい。
「そう、じゃあ、頼んでいいかな?」
「いいですよ。ね、ももこさん」
「いいわよ。私の運転でよければ……」
愛想の無い言い方で答える女性は、ももこというらしい。
「あ、彼女はももこさん。彼は祐一。僕は歩夢です」
美人と形容したほうがよさそうな少年は歩夢と言う名前だった。
「ああ、僕は山田。よろしく。君たちも、お諸仏さんに会いに来たのか?」
お諸仏の名を出すと、彼らはまた、顔を見合わせる。

「山田さんも、お諸仏さん目当てですか?」
祐一は歩夢に比べると少し取っ付きにくい。
だが、嫌味な感じはしなかった。
「いや、そんなこと知らずに来たんだが、夕べ話を聞いてね」
「じゃあ、お諸仏さんのことは詳しいわけではないのね?」
ほっとしたように、ももこが尋ねる。
「ああ、ちょっと小耳に挟んだ程度だよ」
「ライバルということになるのかな?」
歩夢が道化ていう。
「ライバル、というか、僕はほとんどお諸仏さんのことは知らないからね」
碧子たちからの情報を教えたくなかったので、昌義は嘘をついた。

「踊りとか、歌とか出来るんですか?」
歩夢の言葉に昌義は驚く。
「そんなのが必要なのか?」
「お諸仏さんが人を選ぶポイントは、才能か真実と言われてますよ」
ももこがそれも知らないの?と言う表情で言った。
「才能か真実?」
「お諸仏さんを圧倒するだけの才能か、その人の真の姿、善悪は問わず、どこまで自分をさらけ出せるかがポイントらしいですよ」
祐一が相変わらず愛想の無い声で付け加える。
「へえ」
「といっても、お諸仏さんとの間の話は、誰も聞くことが出来ないから、今までの成功者たちが、何を語ったか分かりませんけどね。
大楠碧子や華楠や、丹波シェフのように分かりやすい才能を持っていれば、そうかと納得できるんですけど」
「ちょっと前の成功者なんて、ホテルに迷い込んだ老夫婦で、何であの人たちが選ばれたのか、みな、分からなかったと言いますし……」
ももこが口を挟む。
「その人たち、ドリ―ムジャンボ前後賞併せて三億円を手に入れたそうですよ。今はどうしているんでしょうね?」
ハワイで悠々自適さと喉元まで出掛かったが、それを話すのは止めた。
この際、情報は大事にしなければならない。

あの十九才の華楠と言う歌手が選ばれているなら、年齢制限は無いということだ。
彼らは十分にライバルになり得る。
あまり話していては、余計なことを言ってしまいそうなので、昌義はその場を離れることにした。
――そろそろ行かなくては、美奈子が何を言い出すやら……

ダイニングに入ると、美奈子は中央の大きなテーブルで、女性陣に囲まれ頬を上気させている。
岡夫人、丹波夫人、金沢陽子、華楠と碧子もいる。
神楽坂史記はいなかった。
奥のほうの四人掛けのテーブルで、丹波と坂田が手招きしてくれたので、そちらに向かう。

「あら、主人がやっと参りましたわ。ちょっと失礼致します」
美奈子がそう断るのが聞こえた。
美奈子は席を立ち、昌義のほうにやってきた。
ダイニングの真ん中で立ち話の形になる。

「あなた、岡様が盛岡に連れて行ってくださるのよ。ついでにドレスも見立ててくださるの。あなたのタキシードは適当に、私が買ってくるわ。行ってもよいでしょう?」
にこやかに話しかける美奈子は、ほんのり頬が上気し、幸せそのもののように見えた。
有名なセレブの夫人に声を掛けられて有頂天になっている愚かな女と云う侮りの気持ちを隠して、昌義は出来る限りの優しそうな声を出した。
「ああ、いいよ。でも、足は大丈夫なのか?」
「えっ、足?」
骨折した足のことを忘れたのか、美奈子は普通に歩いている。
「あ、これ、大丈夫。なんだか痛みなんて忘れちゃった。それに、岡夫人は車でいらしているから、歩かなくてもいいのよ」
昌義は岡夫人の側に行き、
「本当にお言葉に甘えてよろしいんですか?」
と確認する。
岡さやかはにこやかに微笑む。まるで大輪の花が咲いたような笑顔だ。

「ええ、勿論ですわ。ショッピングはやはり、女性同士のほうが楽しゅうございますわ。
ご主人様はごゆっくり、温泉にでもいらしてくださいませ。
丹波様もご主人を残していらっしゃいますので、ご一緒にお出かけになれば如何かしら?」
「お話してみましょう」
そう言いながら、丹波たちのテーブルに向かう。
少しムカついていた。
――あの女は人に指図するのが当然のようだ。
他人の時間の使い方まで指示しやがる。
だが、美奈子を引き受けてくれるのはありがたい。
ゆっくりとお諸仏さん対策を練ることが出来る。
昌義はこの旅の目的も忘れ、そんなことを思っていた。

