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December 18, 2004

満月伝説#8 彼に何が起こったか?

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本郷の史記の庭の桜が満開になったその日、山田昌義は、史記の家の玄関ベルを鳴らす。
あの化粧気の無い女がドアを開けた。
やはり彼女が神楽坂史記だったのだと思いながら、昌義は挨拶する。
「どうぞ」
用件も言わないのに、女は昌義をドアの中に招き入れた。
「史記先生がお待ちかねです」
「え? あなたが神楽坂史記ではなかったのですか?」
昌義は思わず聞いてしまった。
「ええ」
無愛想に頷くと、女はさっさと歩き出す。
この女性が神楽坂史記でないとすると、誰が史記なのかわからなくなった。
女に導かれるまま、広い通路の奥のホールのような広い部屋に入る。
部屋の床は、タ―コイズブル―を基調にグリ――ンやピンクの模様が付いている三十センチ角のタイルで、真っ白な漆喰の壁にも、ところどころタイルが貼ってある。
部屋の半分は吹き抜けになっており、高い天井にはファンが二つ回っている。
奥の左手は八角に庭に突き出していて大きな丸テーブルが置かれていて、そこに人影が見えた。
ところどころに敷かれているアラベスク模様の絨毯を踏んで、八角形の部分にいくと、三人の顔が見え、昌義は思わず声を上げた。

ももこと歩夢、祐一だった。
ももこの膝には汚い毛糸玉のような犬が居る。
歩夢の足元には大きなゴ―ルデンレトリバ―が寝そべっている。
少し離れた窓際の高い花台の上には白い猫が行儀良く座っている。

「お久しぶりですね、山田さん」
あの特徴的なしゃがれ声が響いた。

「君が神楽坂史記だったのか?」
道理でジャガ―にも乗れるはずだと昌義は納得する。
「どうぞ、お掛けください」
昌義は示された席に座る。
隣の歩夢が相変わらずニコニコしながら話しかける
「元気そうで良かった」

この子がそういうなら、自分は元気そうに見えるのだろうと素直に昌義は納得する。
「秋田は如何でしたか?」
向かいに座っている祐一は予言者のようなことを言いだした。
「まだ、雪がいっぱい残っていて、あのホテルを探し当てるのは大変だった」
昌義はもう何があっても驚かないだろうと思う。
――あんな出来事の後ではね。
「だが、見つけたよ。中にも入って来た」

あの休暇の後、昌義が出勤すると、支店はぴりぴりと張り詰めた空気になっていた。
席に着く間もなく、電話のベルが鳴り響く。
電話に出た前田が蒼褪めた顔で、昌義を見た。
「支店長、理事長からお電話です」

覚悟はしていたものの、義父・山田鑑三の怒りは凄まじかった。
「お前は自分のしたことが判っているのか?」
「弁解はしません」
「今すぐ、本部に来るんだ」
警察からの照会で、亜里沙の住んでいるマンションが、昌義の名義と分かり、理事長命で本部の監査が入り、昌義の横領は見つかった。
だが、その件は理事長の進退問題にも発展することだったため、表沙汰になるのは抑えられた。
その代わり、昌義は自己都合の退職をし、理事長である義父はその横領を穴埋めすることになった。

義父の山田鑑三は、夫婦二人を呼びつけ、昌義を罵倒し、美奈子に離婚を迫った。
だが、美奈子はなぜかうんとは言わなかった。
鑑三は二度とこのうちの敷居は跨ぐなと美奈子に言い渡した。
自宅に帰り、ダイニングに腰掛けて向き合い、昌義は自暴自棄になって宣言した。

「いいのか。俺はもう何も無いし、お前の望む贅沢はさせてやれないぞ」
美奈子は向かいの席でぼんやりと壁に掛ったキルトを眺めている。
岡夫人にプレゼントされたと言う夫人手作りのハワイアンキルトだ。
オレンジベ―スの華やかなキルトはこの場面にそぐわない。

「それより、あなたは、私にどうして欲しいの」
美奈子は穏やかな声で聞いた。
「お前が望むなら別れよう」
というつもりだったが、昌義は自分でも思いがけないことを言いだしていた。
「僕は犯罪者だ。表沙汰にはならなくても、そのことは、この先、僕の人生に付きまとうだろう。
僕は一人ではそのことに耐えられないかもしれない。
側にいてくれないか?
君が僕の側に居てくれたら、僕は頑張れると思う。
金に不自由はするかもしれないが、僕はできる限り、君を幸せにするよう努力する」
プロポーズの時にも言わなかったような言葉だと、言いながら、昌義はぼんやりと思っていた。
美奈子は昌義を冷たい目で見る。
「いっぱしのこと言うのね。
浮気して、その女のために使い込みまでして、会社を首になったのに……」

相変わらず痛い所を突く女だと昌義は苦笑する。
だが、次に出た美奈子の言葉は昌義を愕然とさせた。

「でも、あなたがそう言うなら、もう一度、あなたを信じてやってもいいわ。
今の言葉、忘れないで、絶対に幸せにしてよね」

そう言うと立ち上がり、いつもどおり、美奈子は夕食の支度を始めた。
昌義は美奈子の思いがけない言葉に動揺して、その場から動けなかった。
昌義は親には離婚すると言わなかったものの、美奈子はさっさと自分に有利な条件を出して離婚を言い出すだろうと想像していた。
それなのに、美奈子は昌義と別れないと言う。

どんと音がして、うどんのどんぶりが目の前に置かれて、昌義は我に返る。
「さあ、今日からうちは、無職の上に、山ほどの借金を抱えた不良債権一家になるんだから、夕ご飯は素うどんよ」
本当に葱を載せただけのうどんだった。

