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November 02, 2004

満月伝説 #2 ディナー

初回へ ― 次回へ

客が少ないのは、大浴場が使用不可のせいか、あまりにも古ぼけているせいか、と昌義はロビーを見回す。
ロビーには人がいない。静かだった。表も薄闇に包まれ始めている。

昌義が一本目のタバコを吸い終えると同時に、新しい客が、タクシーで着いた。
客は二人連れ。
真赤なスーツを着た派手な顔立ちの貫禄のあるロングヘアーの女性と、地味な紺のスーツにおざなりな化粧をし眼鏡を掛けたショートヘアーの女性で、女社長と掃除のオバサンという感じだ。

ベルボーイが大きなヴィトンのスーツケースを三つも運んでいる。
通り過ぎる女性たちのほうから、強い香水の匂いが漂ってきた。
女社長が付けているのだろう。

ふと、その香りに、亜里沙を思い出す。
「昌義さん、本当なの? 奥さんと旅行なんて……
二人で旅行なんて、やはり、奥さんのこと愛しているのね?」

大田と別れた後、亜里沙と待ち合わせて部屋に行くなり、亜里沙はそう言って泣いた。
「そんなことないさ。あいつは言い出したら聞かないからね。
僕が愛しているのは君だけだ。心配しないでくれ」
その切なげな泣き顔に、胸を締め付けられ、昌義は亜里沙の肩を引き寄せて抱いた。
細く白いうなじが目に入り、愛おしさに腕に力が入る。
亜里沙は小学校の頃、実母を亡くし、後から来た継母に虐められて、毎日泣いていたと話したことがある。
高校卒業後、デパートで化粧品販売の仕事につき、家を出た。
「本当にビンボーだったけど、その時、この世の中にこんな幸せがあるかしらと思ったわ」
そういう亜里抄の横顔を見て、
――この女のためなら、何でもできる。と、昌義は思った。
それだけの価値のある女だ。妻の不機嫌な顔を忘れさせてくれる、癒しの存在。

去年の冬、海の側の埋立地に建築中の高級マンションを見て、亜里沙が、「あんな素敵なマンションに住めるのはどんな人かしら」と呟いた時、昌義は何が何でもそのマンションの一室を手に入れようと心に決めた。 

「そんなものいらないわ。あなたがいてくれればそれでいいの。無理しないで……」
健気なことを言った亜里沙。
「無理なんかじゃない。心配するな」
マンションの部屋を見て、亜里沙は本当に喜んだ。

昌義はマンションを買ったことを後悔していない。
だが、やはり、年収の3倍の価格のマンションは無謀な買い物だった。
その支払い金を捻出するために、昌義はかなり危ない橋を渡っている。

それでも、喜ぶ亜里沙の顔を見るのが嬉しかった。
彼女を守ることが、生きがいのように思えた。
そのためには、どんなことも我慢できる。
不機嫌な怪物のご機嫌取りだってする。

「あなたがいなくなったら、私、生きていけないわ」
亜里沙の声が甦る。
もう、一日たりとも、あなた無しでは生きられないという亜里沙。
それは昌義も同じだった。
「亜里沙……」
昌義の夢想を残して、ランコムのトレゾアの香りが遠ざかる。
 

「黄泉の国に行った恋人や、奥さんを追いかけて、黄泉の国に行った英雄や神様は、決して振り返ってはいけないという言葉を守らず、振り返る。
そして、そのあまりの醜さに顔を背けて、逃げ帰る。
彼女たちの本質は変わっていないのにね。

愛する人を早く見たいと振り返ったというのに、その容姿が醜いというだけで、それまでの試練や努力を捨て去って、愛する人を裏切る。
これが男の本質ね。

男の愛なんて、見かけが変われば変わる。
そして、平気で裏切る。
男は身勝手で、裏切り者と、神話の世界でも決まっているのよ。
で、女はそんな男を恨んで、仇を成すものになるのよ。地獄でね」

「女の人はどうして、夫を迎えに黄泉の国に行かないの?」
「女は、どうして、黄泉の国に出かけないのか?
女はそんなことしても無駄と知っているもの。
無駄なことはしないのよ。
それに、失ったものは、記憶の中にある。
いつも、記憶の中で会うことが出来るわ。自分の都合の良い恋人にね。
記憶の中の愛人は、ちゃんと自分を愛してくれるし、自分を見ている。
だから、サロメはヨカナーンの首を切るのよ。
ヨカナーンが最後に見るのは自分ひとり……」

しゃがれた甘ったるい声が流れる。
その話の内容とその声が、あまりにもミスマッチだったので、昌義は思わず立ち聞きしてしまった。
部屋に帰る前に、もう一服しようと、湖を見下ろすサンデッキに出たときのことだ。

サンデッキには、テント布の新調したばかりらしいけオーニングが掛かり、真新しい木製のガーデンセットが、3セット置いてある。

ロビーの出入り口から、一番遠いセットに、チェックインのときに、ロビーにいた男女三人組が陣取っていた。

その言葉は、その中の大学生くらいの女性が発していた。
後の二人、高校生くらいの少年二人は、けっこう真面目にその言葉を聴いている。
その中の一人など、うっとりとその女性を見ている。

確かに、可愛い女性だが、物凄い美人でもないし、背も低くて子供のような体型だ。
昌義のように、高級クラブのホステスを見慣れている大人には「小娘」にしか見えなかった。
着ているものも、ピンクのTシャツにジーンズという安上がりの格好だ。

少年たちは、行儀良く利発そうな感じで、最近テレビで見かけるJ事務所のタレントのように、スタイルも良く、かなりのハンサムだった。

――変な組み合わせだな。
その思いを声に出していったつもりは無いが、そう思った途端、彼らは一斉に昌義のほうを振り返った。

「え、いや、立ち聞きするつもりはなかったんだが……」
つい、言い訳をしてしまう。
こんな子供たちを無視するのは簡単だが、なぜか、そう出来なかった。

「面白い話をしているんだね、君たち、学生?」
三人は顔を見合わせる。
その中の一人、華奢で可愛い顔をした少年が答える。
「僕と彼は高校生です。彼女は社会人ですけど……」

太い丸太のサンデッキの手すりにもたれたまま、昌義は「そう、この辺の人じゃないみたいだね」と聞いてみる。
「僕ら、東京からです。おじさんは?」
話はもっぱら、華奢な少年がしている。
もう一人の、きりりとした顔立ちの少年と、童顔の女性は黙って紅茶を飲んでいる。

「愛知県から来たんだ」
「ずいぶん、遠くからいらしたのね」
甘くしゃがれた声で女性がようやく、口を開いた。
「隣の奥さんが、この近くに住んでいたらしくてね。
玉川の温泉の湯が、良いということを教えてくれたんだ。
あいにく、あっちは予約が取れなくてね。ここに来たというわけさ。
ウチのは、思い立ったら、即実行の人だから……」

三人は、また顔を見合わせる。昌義の言葉に納得しているのだろう。

「愛知県、どちらですか?
ぼくのおじいちゃんち、蒲郡なんですよ」
また、華奢な少年が訊ねる。
「へえ、うちは蒲郡の隣だよ。
奇遇だな。こんな山奥で、蒲郡を知っている人に逢うなんて」
「そうですよね。なんだか、うれしいな。
ウチのおじいちゃんちは、新しく出来た遊園地の近くなんです」
昌義はなんだか嬉しくなった。
「そう、それじゃ三谷のほうだね。私の実家は竹島のほうだよ」
「あ、行ったこと有ります。あそこ、景色の良いところですよね」
やけに愛想の良い子供だ。
今時の高校生が、こんなに愛想が良いとは意外だった。