「ご一緒しても、よろしいですか」
「もちろんです。どうぞ、どうぞ」
丹波が隣の空席を指し示す。
「奥様に置いて行かれるのは、寂しいですか?」
座りかけた昌義に丹波が冷やかすような口調で言う。
「そんなことありませんよ」
「ご機嫌斜めのように見えましたが」
「いや、大丈夫ですよ」

そう答えながらも、なにか面白くない。
座るのを待っていたように、ウエイターがフレッシュジュ―スと新鮮な野菜とハムのサラダ、パンを運んで来た。
ポタ―ジュス―プにオムレット、プチケ―キにエスプレッソ。
どれも驚くほど美味しい。
食後はやはり、煙が必要ということで、彼らはすぐにダイニングを出た。
ロビーの喫煙席に一目散に向かう。

そこには食事を終えた陽子と碧子がすでに座っていた。

「お二人は盛岡には行かれないんですか?」
昌義が問うと、陽子が肩を竦める。
「何のためにわざわざ田舎に来たか判らないじゃない?
私たちは、今日は角館よ」
「角館?」
「小京都。有名よ」
碧子は手にしていたパンフレットを差し出す。
「小京都ねえ」
あまり気が無かったが昌義はそのパンフレットを受け取り眺めた。
「樺細工とか、武家屋敷、楽しみだな」
「華楠さんも一緒なの。坂田先生もご一緒に如何?」
陽子が坂田を誘う。
坂田は嬉しそうに頷いた。
「そうですね。ご一緒しましょう。丹波さんは?」
「私は、今日、このホテルのシェフに講習をすることになっていましてね。仕事です」
「そういえば、このホテルの食事はなかなかですね。
やはり、丹波さんのお弟子さんかなんかで……?」
坂田の問いに丹波は嬉しそうに頷く。
「まあ、そんなところです。若手ですが、才能のある青年ですよ」
「丹波さんのように、人の才能を伸ばそうとなさる大御所は珍しいですわ」
陽子が感心する。
「いつかはご自分のライバルになるかもしれないのに」
昌義もそれは不思議だと思う。
料理の世界も競争であることには変わりは無いだろうに。
「実はね、それがお諸仏さんとの約束なんですよ」
「ああ、それで……」
坂田も碧子も陽子も、その一言で納得する。

「お諸仏さんとの約束って?」
昌義の問いに、碧子が声を潜めて
「お諸仏さんは、選んだ人に課題を与える。
成功を持続できるかどうかは、その約束が守れるかどうか」
「難しい約束なんですか?」
それに答えず、碧子は丹波に話を振る。
「丹波さんは後輩の指導をするというのが約束なんですね?」
丹波はシガーの煙を払いながら
「そうです。僕は人を育てるというタイプではないのです。
だからこそ、敢えて、それを課題にしたです。
ですから、僕はいろんなところで、請われれば、料理の講習をしています。
料理人の心構えなんかを話しています。
味とか調理法なんてのは、出来て当然のことですからね。
プラスアルファを料理に与えるのは、本人の人生観です」

「けちな料理人は、物を惜しんで、手間を惜しんで、自滅していくということ?」
と碧子が付け加える。
「そういうことです。そういえば、坂田先生はどんな課題を?」
昌義もそれには興味があり、身を乗り出した。
「私の課題は……恥ずかしいな」
「ま、ますますお聞きしたくなりましたわ」
陽子が坂田の腕に手を回す。
この女性はさりげなく、このようなスキンシップをして相手の心を開かせるようだ。

「いやあ、陽子さんはどうなんです?」
学者は往生際が悪く、陽子に話を振る。
「私? 私は、消費すること」
陽子はさっぱりと即答する。

「消費すること?」
全員が声を揃えて聞き返した。
「ええ、溜め込まず、どんな形でも消費して社会に還元していく。壮大な無駄遣いって呼んでいますけど」
「それが、お諸仏さんの課題なんですか?」
昌義は信じられずについ不服そうな声を出してしまった。

「そうですわ。その代わり、その無駄使いを補って余りある御利益を頂いていますわ。
さあ、坂田先生、先生は?」
坂田は、まだ、ぐずぐず言っていたが、やがて、重い口を開いた。
「たいしたことじゃないから、言いたくないんだよ」
「そんなこと仰らずに……」
「いやあ、僕の場合、社会に貢献するようなことではないので、ま、その、株は買わないということです」
「何なの、それ?」
碧子が目を丸くする。