少年は声を潜めて問いかける。
「ね、知ってますか?
このホテルに、神楽坂史記がいるんですよ」
「神楽坂史記って、あの作家の?」
「そう。従業員の話を聞いちゃったんです。今日、神楽坂史記が来るって。
でも、どの人が神楽坂史記かわからないそうです」
「ふうん、偽名で泊まっているの?」
「そうらしいですよ」
 
謎の推理作家・神楽坂史記の記事は去年あたり週刊誌を賑わせていた。
普段はゴシップ記事をあまり読まない昌義も読んだ記憶があった。
「週刊誌には、まだ若い女性だと書いていたが……」
「どんな人か、楽しみですね」
少年はニコッと笑う。
昌義は職業柄、有名人や、金持ちとなるとアンテナを立ててしまう。
――神楽坂史記と知り合いになれたら、何かメリットがあるだろう。話の種になるだけでも、メッケモノだ。

「山田様」
フロント係がサンデッキに顔を出す。
「奥様が心配なさっていらっしゃいますが……」
美奈子からフロントに電話が来たのだろう。
フロントの女性は顔が引きつっている。

「同宿のよしみで、また、話をしてください。それじゃ、失礼」
もう少し、話していたかったが、美奈子のご機嫌を損ねるのはまずい。
愛想の良い少年が手を振る。後の二人も会釈を返した。

――それにしても、神楽坂史記と同宿になれたとは……
こんなのボロいホテルに本当にそんな有名人が来ると思えんが……
あの子供たち、俺を騙しているんじゃないか?
だが、本当なら、有名人に逢える。
口笛を吹きたいような気分だった。

神楽坂史記、三年まえのミステリ―大賞受賞者。
その後、次々と新作を上梓して、ベストセラ―作家となった。
そればかりか、最近、実兄鴇野雄一郎の遺産十億を相続したと記事には書いてあった。

――十億、しかも、プラスの十億。
億っていい響きだなあ。
この不況の時代に、十億を貰えるなんて……顔を見てみたい。
昌義は、一時、美奈子の不機嫌な顔を忘れた。


夕食は五千円のお任せコースしかないという説明に、昌義は、一瞬、青ざめた。
しかしこんな山奥で、土地勘も無い身ではどうしようもない。
「当ホテルのシェフのコースは、ご好評いただいております」
フロントの若い女性の言葉を信じるしかなかった。

ロビーの奥のダイニングに向かいながら、美奈子はぶつぶつ文句を言い続けた。
「こんな山の中のこんなホテルで美味しいとは思えないわ。
山菜定食とかじゃないでしょうね?
私、山菜とか川魚とか蕎麦なんて、いやよ」
美奈子の言葉に、昌義も不安を抱かずにはいられなかった。

さらに驚いたことに、用意されたテーブルは七つしかなかった。
広いダイニングの中央に大きなアレンジメントが飾られた十人は座れそうなテーブルがあり、その周りに4人がけのテーブルが配置されている。
ダイニングに入ったのは、昌義たちが一番乗りだった。
各テーブルにはキャンドルが灯り、カットグラスにバラの花が飾ってある。結構、雰囲気は良い。
最初のコンソメスープを一口飲んで美奈子が思わず声を上げた。
「嘘みたい。こんなホテルで、こんなに美味しいスープが飲めるなんて」

スタイルの良い細面のソムリエが注いでくれたワインも美味しくて、美奈子はますますに上機嫌になっていたのだが、それも、他の客たちが入ってくるまでの話しだった。
係にそれぞれの席に案内される彼らの服装に、二人は唖然とした。
美奈子はス―プのスプ―ンを取り落としそうになった。

たかがこんなホテルのディナーと思っていたので、昌義も美奈子もリラックスできるカジュアルな服装だった。
昌義はポロシャツにチノパン、美奈子はシンプルなアンサンブルにパンツという格好だったのだが……

次々にダイニングに入ってくる他の客は、ブラックタイとロングドレスといういでたちで、温泉宿特有の浴衣姿のおじさんなど一人もいなかった。
昌義はホテルからの案内のどこかに、ブラックタイディナーだと書いてあったかと思い返したが、そんな文章は無かったと改めて思った。

二人は突然場違いになってしまった自分たちの服装を恥ずかしく思いながらも、出てくる料理の美味しさについ食が進んだ。
コンソメ・ス―プ、ホタテとエビのジュレ寄せ、キンキのポワレ、牛フィレと香草のグリエ、リンゴのシャ―ベットをメインに三種類のケ―キやパイが盛り合わせてあるデザ―ト。
どれもが今まで食べた経験のない味だった。
同じ食材で、同じような料理を食べた記憶はあるが、比べ物にならない最高の味だった。
この料理だけでも、このホテルにして良かったと、しみじみ思えるほどだ。

ふと、昌義の耳に後ろの会話が入る。昌義の後ろはあの三人組だ。

「……たとえば、百m走で、一生懸命に走っていたとする。
二十mくらいも走れば、差は歴然としてくる。
トップを走っている人間は自分がトップであることを自覚する。
高揚した気分で走っていると、七十mくらいのところに大きな穴が開いていて落ちてしまう。
落ちて足を挫いて、もう、走ることは出来ない。

トップがいなくなって、二番手はこれ幸いと頑張る。
でも、今度は七十五メートル位で、同じように落ちる。
三番手は八十メートルで落ちる。みな、どんなに頑張っても完走できない。

次のグル―プはそれを見ていて、用心して走る。
でも、どんなに用心しても、穴があって、完走できない。

その後のグル―プはそれを見ていて、そうか、完走は出来ないのだと、思ってしまう。
それなら、全力疾走して、骨折するのは馬鹿らしい。
そこそこ、走って、落ちる手前でリタイヤしよう。そのほうが賢いと思う。

成功したモデルが必要なのはどの世界でも同じ。
成功者の幸せそうな顔を見て、人は妬むし嫉む。

だけど、あの人が出来るなら、自分だってという意欲と自信も与えて貰える。
誰も成功しない、誰も幸せになれない世界は、生きる力を失わせる。

そこで、頑張っている人の頑張り度が、高ければ高いほど、無力感を増幅する。

あんなに頑張っても、あれ程度にしかならないなら、やるだけ無駄だと、思わせてしまう。
今の日本の状態は、まさにそうよね。
無力感に、生きる力が失せてしまうの。集団自殺は、時代の犠牲者よ」

彼らの席には、まだ、グリルが運ばれたばかりだった。
舌で蕩けるフィレ肉を口に運びながら、あの小娘はまるで演説さながら、一方的に話している。
少年二人は、その話を聞きながら、ときどき、ちゃんと頷いたり短い合いの手を入れている。

小娘はノ―スリ―ブのシンプルなサテンの真紅のロングドレス。
胸には大きなダイヤモンドが真ん中に入り、周りに真珠を廻らせたバラを模った飾りつきの友布のチョ―カ―をしている。
あんな大きなダイヤが本物だとは思えない、偽物に違いないと昌義は決めてかかった。
だが、小娘と思っていたが、ちゃんと化粧をし、そんな格好をすると、それなりに気品もあり可愛い顔立ちの女の子だった。

高校生の男の子二人も、ちゃんと、タキシードを着ている。
彼らほど、タキシードの似合う高校生も珍しいだろう。
スリムな体型にサッシュが良く似合って、へたなタレントよりも輝いて見えた。
もともと、彼らは顔立ちがよいし、つるつるの肌をして、今はやりのメンズエステにでも行ったような顔をしている。
背の高いほうの少年はさらさらの長めの前髪が印象的で、もう一人は女の子顔負けの可愛さだった。

その二人に比べると、女の子はちょっと可哀想だった。
百五十センチそこそこの小柄な体型、可愛いが子供っぽい顔。
しかも、その顔に似合わず、話している内容は変なことばかりだ。
見かけとはかなり違う。

――それにしても、あいつら、どういう組み合わせだ?
この時期に、こんな山のホテルに、どうしてあんな子供たちが着ているんだ?
もしかして、今、流行の、インタ―ネットで知り合った自殺志望同士?
とすると、女が、少年たちを誘って、自殺を持ちかけているのか?

「あなた、あなたったら!」
美奈子のきんきんした声が耳に入った。どうやら、少し前から、昌義を呼んでいたらしい。
「どうした?」
「ね、聞いた?」
テーブル越しに身を乗り出して、およそ遠慮というものをしない美奈子が驚くべきことに声を潜めて話している。
「何を?」
つい、昌義も小声で答える。
「私の後ろの人たちの会話、聞いた?」
「いや」
「このホテルに、料理の超人の丹波シェフがいるというのよ」
「丹波シェフ?」
「あら、知らないの?」
むっとしたような美奈子の表情に、
「料理のことなんか、僕に分かるわけないだろう」
あわてて言い訳する。
「この前、『世界の料理の超人』で、超人になったフレンチの代表よ。
あなたも一緒にテレビ見たじゃない」
昌義にはそんな記憶は無かった。
美奈子のご機嫌とりで、たまに一緒にテレビを見るが、美奈子の好きなファッションにグルメ、歌番組には興味が無い。
その時は、見ているような振りをして、亜里沙のことでも考えていたのだろう。

「東京の代官山の店は、予約三ヶ月待ちのカリスマシェフよ」
「よく知っているね」
「あのあと、すぐに予約したのよ。そしたら、そんなこと言うのよ」
「ふうん、で、止めたのか?」
「まさか、予約したわよ。来月の十一日のランチ。夜だと、もう少し先になるから」

俺が必死で、理事長のご機嫌取りや、部下を叱咤激励しているときに、こいつは三ヶ月先の昼飯の心配か、と昌義はうんざりする。

「そんな凄い人が、この古ぼけたホテルに何をしに来ているんだ?」
「そんなの、私に分かるわけないじゃない」
「もしかして、この料理はその名人が作ったのかな」
機嫌が悪くならないように、昌義は話を合わせる。
「何、馬鹿なこと言ってんのよ。
あの人が料理したら、一人前三万は下らないわ。
このホテルの五千円の夕食コースで、そんなことあるわけ無いじゃない」
「確かに……」
「そういえば、こんなところに、泊まりに来るのも考えられないわ」
「いや」
昌義はさっきの少年の話を思い出した。少しはポイントを稼げるかもしれない。
「このホテルは、結構、侮れないかもしれないぞ」
「なんでよ?」
「さっき、神楽坂史記が泊まっているっていうのを聞いた」
「うそ―」
美奈子の大きな声にひやひやしたが、皆、こちらを無視している。

美奈子は、さりげなく、客たちを見回す。
この客の中にいるとすれば、すぐに分かりそうなものだが、それらしい人物は見当たらなかった。

出口から一番近い席、美奈子の後ろには、女の二人連れ、姉妹には見えないが親しそうに話している。
グリ―ンのドレスを着た背の高い理知的な女性と、黒のドレスの痩せた若い女性。
若い女性は化粧気がないが、素肌が輝いている。どこかで見たような気がしたが、思い出せなかった。 

美奈子の左横は、中年の男性と例のいかにも切れ者そうな派手な女性と地味な女性の三人組。
男はタキシードにブラックタイ。
派手な女性は納得のオレンジ色に大胆なグレ―の模様のドレス。
地味な女性のほうは納得の紺のシンプルなドレスを着ている。
もっぱら、派手な女と男が談笑し、地味な女は黙々と食事をしている。

右横は用意されているが空席だった。

昌義の左横は中年の銀縁の眼鏡を掛けた髭の男性と同年輩の女性のカップル。
あの、美奈子がシガーに文句をつけた男性だ。
アカデミ―賞に出席する個性派俳優のように、彼にはタキシードが似合っている。
同伴の女性も上品な藤色のドレスを無難に着こなしている。

昌義の右横はいかつい顔のがっしりした体型の男性と賢そうな現代的な美人の若いカップル。
二人とも二十代だろう。
男性は体格も良く、いかつい顔をしていて、ブラックタイが窮屈そうだ。
女性はサ―モンピンクのドレスが可愛さを強調している。

昌義の背後があの若者三人組。

神楽坂史記が鴇野雄一郎の妹だというのなら、三十八才以下でなければならない。

――髭の男の同伴の女以外はなんとか当てはまるな。
あの若いカップルの女か、ぎりぎりのところであの二人組の女たちのどっちか。
金持そうに見えるという点では彼女たちが怪しい。
まさか。あの小娘とは思えない。あんなのとても億万長者の推理作家には見えんぞ。
それにしても、やはり、大浴場のせいで、キャンセルが多かったのか?
古ぼけているといっても、大きなホテルだ。
そんなところに、たった七組・十四人しか客がいないとは。
従業員のほうが多いじゃないか。
そういえば、このホテルの従業員は、やけに、若い子が多いな。
フロントの女も、掃除をしている女も、食事を運んでいるウエイターも、まだ、学生みたいな若さだ。
もしかして、経費節減のために、フリ―タ―で営業しているのか?

想像をめぐらし、昌義は美奈子との食事中だというのに、なんだか楽しくなった。
「何か良い事あったの?」
ニヤニヤしている昌義に美奈子は不審気な目を向ける。
「いや、別に……」
そのうちに、どの人が神楽坂史記か聞きだす機会もあるだろうと昌義は思う。

三十代半ばの、背筋の通った細身のタキシード姿の男が、入り口でダイニングを見回し、一礼すると、つかつかと昌義たちのテーブルにやってきた。

「山田様、本日は、当田沢湖高原レリーブドホテルにご宿泊いただきましてありがとうございました。
支配人の迫田でございます」
この年で、支配人というからには、よほどの切れ者か、自分のようにオーナーの身内なのだろうなどと、昌義は考えてしまう。
「大浴場が使用できず、申し訳ございません。
食後にバスを出しますので、よろしければお近くのホテルの温泉にご案内いたしますが……」
「いや、いいよ、今日は。明日、玉川温泉にいくから」
「それでは、ほかの湯に入るのは止められたほうが良いでしょう。
あそこの湯は、格別に強ようございますので。
ディナーはいかがでございましたでしょう?」
「こんな美味しいお料理は初めてですわ」
美奈子はうっとりと、その支配人を見上げながら、最近、昌義が聞いたこともない優しい声で答えている。

よく見ると、支配人は、少し釣り気味の目は涼しくあごは尖っていてすっきりとしたハンサムなのだ。
細身の長身で、目元の涼しい、整った顔立ちが、美奈子の好みなのだ。
彼の容貌に、うっとりしているのだろう。
昌義も若い頃はそうだったが、最近、腹も出て、あごも丸くなってしまった。
そうなると、美奈子は昌義に興味は無くなり、最近は悪友たちと上京しては歌舞伎町のホストの元に通っているらしい。
美奈子から気持ちが離れたのは、美奈子の病気が原因で子供が出来なくなったことでギクシャクしたのもあったが、それも一因だった。
友人との電話でそのことを話しているのを立ち聞きして、美奈子に抱いていた幻想が崩れたのだ。

「当ホテルのシェフは、若手ですが、素晴らしい腕の持ち主です。
お気に召して頂いて光栄でございます」
「こんなに、美味しいお料理なのに……ぼろ、いえ、あの、やはり、大浴場のせいで、キャンセルが出たの?」