「いや、僕は、株、当たるんですよ。
これはと思ったので、下落したものは無いんです。
というより、僕が望んだのは、その才能なんですよ。経済の将来を見通す能力。
お諸仏さんは、才能は与えるけれども、その才能を自分のためには使うなといったんです。
その才能を他人のために使ってこそ、僕は食べていけるという呪いをかけられた様なものです」
「それは、お気の毒だわ」
陽子がしんみりと言う。

経済的な成功の喜びを知っている者には、その呪いの恐ろしさが分かったのだろう。 
だが、坂田にしたところで、人並み以上の生活や地位を得ている。
坂田はその才能を発揮することで、多くの塾生を得ている。
その中には大会社で地位を築いている者、起業して会社経営をしている者も多い。
坂田自身、十分な名誉も財力も手にしている。昌義はそう思いながら、
――そういえば、あの少年たちが言っていたことを確認しなければ。

「たしか、お諸仏さんに選んでもらうには、才能が必要だとか?」
「ああ、それは、芸術、技能関係の方ですよ。碧子さんが良い例ですね」
坂田が碧子を指す。
「まあね、そう言う事かな」
碧子はさりげなく頷く。

「でも、才能が有るなら、成功は約束されたようなものじゃありませんか?」
昌義の言葉に、碧子は昌義を馬鹿にしたような目で見る。
「才能のある人間なんて、掃いて捨てるほどいるよ。
子供の頃、皆、何か認められて、賞状、貰ったりしているじゃない?
でも、大人になって、それを発揮し、持続するには何らかのきっかけや運が必要。
それをお諸仏さんは与えてくれるの」
「そう言うものですか……」
今ひとつ納得がいかないがとりあえず相槌を打った。
「華南は、あの歌声だけで、選んで貰えた。
とんとん拍子に音楽祭に出て、新人賞を貰えて……でも、あの子自身も血を吐くような努力をした。
その努力をお諸仏さんは認めたのね。
今年はそんな才能のある人がいなさそうだから、山田さんは幸運よ」

昌義はあの変な三人組の話を思い出した。
「才能の代わりに、真実をと聞きましたが?」
坂田がその問いに答える。
「願い事に金という人が多いからですよ」

――金を願っちゃいけないのか?

「成功をどう考えるかは人によって違うけれど、他人に成功が見えるには、金とか地位しかないじゃないですか?」
昌義の反論に碧子は苦笑する。
「確かにお金は大事だけど、それが目的じゃないって言うか……それだけじゃないんだな。
私の場合、どちらかというと生活の心配をすることなく、漫画を描き続けることさえ出来たら、それで良いと思ったの。
で、私はお諸仏さまに無尽蔵の漫画のアイデアを願ったの。
でも、頑強な手を願い忘れてしまって、ちょっと、痛い思いをしているけど……」
「羨ましいな、そんな職業を手に入れられて……」
それは昌義の本心だった。

碧子は哂う。
「簡単よ。漫画家になりたいと、お諸仏さんに願えばいいのよ」
「はあ……」
――そんなことはしたく無いような気がするが……

「山田さんは漫画を描くことを欲求しないでしょ?」
陽子がクスと笑った。
「まあ、描きたいと思ったこと無いですね」
――そう言えば絵を描くのは苦手だった。
そんなことが何かの役に立つなどと考えもしなかったなあ。
美術の時間なんか遊びだと思っていた。

「人は自分の知っているものにしかなれない。
だって、何かになりたいと思うときには、その何かが必要でしよ。
一番大変なのは、今は無い「何か」を確立する人。
そういう人は自分の持っている物が何なのか自分で見出さなければいけない。
それを名付け広めなければいけない。それが大変なんだ」
碧子の言葉が耳を擦り抜けていく。

――俺は何を知っているのだろう? 
そもそも、何かになりたいなんて思ったことが無い、ような気がする。
良い学校を出て、良い職業に付いて、良い家庭を持って、そんな風にしか考えていなかった。
でも、この年になって、俺は……何をしているんだろう?

昌義は不意に涙をこぼしそうになって、あわててタバコを吸った。
煙が目に染みた。
話は坂田の経済論になっている。

「金というものは対価だから、何かがないと手に入らない。
その対価は時間と労力と品物。

製造業は製品を金に換える。
商社は商品を右から左に移すことで差益を手に入れる。
サ―ビス業は客に、サ―ビスする時間と労力で対価を貰う。
芸術家なら、自分の才能で創り上げたものを金に替えることが出来る。
いずれも、その持っている物が相手にとって利益をもたらす物でなければ、相手は欲しがらない。