さすがの美奈子もこのホテルがぼろだからと言う言葉はこの支配人には言わないんだと昌義は苦笑する。
支配人は真面目な顔で台詞のような言い回しをする。
「いいえ、キャンセルはございません。
定員が一杯なのです。月が満月に近づいておりますから……」
「…………?」
美奈子は怪訝そうな顔をしたが、支配人はその言葉の説明をせずに、にっこりと愛想笑いをして「どうぞ、ごゆっくり」と挨拶すると、美奈子の後ろのテーブルに移っていった。
デザ―トが運ばれている席を回っているらしく、昌義たちの席に一番に来たのだ。

昌義は、満月という言葉を聞き違えたのかと思ったが、
「ねえ、今、あの支配人、満月が近づいているからって言ったわよね?」
と美奈子が確認したから、やはり、そう言ったのだと納得した。
「ああ、どういう意味だろう?」
支配人の隣の席での会話に、聞き耳を立てる。
「いかがでしたか?」
「そうね、組み立ては、有り溢れているけど、味はいいわ。
グリエのソ―スは絶品ね。色彩は、流石だわ。
パテシエは、ちょっと、問題ね。
最後のデザ―トは料理の余韻を引き立てるもの。
今日のでは、自己主張が強すぎるように思うわ」
「かしこまりました。ほかに、何かございますか?」
「ソムリエは、体重を五キロ減らして、ウエストを五センチ縮めなければね。
ラインが綺麗に出ないわ」
「良く、申し伝えます」
「そんなところね」
「ありがとうございます」

派手な長い髪のオレンジ色のドレスの女性の言葉に、昌義も美奈子もあっけに取られた。
料理についてはともかく、ソムリエの体型までは聞いていないだろう?
だが、支配人は緊張した面持ちで、畏まって聞いている。
「この料理は、予算内で出来ているの?」
眼鏡を掛けた、紺のシンプルなドレスを身に着けている女性が聞く。
――彼女が口を開くとは! 
低音だが、はっきりした発音の声は彼女の風貌にぴったりだった。
「はい、予算どおりです」
緊張した支配人の声が聞こえる。
「ふーん。料理はよいと思うけど、キャンドルは少し、匂いがきついわ。変えたほうが良いと思う」
「はい、畏まりました」

「なんとも、恐るべき女たちだ」と思ったのは、甘かった。
支配人は次に、中年カップルの席に回ったが、そこでの会話ははっきりとは聞き取れなかったが、なんと、十分近く、男は支配人に何事か話し続けている。
切れ切れに聞こえてくる内容は、フロントの対応から、従業員の態度、調理時間に至るまでのチェックをしていて、何のためにそんな話をと、昌義は訝しんだ。
パリやロ―マの一流ホテルと、このホテルを比較して話しているのだが、こんな田舎の古ぼけたホテルと比べるのもどうかというばかりでなく、おおむね、評価は良く、それも不思議だった。

そして、女二人連れ。彼女たちは口々に料理を褒めている。

次に、彼は一番奥のカップルのところに行った。
「いやあ、美味しかったですよ」
という普通の感想を聞いて、昌義はなぜかほっとした。

昌義は支配人にあの子供たちが何を言うか、特に、あの変な小娘が言うことを聞きたいと聞き耳を立てる。

「前菜のホタテとエビのジュレは色彩も味も良かったよ。
オレの好みからすると、キンキのポアレは、少し塩っぱかった。
もっと良い塩を使ったほうが良いね。
グリエは素晴らしかった。味も香りも最高だった。
それから、デザ―トのりんごのシャ―ベットだけど、甘味が強すぎる。
りんごの種類が問題だと思う。
ほかの二つは文句なく美味しかった。
さすがに、オオツルさんだけのことはあるね。
だけど、全体の流れとしては、ちょっと、デザ―トが強すぎるかもしれない」
そう答えたのは、あの、端正な顔立ちの、さっきは一度も話さなかった少年だ。 
後の二人は、すごく美味しかったよというだけで、格別コメントはなかった。
昌義は意外だった。あの少年は、あまりおしゃべりではないのかと思っていたが……
支配人はこのテーブルのコメントを、緊張して聞いている。
たかが子供と、馬鹿にもせず、いちいち、コメントに頷いている。

だが、普通、温泉ホテルの料理の感想を、こんなに長々と、微にいり細に入り、話すものだろうか?
なんだか、変な連中だ。
昌義はまるで、料理の品評会に紛れ込んだような気がした。

ダイニングを出て部屋に帰ろうと、エレベーターを呼ぶ。
上の階から降りてきたエレベーターのドアが開くと、ふんわりとフロ―ラルノ―トの香りが漂った。
あの派手な女性とグリ―ンのドレスの女性は、ロビーに出てタバコを吸っている。
この香水の主とは違うようだ。

「ああ、良い香り。この香水の香りは初めてだわ。
爽やかな花の香り……」
美奈子はうっとりしながら残り香を嗅いでいる。
その穏やかな表情に昌義がホッとしたのも束の間、部屋に入るなり、美奈子は怒り始めた。
バッグをテーブルに投げ出すと、
「あなた、よくも私に恥をかかせてくれたわね。夕食のドレスコ―ドがブラックタイとドレスだなんて……」
「いや、僕も知らなかったよ。まさか、こんなホテルで、そんな決まりがあるとは……」

――会社の社員旅行で来たと大田さんは言っていのに……

「どうするのよ、明日から。私、ドレスなんて持ってきていない」
美奈子は今にも泣き出しそうだ。
負けず嫌いの美奈子には我慢できない屈辱だったのだろう。
おろおろしながら、昌義は、
「支配人に聞いてみるよ。明日もそうなのか。そうだったら、明日は別のホテルに変わろう」
「そんなのいやよ。あんな人たちに馬鹿にされたまま、すごすごとホテルを変わるなんていやよ」
「でも、ドレス、持ってきていないんだろう」
「でも、いや、いやよ。何とかしてよ」
とうとう泣き出した美奈子を置いて、昌義は支配人に会ってくるといい置き、あわてて部屋を出る。

ちょうどエレベーターが登ってきていて、直ぐにドアが開いた。
エレベーターの扉の向こうに、あの地味な女が立っていた。
入れ違いにエレベーターに乗りこむ。
見ていると女は昌義たちの部屋の手前の部屋のドアを開けようとしている。
エレベーターのドアが閉まって、ゆっくりと一階に下りる。

ロビーを見渡すと、派手な女とグリ―ンのドレスの女が、灰皿の置いてある席に座っている。
少し躊躇ったが、昌義も、彼女たちの隣の灰皿の置いて有る席に腰掛ける。

――とりあえず、一服。一服。

ポケットからタバコを出し、火を点ける。
思いっきり吸い込んで、煙を吐き出す。この瞬間の開放感が堪らない。

「随分、美味しそうに召し上がられますのね」
隣の胸の開いたシンプルな深緑のドレスの女性が声を掛けてきた。
かなり色白の女性で、右手の中指にドレスに似合わない救急バンドを巻いている。

「え、ああ、体に悪いといわれても、これは止められませんね」
「タバコって、新大陸からヨ―ロッパにもたらされた時には、血液をきれいにし頭痛を直す薬として広まったらしいですよ。
今のように、隣で吸っているのも健康に悪いなんて、誰も考えなかったのね」
彼女は煙を細く格好良く煙を吐きながら、そんなことを言い出した。
見直すと、二十半ばくらいの綺麗な女性だ。

その隣のもう少し年配の派手な女性はゆったりと足を組んで座り、ニヤニヤしながら、昌義と彼女を見ている。
堂々とした立ち居振る舞いは、昌義も貫禄負けするような女だ。 
ディナーの時のまま、オレンジ地にグレ―の大きな花模様をあしらったオ―ガンディ―のロングドレスに模様と同じグレ―のショ―ルを羽織っている。

「失礼ですが、お二人は、どちらから?」
「…………」
「…………」
顔を見合わせて、女たちは肩を竦める。
「あ、失礼しました。私、山田といいます。私は愛知県から来ました」
名刺を差し出そうとポケットを探ろうとして、ジャケットを着ていないことに気がついた。
「私は東京からです。大楠碧子、よろしく」
グリ―ンのドレスの女が自己紹介する。
「私も東京、金沢陽子ですわ」派手な女がそれに続く。
「こちらには良くいらっしゃるんですか?」
陽子は、ふふっと小さく笑うと
「ええ、毎日忙しく仕事をしていると、こんな田舎の何にもない温泉で、ゆっくりしたくなりますの。
お宅様もそうじゃございません?」
「まあ、私の場合は、妻の御伴ですけどね」
「奥様、このホテルが気にいらなかった?」
碧子と名乗った女性が首を傾げる
「まあ、気にいらないものの方が多いんですよ、あいつは。
このホテルのせいじゃありません」

それでも温泉宿で大浴場が壊れているのは致命的だったなとふと思う。

陽子はタバコを消すと、小さなバッグを開けて、名刺を取り出し、昌義に差し出す。
「私、こう言う者ですの」
肩書きを読み、昌義は驚きの声を上げる。
「グローバルライン、代表取締役社長……それでは、あなたがあのグローバルラインの新社長ですか?」
「グローバルラインをご存知ですの?」
「もちろんです」

グローバルラインが有名になったのは、皮肉なことに前社長だった鴇野雄一郎が亡くなり、その遺産が三十億もあったことからだった。 
鴇野雄一郎は勤めていた証券会社が、ある朝出社したら倒産していて、その時に自己破産した。
その後、投資会社を始め、その独特の投資戦術で、着々と投資に成功したという話は有名だ。
もちろん、グローバルラインという投資会社が、業績を伸ばしていることは業界では知られていたし、株も上場していた。
一般人に知られたのは、鴇野雄一郎の遺産を相続した妹が、ミステリ作家の神楽坂史記で、その遺産相続をめぐってひと騒動があったからだ。
そのあとでも、神楽坂史記の家で何か事件が起こったはずだ。

昌義は、また、習慣で胸に手をやったが、
「すみません、また、後で、名刺は差し上げます。私は山田と申します。
愛知県のL信用金庫に勤務しております」
昌義はすっかり営業モ―ドに入ってしまい、言わなくても良い職業まで言ってしまった。

「あら、やはり、金融関係の方でいらっしゃいますのね。金融関係の方って、独特の雰囲気がございますものね」
陽子は、昌義をじろじろ見ながらそんなことを言う。
「いや、小さな信用金庫ですから、御社のような大きな会社に出入りされているような方たちとは比べられませんよ」
昌義は一応謙遜する。
「そんなこと。ご存知ないかもしれませんが、ウチは鴇野が自己破産してから作った会社ですから、結構資金繰りは大変でした。
でも、それなりに、鴇野を信じてくださる方たちのおかげで、ここまでやって来れたんですわ。
大きな銀行さんは相手にしてくださらなくて、ある信用金庫の支店長さんが、鴇野と私を見込んで協力してくださったおかげで、今のグローバルラインがあるんです。
小さい組織にしか出来ないことがございますわ。
山田さんの力で育った会社もございますでしょう?」

昌義は苦笑いしながら、ふっとある顔を思い出した。
胸の中に苦いものがこみ上げてくる。

昌義のそんな気持ちを察したのか、碧子が話題を変えた。
「まあ、俗世の仕事の話は止めよう。
明日の晩は満月だし……」
碧子の物言いは男に近い。
「そうそう、金融関係の方なら、彼女とお知り合いになっておいて損はございませんわよ。
碧子さんは、とても有名な漫画家でいらっしゃるの。
この前、一億も税金納められたんですもの」
陽子がからから笑いながら、碧子の紹介をする。
昌義は思わず、碧子を見直す。
「凄いですねえ、一億ですか……」

そう言いながら、頭の中で、納税が一億ということは、収入は……と考え、自動的に弾き出した額に愕然とした。
――筆一本で三億も稼ぐ女、化け物に近い……

「ああ、喉が渇いたわ」
陽子はそういうと、また、タバコに火をつけてウエイターを呼ぶ。
「スコッチ、水割りで。山田様はいかがですか?」
「ああ、いただきましょう。同じものを」
「私はストレ―ト、ダブルで」
碧子はかなりの酒豪らしい。そんなオ―ダ―をした。
頬の赤い童顔のウエイターは、下手な俳優の台詞のような言い回しで、
「マッカランで宜しゅうございますか?」と聞いた。
「ええ」

昌義はなんだか気分が良くなって来た。
やり手の美女二人と酒を飲む機会などそうそうあるものではない。
美奈子のことが気にはなったが、満月という言葉に興味が湧いてきたのだ。

「そういえば、ここのディナーはブラックタイだったんですね。
私たちは何も知らなくて、失礼しました」
と、昌義は切り出す。
「ああ、それは、別に決まりではないから、何、着ていようがいいわよ」
碧子は素っ気なく答える。
「そうなんですか? でも、皆さん……」

ウエイターが水割りを運んで来たのを受け取り、陽子は微笑む。
「明日は満月ですから……満月に敬意を表しただけだわ」
陽子は水割りを慣れた手つきで昌義の前に置いた。

「その満月というのは何ですか?
先刻、支配人も満月だからと云っていたが……」
昌義は思い切って聞いてみる。

碧子はまじまじと昌義の顔を見て呟く。
「山田さん、このホテルの満月伝説のことを知らないの?」

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October 31, 2004

満月伝説 #1 レリーブドホテル

初回(このページ)―次回へ

小高い山々の上で機体は低空飛行に入った。
人家などまるで見えない山の中だ。
墜落しているのかと心配になり、小さな窓から下を覗いた途端、滑走路が目に入った。
秋田空港は山の上にあった。

小さな空港には人が溢れている。
一日往復各一便しか無い小牧からの便は満席だった。
アナウンスを聞くと離発着が何便か集中しているようだ。
その上に、東京からの便が一時間も遅れて到着したのが、この混雑の原因らしい。
 
昌義は足を引きずっている妻の分の荷物も持ち、外に出て、ホテルからの送迎バスを探す。 
愛知県の家を出るときには、汗ばむほどの陽気だったが、この空港に降り立った途端、空気は澄んで冷たく、上着を一枚着なければならなかった。

秋田市内行きのバスや田沢湖方面行きのバスもある。
一台の大型バスが止まっている。
前に回り、行く先を見ると、名札は出ていなかった。

若い学生風の男女が添乗員の指示でぞろぞろと乗りこんでいる。
こんな集団は小牧では見かけなかったから、どうやら、東京から来た便の搭乗客だろうと、昌義は推察した。

ほかにも何台か小型の送迎バスが止まっていて、少人数の団体や個人客が乗っていたが、昌義たちの泊まる田沢湖レリーブドホテルからのバスは見当たらなかった。

溢れていた客は十五分もすると、それぞれ、バスや、タクシー、個人的な出迎えの車って消え、山の上の空港は閑散とした。
昌義は焦って、ホテルに電話を入れる。
「はあ、まだ着いておりませんか、申し訳ございません。
もうすぐ到着すると存知ますので、今しばらくお待ちくださいませ」
やけに丁寧な応答をする男性がでた。 

美奈子のイライラが伝わってきたが、送迎バスが出ているというのでは待つしかなかった。
「ねえ、もう、タクシーで行きましょう」
美奈子に急かされても、そのタクシーが、もう一台も見当たらない。