客に気に入られなければ、元も子もない。
だから、その商品には彼ら自身の創意工夫や才能、他人への思いやりが込められていることになる。

だが、金融業は自分の商品が、金だと思い違いしている。
本当はその金を有効に生かすサ―ビスが売り物なのにね。

だから、この商品(金)を与えたんだから、代金を払ってくれという態度を取ってしまう。
だが、本来、社会を潤滑に動かすために必要な資金を、必要なところに動かす、そのサ―ビスに利息という対価は支払われるものなのだ。
それが判っていないから、相手に利益をもたらす様にと努力することもせず、ただ、貸し与え、返せなければ、あんたの責任と、根こそぎ剥がそうとする。

相手が死のうが生きようが知らん振り。
追いはぎ同然だ。

金融業が理想ばかりを追っていては、行き詰まるに決まっている。
だが、金融業がなりふりかまわなくなったら、国は滅びるのさ」

かなり耳の痛い話をされて、昌義は言葉を失う。

「坂田先生の経済論は、もう少し、別の話のような気がしたけど?」
碧子がその場を取り成すように茶化す。
「ああ、本では、こんなことは書けないよ。
だが、私はもう、この国の政治や経済や金融のトップに失望しているんだ。
自分の保身や自分の取り分のことばかりを考えている人間に、他人の痛みがわかるとは思えないし、判ったところで、自分を優先するだろう。
だから、うまく逃げている人間がいるうちは、この国は良くならない。
一度みな、泥水を飲むべきだ。
全員飲まなきゃ、その苦さを理解できないのなら、経済なんて好転しなくていいんだ。
中途半端に経済回復なんかしないで、全員、飲むべきなんだよ」

「理解力と想像力と理想の欠如が、今の経済の一番の問題というわけね」
碧子は細く煙を吐く。
陽子がそう云えばと言い出した。
「神楽坂史記が言っていましたわ。
この十数年を失敗と不毛の時代と、みな、受け止めているけれど、この時代は現在の神風が吹いている時代だ。
あのまま、バブルが続いていたら、日本は無かっただろうって。
トロンや難民船のことを考えれば自明の理だと」
「ほう、神楽坂史記さんがね。一度しっかり話をしてみたいな」
「ええ、満月が終わったら……史記も今は忙しいから」

昌義は史記の名前を聞いて、つい口を挟んだ。
「神楽坂史記さんも、やはり、お諸仏さんのご利益で?」
陽子はなぜか狼狽したように、愛想笑いを昌義に向ける。
「史記は鴇野雄一郎にお諸仏さんのことを教えてもらったの。私もよ。碧子さんもそうよね?」
碧子は黙って頷く。
「坂田先生は偶然だったんですよね?」
昌義の問いに坂田は、
「そうだよ。僕が岡敏郎に教えた。確か、岡敏郎が鴇野雄一郎に伝えたんだ」
「僕も岡さんからでしたよ」
丹波はシガーの煙を優雅に吹いてそう言うと、時計を見る。
「ああ、もうこんな時間だ。シャワ―を浴びなければ」
「シガーの匂いを消すんだ?」
碧子が訳知り顔に質問する。
「ああ、大好物のシガーをこんな時間に吸えるのは、休みの日だけなのに」
そういうと、名残惜しそうに丹波はシガーを消した。
「どうしてですか?」
昌義の問いに、丹波は肩を竦める。

「料理人は、無臭で無ければね。
タバコくさい手で食材に触るなんてもってのほかなんだよ。
今日は、まだ、話だけだから、吸ってしまったが、いつもは吸わないようにしている」
「そうなんですか。厳しいんですね」
「当然さ。好き勝手なことをしている人間に、成功は無いのだ。 
じゃ、そういうことで、失礼」
丹波は、シガーケースをポケットにしまい立ち上がった。
陽子が碧子に、「私たちも仕度しましょう」と言い、昌義を振り向いた。
「そうだ、山田さんもご一緒に如何?」
「そうだわ、いかがです?」
「ああ、一緒にどうです。奥さん、岡さんたちと出かけるんでしょう?」
碧子と坂田も昌義を誘う。

昌義は少し考えたが、止めることにした。
あの三人と一緒に玉川温泉に行くと約束したのを思い出したのだ。
彼らはお諸仏さんを見に行くといっていた。
角館見物で一日潰すよりも、ここはお諸仏さんを見に行ったほうがよいだろう。