三十分以上待たされて、これ以上はと思ったとき、ようやく、バスが到着した。
小型のマイクロバスから、色黒の中年男が降りてきて、人懐っこそうな笑顔を見せる。

「いやあ、まんずまんず、申し訳ねすでぁ。とつうで、パンクすちまって……」
人のよさそうな秋田弁の運転手は、どうやら、本当に申し訳ない、途中でパンクしてしまってといっているらしい。

「まったく、どれだけ待たせるつもりなの」
美奈子は運転手に怒鳴る。

この時代に、美奈子の言葉が通じないわけは無いと思うが、運転手はニコニコしながら、マンズマンズというばかりで埒が明かない。
さすがの美奈子も呆れて黙った。

そのバスに乗ったのは、昌義たちだけだった。
貸切状態のバスの中で、空港からホテルまでの一時間、美奈子は一言も口を利かず、怒りを体中で表現していた。

お嬢様育ちの美奈子には他人の失敗を許さないわがままなところがある。
それは、父親の山田鑑三と通じるところで、その狭量さに、昌義は父親のDNAを感じて心が萎えてしまう。

何の特徴も無い田舎の道を走って、田沢湖町に入ると、様相は一変した。
山脈の連なりの中に一際高い山が目に入った。
駒が岳というその山は、活火山で、何十年かごとに噴火するという。

「花火みだくドカンドカンと、何分置きかに噴火すて、そりゃあ、綺麗だすでぃあ」
運転手は楽しそうにその様子を説明する。
話を推測するとどうやら噴火も観光の目玉になっているらしい。
 
マイクロバスはその駒ヶ岳に向かう白樺林となだらかな草原の丘を、大きくカ―ブして道を登り、やがて、ホテル街に出た。
大きなホテルが何軒も並んでいるその一角で曲がり、また上る。
素晴らしく紅葉した雑木林に入り、三叉路の真ん中を上る。
少し走ると道は大きく左にカ―ブして、林に隠れるように古ぼけたホテルが見えてきた。

三階建位だろうか、趣があるといえば聞こえは良いが、壁の一角が剥がれている。古いホテルだ。
大きな流れ屋根の建物の正面は入り口が階段の上にあり、その横はオーニングが架かるテラスデッキになっている。
「レリーブド=Relieved=癒し」というには程遠そうなぼろぼろのホテルだ。
隣りの美奈子が息を呑んでいるのがわかり、昌義は憂鬱になった。


「まったく、あなたってこんな簡単な手配も出来ないの?」
フロントの前で、美奈子は昌義を怒鳴りつける。

チェックインのサインをしようとペンを持った時、背の高い若い女性のフロント係が申し訳なさそうに言い出した。
「実は、湯元からのパイプが事故で壊れたため、本日は大浴場をご使用いただけません。
ほかのホテルをご紹介しようと手配したのですが、あいにく、この近くのホテルはすべて満室でございまして……各室のシャワ―は使用可能なのですが」

その説明を聞いて、美奈子は怒り出し、フロント係りに散々文句を言った挙句、昌義に怒鳴ったのだ。
客たちの視線が、自分に向けられるのを感じて、昌義は顔が紅潮するのを感じた。

タクシーで後から着いて、チェックインのために、ロビーで順番待ちをしている若い男女、男と女二人の三人連れ、中年のアベック、美奈子が怒り出してから、何組かの客がやってきて、ロビーで所在なさそうに待っている。

「私は、玉川温泉に行きたいの。
どうしてこんなところに部屋を取ったのよ?」
フロントの前で、銀縁のメガネを右手で直しながら、昌義はささやかな抵抗の言葉を口にする。
「でも、あそこは、予約が取れなかったんだよ」
「だったら、来るんじゃなかったわ」
「美奈子、ここに泊まって、玉川温泉に行けばいいじゃないか?」
「あなたってば、本当にいい加減なんだから。
こんなホテルに、どうして泊まらなきゃならないのよ」
古びたホテルのロビーを見回して、美奈子は、ほとんど叫んでいる。

フロント係は、こわごわと、昌義に声を掛ける。
「お客様、キャンセルなさいますか?」
「誰も、キャンセルするなんて、言っていないじゃない」
美奈子は、今度は、フロント係に噛み付く。
美奈子がこうなったら、手がつけられない。

昌義はフロント係に頭を下げて、美奈子の手を引いて、ロビーのソファに座らせ、チェックインの手続きにもどる。
美奈子は、座ると周りを睨み付けた。
ロビーの椅子に座って、様子を伺っていた客たちは目を伏せる。
シガーを吸っている隣席の中年の男性に美奈子は噛み付く。
「あー煙い、ここは禁煙じゃないのかしら?」
穏やかそうな髭の男は、大人しくシガーの火を消して、立ち上がった。
同伴の女性があわてて後を追う。
トレッキングでも出来そうなチェックのシャツを着て、ウォ―キングシュ―ズを履いたカップルだ。

隣のテーブルで地図を広げていた三人組みの男女は、あっけに取られ、目を丸くして、美奈子を見ている。
若い女性と高校生くらいの少年二人。
この山奥のホテルでは、かなり目立つ三人だった。
美奈子は三人を睨み、ふん、と視線を外す。

「それでは、三泊のご予定で、お受けしてもよろしいでしょうか?」
様子を伺っていた昌義は、フロント係の慇懃な嫌味を聞き流して頷いた。


部屋に入っても、美奈子はホテルの設備や部屋の造作について文句を言い続けている。
いかにも一昔前の温泉宿の客室という造りの、床の間つきの和室と、簡単な応接セットのおいてある洋室の二間続きの部屋が気に入らないらしい。
だが、掃除は行き届いているし、畳も新しい。古いながらも、清潔で、使いやすそうな部屋だった。

「お前がいつも行っている銀座のホテルや、新宿のホテルのような設備の整った豪華なホテルが、この山の中にあると思うのか」
そう怒鳴りたい気持ちを抑えて、昌義は猫なで声を出す。
「温泉に入りたいなら、マイクロバスで近くの温泉に連れて行ってくれるそうだよ。
ほら、秘湯で有名な鶴の湯とか、黒湯にすぐいけるってさ、どうする?」
美奈子は返事をしない。昌義は窓を開けて深呼吸する。
「見てごらんよ。田沢湖が見えるよ。
なんか、山の上にあるようで、不思議な湖だね」

美奈子はソファに座り、お茶請けの饅頭に手を伸ばす。
一口頬張って、「あら、美味しいわ」と言うと、それを手に持ったまま立って、昌義の隣りに来た。
周りを見回し、口を尖らす。
「山ばっかり、いやんなっちゃう」

紅葉した林や銀色に光る湖の景色の素晴らしさは、美奈子には通じないらしい。

「まあ、秘湯が有る様な所だからね。玉川温泉はここよりもっと山の中らしいよ」
「や―ね、骨折なんて、あなたのせいよ」
美奈子は昌義を睨み付ける。

その言葉に唖然として、昌義はつい、口答えしてしまった。
「僕のせいって?」
「あの日、あなたが送ってくれなかったから、あんな駅で待ち合わせしたのよ」
美奈子が骨折したのは、友達と食事をしようと予約したレストランに行く途中の駅の階段を踏み外したからなのだが、そんなことも、あなたのせいと美奈子は言う。
確かに、その日、昌義は接待ゴルフの予定が入っていて送ってやれなかったが、そこまで言われると開いた口が塞がらない。