「お言葉は有り難いんですが、今日は玉川温泉に行こうと思っているんです」
「ああ、あそこも良いところです」
坂田は頷く。
「お諸仏さんも見てきたいし……」
「そうね、お諸仏さんにご挨拶するのは大事ですわ」
「私たちは、昨日、お諸仏さんにご挨拶してきたから……行くべきだわ」
陽子と碧子も口々に勧める。
「それでは、私たちは支度しましょう」
「華楠ちゃんも行くんですか?」
未練たらしく昌義は訊く。
「ええ」
「碧子さん、華楠さんとはどういう……?」
二人がどういう関係か気になっていた昌義はこの機会に質問する。
「華楠は私の従妹」
「ああ、それで……」
「華楠は急に忙しくなって、ちょっと、疲れ気味なの。
だから、ゆっくり休ませて上げたくて、連れてきたの」
「え? お諸仏さんにお礼に来たんじゃないんですか?」
昌義の言葉に、一瞬、皆、動きを止める。

「ええ、勿論、お諸仏さんに会うのが一番。で、休養はついでね」
「さあ、早く支度しましょ。急がないと、昼になっちゃうわ」
陽子はさっさと立ち上がり、二人を促す。
「じゃあ、お先に」
坂田も、陽子に引っ張られ、エレベーターに向かう。

昼まで、時間を潰さなければならない。
昌義はロビーに置かれている新聞を手に取った。
株価は相変わらずだ。経済欄を見ると、陽子の顔が目に飛び込んできた。
トップインタビュ―という記事の写真だ。

「投資会社グローバルライン社の金沢陽子社長」と紹介がある。
「景気低迷の現在、女性社長のがんばりで業績を伸ばすグローバルライン社……」
そこまで、読んだ時、
「山田さん」
横に歩夢が立っている。気配に気づかなかった昌義は驚いた。
「ごめんなさい、驚かせて」
「いや、どうしたの?」
「僕たち、昼からと言ったんですけど、今から支度して出かけたいんです。山田さん、ご都合は?」
「ああ、いいよ」
「それじゃ、三十分後に、ここで待っています」
「分かった」
歩夢は部屋に戻るらしい。
昌義も部屋に戻って支度することにした。
一緒にエレベーターに乗り、三階で降りると、美奈子が丹波夫人と廊下で立っている。
「あ、あなた、私たち、今から出かけますから」
昌義が何をしているのかには興味が無いらしく、また、丹波夫人との会話に戻っている。
「気をつけて」という昌義の言葉にも上の空だ。

昌義は部屋に入り、窓を開ける。
遠くに田沢湖が光って見える。
空は抜けるように蒼い。よい天気だ。
ふっと、下を見る。
大きなシルバ―のベンツが止まっている。その後ろに真っ赤なジャガ―と黒のBMWが止まっている。このボロボロのホテルとは対照的に、その車は皆、ぴかぴかに光っている。

昌義は、彼らの車に負けない高級車を乗り回すようになる自分を想像した。
――金、それさえあれば、問題はすべて片付く。それさえあれば、信用金庫を辞めて、美奈子と別れ、亜里沙とやり直せる。
金を生み出す才能を願おうか……ああ、それが良い。
……でも、どんな才能が金を生み出す才能なんだろう?
三億を自分の右手一本で稼ぐ漫画家・碧子の才能。
砂漠から文学賞に応募して受賞した神楽坂史記の才能。(確か賞金は一千万だった)
ベンチャ―キャピタルを経営する陽子の才能。(鴇野雄一郎はたった数年で三十億の資産を手にした)
坂田の経済を見通す才能。
丹波の料理の才能。
華楠の歌の才能。
才能があっても、必死で働かなきゃいけないと言うことでは、今と変わりないな。
そういう点では、三億の宝くじのほうが楽そうだ。

――とにかく、絶対にあんな子供たちや、平凡な結婚くらいのつまらない願いに負けるわけには行かない。
そういえば、あの三人の願いを、まだ、聞いていない。あの子供たちは何を願っているんだろう?
車の中で聞き出してやろうと昌義は思う。


「どうぞ」
その車のドアを開けられて、昌義は驚いた。
「この車が、君の……?」
その車はあの部屋から見下ろした赤いジャガ―だった。
歩夢が助手席に座り、祐一がその後ろに、昌義は運転席の後ろに座る。
ジャガ―に乗るのは初めての昌義は物珍しげに車内を見回し、感心しながら史記に話しかける。
「凄いんだね。その若さで、こんな車を持っているなんて」
「まあ、それほどでも……」
「ももこさんは、仕事、何をしているの?」
昌義の問いに故意に答えないのか、それとも、カ―ブ続きの高原から降りる道路に必死なのか、ももこは運転に集中しているようで答えない。
代わりに後ろを向いて、歩夢が言い出した。
「ももこさんは、すごく才能のあるクリエ―タ―なんだよ。
だから、こんな車くらい、彼女の収入ならぜんぜんオッケ―なんだ」
「ぜんぜんオッケ―ねえ。そういえば、君たちはお諸仏さんに何を願うの?」
「木を植える力」
即座に歩夢が答える。
「木……?」
「あ、ふざけていると思っているでしょ?」
心外そうに歩夢がふくれる。

「山田さん、職業は? なにしているんですか?」
落ち着いた口調で祐一が問いかける。
「私は、信用金庫に勤めているんだ」
「ふうん、仕事は楽しいですか?」
祐一がおざなりに問う。
なんと言っていいものか、昌義は躊躇う。

「仕事が楽しいかって? 
毎日毎日、金を貸して、回収して、トラブルや苦情を処理して、金に振り回されている。
自分のものでもない金のために、身を磨り減らす。
うまくいって当然。下手すりゃ、人が死ぬかもしれない。そんな仕事が楽しいわけ無いだろ」
と、彼らに話してもわかるはずが無い。
「まあ、どんな仕事も楽しいものじゃないよ」
車窓を眺めて昌義は言葉を濁す。

昌義はバブルの初期に大学を出た。
地方だったが、国立大学を出たから、内定をいくつも貰えた。
その中で今の信用金庫を選んだのは、父親の影響が大きかった。
父親はある企業に勤めるために、中卒で九州から中部地方の小都市に出てきた。
働きながら定時制高校に通い、三交代勤務をこなし、工場で班長になり、五年前、定年退職した。

昌義と妹、弟の三人は、父親の骨身を削って建てた家で育ち、母親のパ―トの帰りを待つ鍵っ子だった。
母も中国地方の出身だった。
大きな企業に勤め、出世とは縁の無かった父親は、昌義の学歴なら小さな組織のほうが出世できるし、信用金庫なら固い職業だと思ったらしい。
ほかの内定の出た企業が、全国に転勤があるのも反対の理由のひとつだった。
九州男子の気風を持つ、父親の発言力の強い家庭に育った昌義は、それに従った。

四十前に支店長職を得たのは、美奈子と結婚したお陰だと、義父からも、周りからも言われ続けてきた。
舅は、その小さな信用金庫を牛耳っている理事長で、その市の名士だ。
信用金庫自体は、小規模で、競争の少ないその市だからこそ、存続できているような代物だ。
舅も姑も、昌義との結婚に反対した。
閨閥のない昌義との結婚は何の利益も齎さないということだったのだろう。

だが、二人姉妹の長女が家を出ても、彼と結婚すると宣言したのでは、認めないわけには行かなかった。
結婚式は、その市の一番のホテルで、国会議員や、市長や名士を集めて、盛大に取り行なわれた。
花嫁は五回もお色直しをして、煌びやかな衣装を見せびらかした。
昌義はお色直しのたびに、出迎えに出る自分を見る招待客の目に嘲りを感じた。
長身で整った顔立ちの昌義は、彼女の添え物で、容姿だけが取り柄のジゴロだと噂されているのを知っていたから……
そして、彼らの視線を受けながら、花嫁の手を取った時、昌義は自分の結婚が間違いだったのではないかと不安になった。

妻の美奈子には、子供が出来なかった。
その上、結婚五年目の春、検診で初期の子宮ガンと宣告され、子宮摘出手術をした。
彼女はもう、子供を望めなくなってしまった。
荒れる美奈子に、昌義は途方にくれた。
舅は、次女の息子を養子にすると言い出した。
子供の出来ない婿など、不要になったということを、彼は隠そうともしなかった。
それから、六年間、そんな生活に耐えてきた。

昌義は自分でも出来る限りの努力をして、理事長の娘婿という自分の立場から抜け出そうと努力した。
その努力により、昌義の支店は常に、四十五支店中のトップだった。
地域のために活動し、客のために有利になるよう計らい、それが自分へのリタ―ンとなると、自分にも、部下にも、思い込ませていた。
だが、常に聞こえてくるのは、正当な評価ではなかった。


その客は応接室で上目使いに昌義を見る。
「山田さんにお願いすれば、大丈夫ですよね。なんと言っても、次期理事長さんだ」
彼が派手に遊んでいるという噂は昌義の耳にも入ってきていた。
今回は、追加融資の相談だった。
だが、その金の使い方に、昌義は疑問を抱いていた。
担当者からの話には耳を貸さない昌義に痺れを切らして、彼は乗り込んできたのだ。

「そんな力、私にはありませんよ」
「ご謙遜を。もう、決まっていることじゃありませんか」
そんなこと、と言いかけて、客の言葉の意味が、自分の胸に突き刺さっているのに、気づいた。

腹の底から、目の前で能天気に笑っている商店主を憎いと思った。
脂ぎった顔を見ていて、むかむかしてきた。
何の経営努力もせずに、お追従を言って、金を引き出そうとしている。
この大変な時代を、金を借りるだけで乗り切ろうとしている。
そんな奴のために、稟議書を出して、舅に怒鳴られるのが馬鹿らしくなった。
だから、稟議書を書くのを止めた。