「…………」
「もう、あなたと結婚して、私の人生、めちゃくちゃ」
そういうと、美奈子はソファに戻り、昌義の分の饅頭に手を伸ばす。
痩せたい、痩せたいと言って、高価なダイエット食品を買い込んでエステ通いをしているくせに、美奈子は少しも痩せない。
そんな物を食べるから太るんだと口に出掛かった言葉を、昌義は慌てて飲み込んだ。
「タバコ、吸ってくる」

タバコとライターだけを持って、昌義は、部屋を出る。煙嫌いの美奈子はついてこない。
タバコを吸う時間だけが、昌義の解放される時間だ。


エレベーターでロビーに下りて、灰皿が置いてあるテーブルのソファに座る。
シンプルだがゆったりとしたソファに深く腰掛け、国産の愛用のタバコに火を点けた。

この山を下り、川沿いに青森県のほうに向かい、ダム湖を二つ越えたところに玉川温泉はある。
最近はマスコミに取り上げられ、かなり有名になった玉川温泉は、北投石という珍しい石を温泉の力で作り出す。
ガンと診断された大物政治家が湯治をしていたとか、ここの湯に漬かって、ガンが治るとか評判の温泉で、美奈子はその話を聞き、自分の怪我の治療に行きたがった。
たかだか骨折で、こんなところまでと言う気持ちもあったが、美奈子は言い出したら聞かない。
昌義はその願いを適えるために、秋の連休の予約を入れようと、ホ―ムペ―ジを見たのだが……

「一般的に温泉といえば、行楽面や便利さ、豪華さ等を連想しがちですが、 玉川温泉は、不便なアクセス、斜面を利用した階段の多い施設、テレビ・冷蔵庫等のない客室(強酸性の空気の影響で金属類が腐食しやすいため)等々、 決して良い環境とはいえませんが、「温泉」だけは他に類をみないほど素晴らしいものです。
環境や状況をご理解いただいた上で、是非一度お試し下さい。……玉川温泉地内の大噴(おおぶき)から湧き出る温泉の影響で、空気中の酸性濃度が高く、金属類が腐食しやすいという特殊な環境のため、殆どのお部屋に冷蔵庫・テレビ・エアコンなどの家電製品が備えつけられておらず、バス・トイレも備わっておりません。
また、室内の照明も午後十一時以降は消灯となりますので、あらかじめご了承下さいますようお願い申し上げます」

ホ―ムペ―ジに、こんな断りの出ている宿泊施設に、美奈子が我慢できるとは思えなかった。

そこで、昌義は出勤前に美奈子に玉川温泉の話をした隣家の奥さんに相談しに出かけた。
彼女が、昔、この近くに住んでいたことがあって、その温泉の効能について美奈子に話したのだ。
責任を取って貰おうというような気分だった。

昌義夫婦と同じく、隣の夫婦には子供がいない。
夫婦ともに四十代だろう。物静かな夫婦で、普段あまり物音も立てない。
飼い犬の鳴き声が聞こえるくらいだ。
おとなしそうな夫とは、会えば会釈を交わすが、引越しの挨拶に来て以来、四年間、ろくに口を利いたことが無い。
奥さんは、専業主婦でめったに家から出ないと美奈子は言っていた。
庭の手入れなどもしないようで、いつも、荒れ放題に木や草が伸びている。
たまに、庭に出て、家の中で飼っている犬を遊ばせているのを通勤前に見かけることがあったが、あまり、愛想の良い人ではない。

昌義の家と並んでいる隣りの家は、同じように東南に庭があり、その庭を越えて玄関に入るようになっている。
その庭は、 建てた当時は芝を植えていたのだが、今は色々な植物が植えられていて芝が消えている。
門から覗くと、庭先に人影が見えた。

彼女は庭先で白い花を切っていた。
そんなに広くない庭のあちこちにその花が、ランダムに咲いている。
どういう基準で植えたのかわからないが、その白い花は、あちこちにぽつんぽつんと咲いている。
最近はやりのガーデンニングというには、この家の植物はかなり出鱈目な植え方をしているように見える。
庭で遊んでいた犬が、気配を感じたのか、昌義を見つけ、吼え始めた。
飼い主に似て、愛想の悪い犬だ。
奥さんが振り向く。

「ム―ちゃん、静かにしてね」
犬は吼えなくなったが、あんたがうちのお母さんに何かしたら許さないよとでも言うように、昌義を睨んでいる。
「おはようございます。綺麗な花ですね」
昌義はお世辞の心算で言ってみたのだが、彼女の答えは驚くべきものだった。

「野生の百合ですわ。どこからか飛んでくるんです」
百合の花が飛んでくるとは信じられなかった。
昌義の家は隣だが、百合が飛んできたなどと、美奈子が言っていたことは無い。
「ユリってのは……飛んでくるもんなんですか?」
無数の白い百合が宙を飛んでくるのを想像して、昌義は首を振る。
「植えた覚えが無いので……」
無愛想に彼女は答えた。

話の持って行き様が無く、つい、通路の真ん中に植えられた大きな椿のような葉っぱをつけた木を見つけて、昌義は言った。
「立派な木ですね」
「鳥が運んできたんですわ」
「鳥……?」
「この木の実を食べてうちに糞を落としたんです」
「……木って、そんな風に増えるもの、なんですか?」
彼女は微笑して頷く。

確かに、そう言われれば、通路の真ん中に意図して木を植えるのは変だ。
この庭は、計画的に植えたとは思えないところに木や草や花が生えているが、みな、飛んできたり、鳥が運んできたりしたのだろうか?

気を取り直して、昌義は本題に入った。
「玉川温泉ですか?」
奥さんは眉を顰める。
「ええ、美奈子が行きたいというものですから」
「二・三日では結果が出ないかもしれませんよ。みなさん、あそこへは湯治のつもりで、何週間、何ヶ月と、いらっしゃるみたいだから」

彼女はそう言うと、昌義の匂いを嗅ぐために足元をうろうろしている白いプ―ドルを抱いた。
「まあ、結果云々より、とりあえず、行けば気が済むと思うんですよ。で、どこか、よいホテルをご存じないかなと思って……」

奥さんはじっと昌義を見詰める。実を言うと昌義は、この女性が苦手だ。
彼女に見つめられるとムカムカして、なにか、わあっと怒鳴りたくなってしまう。
美奈子も、以前、言っていた。
「あの奥さんのこと、みな、苦手なのよ。
何、考えているかわからないし、見つめられると、なんか、背中がぞわぞわするのよね。
年だって、もう五十近いという話なのに、三十代にしか見えないし……
付き合い悪くて、家に籠もって何しているのかしら?」

たとえ美奈子の意見でも、その意見には異存が無かった。
整った顔立ちの色の白い人なのに、なんだか、嫌な感じの違和感を感じる女性だ。

「私、あちらには最近帰っていないんですよ。向こうの事情は判らないくて、ごめんなさい」
奥さんはにべも無く断る。
「そうですか。それでは、どこかの旅行社に頼んでみます」
「お役に立てなくて……」

仕方なく昌義は本屋で温泉の案内本を買って、勤務先の信用金庫の自席で読むことにした。
「支店長、どうされたんですか?」
お茶を持ってきた前田美佳が昌義の手元の本を覗き込む。