「山田さん、酷いじゃないか。この前、あれだけお願いしたのに……」
「大久保さん、私は、絶対に大丈夫とは申しませんでしたよ。なんと言っても、私も本部の決定には逆らえないんですよ」
「本部の決定、それじゃ、おたくは、オレに潰れろ、首を吊れと……」
男の顔が蒼褪める。
「そんなこと……大久保さんのように、お力のある方でしたら、ウチの融資が無くても、十分、やって行けると思うんですよ。
今度のことでは、私の力不足で、お力になれませんでしたが、私も、大久保さんとは長いお付き合いですから、これからも、お力になるつもりでおります。頑張って、乗り越えてください」
気落ちして、今にもソファから崩れ落ちそうな客を目の前にして、気が晴れた。
それが始まりだった。
ほんの少しの意地悪のつもりだった。
現に、その商店はほかの銀行の支援を受けて、今も営業している。

小さな工務店の二代目の杉崎は、幼稚園時代からの昌義の親友だった。
昌義は、その日、杉崎の融資の申し込みを受けていた。
もちろん、彼のために、難しい審査を通すつもりだった。
今夜は接待だと言って、杉崎は、最近気に入っている子がいるという店に連れて行ってくれた。
そこに亜里沙が居た。
「凄い、そんなにお若いのに、もう支店長さんなの?」 
その言葉に、杉崎一郎が、ふっと笑ったのを、昌義は見逃さなかった。

その笑いを見て、昌義の気持ちは変わった。
あの商店主の時のように、稟議書を通さず、当日になって断った。
工務店はその融資が通れば、さらに発展するだろうと、昌義にも分かっていた。
だが、その日、手形が不当りになれば、杉崎の会社が危ういのも、分かっていた。
大久保のように、杉崎も、ほかで手当てして、何とかなるだろう。
それがだめでも、泣いて縋ってきたら、何とかしてやろうとも思っていた。

杉崎は昌義の目をじっと見て、
「わかった。迷惑をかけたな」
それだけ言って、昌義に弁解の機会も与えず、応接室を出て行った。
それが、昌義が杉崎の姿を見た最後だった。
杉崎一郎は、その夜、蒲郡埠頭に行き、車で海に飛び込んだのだ。


「大丈夫ですか、山田さん。車に酔っちゃいました?」
歩夢が心配そうに話しかける。
車はいつの間にか高原を下りて、平坦な道を走っている。
「いや、大丈夫だよ。ちょっと、考え事をしていてね」
「もうすぐ、秋扇湖ですわ」
ももこがバックミラ―越しに話しかける。
「シュウセンコ?」
「ダムに名前が付いているんですって。秋田の秋に扇の扇、そして、湖」 
車は少し山道を登り、やがて、前方左手に、満々と水を湛えた湖が見えてきた。
濃いブル―の美しい水だった。

「ああ、綺麗だな」
思わず口に出た。三人も歓声を上げている。
湖はきらきらと光り、山は紅葉し、息を呑む美しさだった。
ダムの周りには家一軒ない。ドライブインや土産物屋も無い。
全くの自然だった。

車をダムの堰堤に止め、四人は外に出る。
奥羽山脈から吹き降ろす風が、ダム湖を渡って吹き抜ける。
その風にもろに晒された。
「わあ、寒い」
歩夢はそういうと、さっと車から、上着を取り出して、ももこに着せ掛ける。
祐一も「大丈夫?」と聞いている。
まるで、お姫様の扱いだなと昌義は驚いた。

ももこはというと、そんなことに構わず、
「わあ、綺麗、綺麗、こんな景色の中で住んでいたのかあ」とはしゃいでいる。
昌義が「住むって、誰が?」と問うと、
「知り合いが、昔、ここに住んでいたんですって」
と答える。

「こんな山の中の、何も無いところで?」
昌義は思わず、周りを見回す。
「昔のことよ。今は誰も住んでいないわ」
昌義は碧子の言葉を思い出した。
確か、子供に人型でいるのを見られて、彼らは年に一度、秋の満月の夜しか人型に戻れなくなったのだ。
「それは、もしかしたら、お諸仏さんに出会った子供の一家のことかな?」
史記が振り向き、怪訝な顔をする。
「あら、その話、誰から聞いたの?」
「碧子さんから聞いたよ」
「そう……」
祐一は風に乱れる長い前髪を払いながら言う。
「僕らはお諸仏さんに出会った人から、その話を聞いてきたんです」
「それじゃ、その人は、今、東京に住んでいるんだね」
昌義は聞き返すが、彼らはその問いに答えない。