「ああ、玉川温泉に行こうと思って……」
「どこにあるんですか?」
「秋田県」
「うわあ、ずいぶん遠いんですね」
「ああ」
美佳は勤続五年のベテランで、この支店に来て二年、女子職員の中心人物だ。
落ち着いた性格の良い彼女を昌義は気に入っていた。
「支店長と温泉なんて、イメージが会わないわ」
美佳はえくぼを浮かべて笑う。
「そうかな?」
「ええ、支店長の旅行って、スポーツをするとか、ゴルフとかのイメージですもの」
「今回はね、ほら、うちのが骨折しただろう? その療養に出かけるんだ」
美佳の目が光る。
「相変わらず愛妻家なんですね?」
「そんなこと無いよ」
「奥様が羨ましいわ。そんなに支店長に大事にされて……」
「前田君だって、そろそろ、良い話があるんじゃないか?」
取引先の社長たちも美佳が気に入っているようで、名前を聞かれたり、彼氏はいるのと探りを入れられることがよくあるのを、昌義は思い出した。
「支店長のような人、なかなかいませんから……」
 ドキッとするような言葉を残して、美佳は立ち去ろうとしかけ、足を止めた。
「そう云えば、私の知り合いが旅行代理店に勤めているんです。
良かったら、聞いてみましょうか?」
「ああ、良いホテルは無いかな?
探しているんだけど、何処が良いものやら……君たちくらいの若いこの方が良く分かるだろう?」
「聞いておきます」

美佳とそんな会話を交わした日、珍しい人から電話が入った。
「支店長、東京の大田さまから電話です」
東京で大田と言うと、一人しか知り合いはいなかった。
大田俊夫は昌義の学生時代の先輩だ。

「先輩、久しぶりですね。お元気ですか?」
「ああ、元気だ。今、東京から帰ってきているんだ」
「それは、それは……それじゃ、今晩、久しぶりに一杯やりますか?」
「いいのか?」
「勿論ですよ」

二人は学生時代によく行った居酒屋で待ち合わせ、腹ごしらえをした。
大田は学生時代柔道をしていて、背は高くないががっしりした体型だった。
今でも少しは緩んでいるが筋肉質の体付きをしている。

「先輩、どうですか? 仕事のほうは……」
一応、聞いてみると、意外な答えが返ってきた。
「ああ、オレ、最近、転職したんだ」
「え? 前の商社、辞めたんですか?」
「ああ、ちょっと、小さな会社に移ったんだ。引き抜かれたといったほうが良いかな。
今日は新しい店舗展開のための下調べで、こっちに来たんだ」

そんな景気の良い話をする大田は、肌が艶々している。
去年、大田から転職したいのだが、いいところは無いかと言われて会った時とは大違いだ。
この不況の時代にはなかなか良いところはなかったのだが……
「景気の良さそうな会社で良かったですね」
「ああ、結構、景気が良いよ。小さい会社だけどな。
女社長で不安だったんだが、任せてくれるし、遣り甲斐があるんだ。
もう、今年、三店舗出店して、結構良い成績なんだ。オレ、出張出張で、大変だよ」
そう言いながらも、大田は嬉しそうににやけている。
次の店は、昌義の行きつけのクラブにした。
「マリエンバ―ド」はさほど大きなクラブではないが、この市では美人が多いと評判の店で、昌義は接待にも利用している。

「それでは、待遇もかなり良いんじゃないですか?」
昌義は大田の今の会社について探りを入れた。
これはほとんど彼の職業病のようなものだった。

「まあまあだ。前の会社のように大企業じゃないからな。
でも、前の会社はいまや倒産寸前だからな。
それに比べれば、今度の会社は未来に向かっての展望がある。
だから、遣り甲斐があるよ。
そうそう、この前なんか、社員旅行、国内旅行だったけど、すごい豪華版だったよ」
「わあ、うらやましい。どこに行ってらしたんですか?」
自慢げに言い出した大田に女の子が相槌を打つ。

「秋田、もう、温泉三昧、ご馳走三昧だよ」
「秋田? えー、いいなあ」
女の子たちは口々にあそこは温泉いいのよねとか、秘湯なのよとか言い出した。
偶然のことに昌義は驚き、勢い込んで聞く。
「秋田のどこですか?」
「田沢湖高原温泉郷、良いとこだったよ。 あんなにのんびりしたの久しぶりだな」
「田沢湖……? 玉川温泉って知っていますか?」
「ああ、直ぐ近くだよ。そこにも行ったけど、通るだけで入らなかったな」

昌義は願ってもいない展開に驚きながら、なおも聞いた。
「先輩、玉川温泉に行こうと思っているんですが、良いホテル知りませんか?」
「玉川温泉に泊まれば良いじゃないか?」
「いやあ、テレビも無いみたいで、うちのは、ちょっと我慢できないんじゃないかと思うんですよ」
「あら、奥様とお出かけ? 妬けちゃうわ」
大田と昌義の間に座ったホステスの亜里沙が口を出す。
「いや、玉川温泉は怪我に効くんだよ」
昌義は思わず弁解していた。

亜里沙は大きく潤んだ瞳を見開き、昌義を見つめる。
亜里沙は、昌義の住んでいる市に流れてきた銀座にいたというふれこみのホステスで、三十才だった。
背が高く、モデルのような体型の彼女は百七十五センチある昌義の身長とヒ―ルを履くとほとんど変わらない。
小さな顔に一重の切れ長の目元は涼しく、女らしい優しい色合いの服を好む。

亜里沙は昌義を睨んで、ついでに太ももを抓った。
痛みを堪えながら、昌義は大田に話しかける。
「どこか良いホテル無いですかね?」
大田は迷わずに答えた。
「それなら、僕らが泊まったホテルに行きなよ。良かったよ」
「なんと言うホテルですか?」
「田沢湖レリーブドホテル、癒しって言う意味だとか言っていたなあ。
食事も良かったし、設備も良かったよ」
「どこにあるんですか?」
「秋田駒ヶ岳の麓にある温泉ホテルだ。
あそこからなら、一時間くらいで玉川温泉にいけると思うよ」
「レリーブドホテルですね?」
良さそうなホテルが見つかって良かったと思った瞬間、、またも太ももの痛みに声を上げそうになり、横の亜里沙を見ると、亜里沙は涙を浮かべていた。

翌日、出勤すると、早速、昌義は前田美佳を呼んだ。
「前田君、昨日の件だけど……」
「はい、昨日友達に聞いたんですけど、今日、調べて見るといっていました」
「じゃあ、聞いてくれるかな?
昨日、友人がレリーブドホテルと言うホテルが良いって言ってたんだが……」

前田美佳はその返事を、電話して聞いたようだった。
休憩の終わり前に、昌義のデスクに来て報告する。
「さっきの件ですけど、お勧めだそうですよ」
「そうか、ありがとう」
「予約、お待ちしてますって、友人から伝言です」
「判ったよ、ありがとう」
その日の帰り、昌義は早速、美佳の友人の旅行代理店に行き、予約を入れた。
その日の夜、久しぶりに早く帰った昌義が、車庫に車を入れて、降りると、隣りの奥さんが回覧板を持ってきた。
それを受け取り、
「昨日はどうも、ご迷惑をおかけしました」
「お役に立てなくて御免なさい」
「いや、とんでもありません。そういえば、知人の紹介でよいホテルが見つかりました」
「そうですか、それは良かったですわ」
「ええ、お陰さまで」
「それでは……」
彼女は無愛想に言うと、さっさと帰っていく。
「変な人だ」
口に出すつもりが無かった言葉を耳から聞いて、自分がそれを言ったことに驚いた。

大田の話だけじゃなく、旅行代理店にまで聞いたのに、こんなことになるとは……昌義はため息をつく。

――まさか、浴場が壊れているとは……
こんなにぼろぼろのホテル、何処が豪華なホテルなんだ?

それにしても、あの美奈子の態度。なんて奴だ。
何やっても不機嫌な顔をして、何様のつもりだ。
俺たちの結婚は間違いだった。
ああ、その通りだよ。

まったく、俺たちは何のために結婚したんだか……
暖かい家庭も、次期理事長の座も、みんなパアだ。
どちらも、もう、俺には手が届かない。
残ったのは、何を考えているのか分からない怪物だけだ。

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