再び、車に乗り、目的地を目指す。
お諸仏さんに行く道は、ダムの終わりの手前を右にそれて、山道を登る。
がたがたの道を走っていくと、「鳩峰神社」という神社に出た。
うっそうと茂る秋田杉の、黒に近いような濃い緑と、燃えるような赤や黄色に染まった雑木林の中に、ひっそりと古ぼけた神社はあった。
どうと言うことの無い古ぼけた神社だ。

お諸仏はさらにその奥にあるという。ここからは歩きだ。
道は結構険しく、息が切れた。
三人はさっさと先を歩いていく。

――若くないんだなあ。

昌義は息を吐きながら苦笑する。
道は一本道なので、彼らに追い付こうと努力するのは辞めて、ゆっくり歩く。
それでも、息が切れた。
三十分ほど歩くと、大きな岩の下に彼らの姿が見えた。
お諸仏はイ―スタ―島のモアイ像のようにごつごつの巨石で、点々と山の中に在った。
顔だと言われればそうかとも思えるが、なんと言うことの無い苔生した石で、大した感動も湧かず、昌義はがっかりした。
 
――こんな石……ただのでっかい岩じゃないか。
こんなものがなにか力を持っていはずない。

歩夢たちは黙って石を見上げている。
同じような感慨を抱いているのだろうと、昌義は歩夢に話しかけた。
「なんてこと無い石だね」
だが、歩夢の声は震えていた。
「凄いよね。この石。こんな山の中に……やっぱ、お諸仏さんだ」
歩夢は手を合わせる。
ほかの二人も同じように頭を垂れて、手を合わせている。
昌義は居心地が悪くなって、周りを見回した。

山は黄や赤や茶、紫、あらゆる色をぶちまけた様に色づいている。
それは絵心の無い昌義から見ても圧倒的な自然の美だ。
彼らが感動してその場から動かないので、昌義は一人で、ぶらぶらと、来た道を戻る。
タバコに火を点け、吸いながら、坂道を降りる。
 
――願いが、本当に適うのなら、何が欲しい?
金、喉から手が出るほど欲しい。
五千万あれば、借金払って、あの金が返せる。
一億有れば、それ以外に自分の好きなことが少し出来る。
三億あれば、亜里沙とハワイで遊んで暮らせる。

でも……命は買えない。
何億あろうと、何千億、何兆あっても、失った命は帰らない。
お諸仏に願えば、杉崎を取り戻すことが出来るだろうか?

昨夜から、その考えが、ふっと浮かんでは消えていた。
そんなに霊験現らたかな仏様なら、杉崎を生き返らせることも出来るだろうと考え、その考えのあまりの奇矯さに苦笑する。

でも、もし、それが出来るのなら、と再び思う。

――生き返った杉崎に融資してやろう。
あいつの会社を立て直して、また飲みにいこう。
杉崎の下手なカラオケを聴いて、杉崎の得意なゴルフに付き合おう。
お諸仏などという滑稽無套な話を信じている者がいるのなら、死者が生き返る話だって有りだ。

昌義はそんな自分の考えに思わず苦笑した。

「何、しょぼくれてんだよ。ま―ちゃん」
突然、背後から、少年の声が聞こえた。

振り返ると、ジャ―ジ―と短パン姿の少年が道に立っている。
「君は……?」
ジャ―ジ―には見慣れたマ―クがついている。昌義の出た小学校のマ―クだ。
少し、えらの張った負けん気の強そうな鼻に覚えがあった。

「杉崎……?」

確かに、記憶の中の小学生の杉崎の顔だった。
少年は、黒に見えるほど濃い紫の小粒の葡萄を手に持っている。

「あっちにさ、山葡萄がたくさんあったぜ。取りに行こうよ」
少年の頃の杉崎の顔をした少年は、藪の中を指差す。

何も言えずに少年を見つめている昌義に、
「さっきさあ、その枝をリスが走って行ったの、見た?」
道のそばのブナの木の枝を指差す。

唖然としながらも、昌義はそれに答える。
「いや、見なかった」
「も―、ま―君は、いつもどじだからな。
勉強ばっか、しているからだぞ」

勉強ばっかしているから、というのは、杉崎が昌義をからかうときの常套句だった。
だが、それは、嫌味ではなく、なんだかなあ、だから俺が居なきゃだめなんだよという言葉に繋がった。

「俺がいるからさ、大丈夫だよ」
そう、言っていた杉崎と自分の位置が逆転したのは、唯一、あの融資を頼みに来たときだけだ。

――その逆転を、ほんの少し楽しんだだけだったのに……

「も―、先に行くからな」
じれったそうに言うと、少年はさっき指差した藪の中に駆け込んで行った。

黄色に枯れた草が揺れる。
濃厚な山の匂いが漂ってきた。落ち葉を踏みつけたときの匂いだ。


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