昌義は胸が詰まり、箸を持てなかった。
「何か、文句ある?」
「いや……頂きます」
「あ、七味は二振りまでね」
二人は黙って熱いうどんをすすった。
昌義は汗を拭く降りをして、涙と鼻水を拭った。


騒動が落ち着くまで、四ヶ月、かかった。
信用金庫を辞め、自宅を整理して売りに出すと、昌義はどうしても、あのホテルの件が納得できなくなった。
美奈子に聞くと確かに美奈子の記憶も泊まったのは古い朽ち果てそうなホテルだった。
だが、美奈子は岡夫人にすぐに連れ出されたし、その後のハワイの記憶が強すぎたし、あそこにいた間も部屋に籠もっていたので、あまり当てにならない。

そこで、昌義は秋田に行き、あのホテルを探した。
どうせ無職だったので、時間はいっぱいあった。
慣れない雪道を恐る恐る運転して、高原の道をレンタカ―で登っって行くと、三叉路に出た。
除雪されていなかったので、車を停めて歩く。
解けかけのべたべたの雪に足を取られながら、十分も歩くと、あの荒れ果てたホテルが見えてきた。

ホテルの前に看板が立っている。
「シーファ学院研修所 建設予定地 問合せ先:東京都文京区本郷×丁目×番地 〇三××―×××―××××」
この冬の雪のせいか、玄関のガラスドアが壊れていた。そこから中にはいる。
フロントにもロビーにも見覚えがあった。
確かに自分たちがチェックインしたのはこのホテルだと確信がもてた。
電気は通じていないらしく、真っ暗でエレベーターは動かなかった。

階段を二階に上がる。
バ―の扉を開けるとテーブルも椅子もあのまま残っていた。
さらに三階へ進み、手前の部屋のドアを開けて驚いた。

その部屋は昌義達の部屋と同じ二間続きの部屋だが、洋間の椅子は埃だらけで、テレビは台も無く床に置いてある。そのテレビもかなり古い型で壊れているように見えた。
和室は襖が破れ、畳は擦り切れている。
とても人が泊まれるような状態ではない。
その隣もそうだった。

昌義はあのときなぜ隣の部屋の電気が点かなかったか、その部屋を見て納得した。
そして、昌義たちの泊まった部屋を開けると、そこは綺麗に片付いていた。
次々と開けてみたが、昌義たちの部屋以外は荒れ果て埃だらけだった。
中には畳も無い部屋すら有った。

埃に咽ながら、建物を出て辺りを見回す。
あの朝、陽子たちが歩いてきた方向に向かうと、林の間を通り抜けられそうだった。
そのまま、積もった雪に足を取られながら歩いていくと、田沢湖レリーブドホテルの大きな看板が見えた。
新しそうな階段があり、それを登ると、レリーブドホテルの裏口に出た。
表に回り、フロントで支配人を呼びつける。

あの初老の支配人が現れた、彼は昌義の顔を見て怯えたような表情をした。
「僕の用件、わかりますよね?」
「何のことでしょうか?」
「誰が何のために、あんな茶番劇を仕組んだんですか?」
「何のことでしょうか?私にはさっぱり……」
支配人は怪訝そうに昌義を見た。

――本当に知らないのか?

「あの隣のボロホテルは何なんですか?」
「あそこはシーファ学園の研修所で……お客様はシーファ学園の関係者じゃなかったんですか?
ご一緒にコンサートを聴かれたと聞いておりますが?」
「ああ、まあ……確かにコンサートは聴いたんですが……」
仕方なく昌義は戦術を変えた。
「満月伝説……って知っていますか?」
「満月……? 何のことです?」
支配人は首を傾げる。
「お諸仏さんのこととかは?」
「オショブツって、一体、何のことです?」
「知らないのか?」
「はい」
もっと聞き出したかったのだが、支配人は昌義の様子に不安を覚えたのか、用事があるからと逃げた。

昌義は坂道を降りたところにあるホテルに車で周り、あのボロホテルのことを聞いてみた。
あのホテルはもう十年以上使用されていないホテルだったが、春に取り壊されて、ホテル学校の新しい研修所が建つという噂があった。
シーファ学院に電話する前に、インタ―ネットでその学校を調べてみた。
分かったことは、シーファ学院の理事長は岡さやか。
スポンサ―には㈱リ―ド、グローバルライン社。
特別講師には丹波光彦、金沢陽子、坂田英次。
みごとに役者が揃っていた。
そして、学院に電話をし、名前を名乗ると、電話を受けた女性は愛想良く答えた。
「愛知の山田様ですね。
神楽坂史記がお待ちして申し上げております。
もし、よろしければ、東京にお出かけいただけませんか?」

とりあえず、面会の日を約束し、昌義は貰っていた名刺を手に、丹波の店、「カルヴァドス」と陽子の会社「グローバルライン」に電話する。

「山田さん、どう、大丈夫?」
少し待たされたが丹波のバリトンが響く。
嫌そうな声ではなかった。
「あの折はどうも……」
「ああ、元気そうで良かった」
「実は……」
丹波は昌義の言葉を遮り、「史記に会った?」と聞く。
「いや、まだです」
「史記に会いなさい。すべて教えてくれるから……」
「丹波さん……」
「そのあとで、ゆっくりと飲もう」
「楽しみにしているよ」という言葉はお世辞ではないように聞こえた。

次に、陽子に電話してみる。
「山田さん、お元気?」
「お陰さまで……」
「史記に会ったかしら?」
陽子も丹波と同じ事を聞いてきた。
「いえ、まだ……」
「ごめんなさい、私、今から出かけなきゃいけないの。ニューヨーク、飛行機の時間いっぱいなの」
「あ、忙しい時に済みません」
「史記に会いなさい。それから、また飲みましょう」

だが、神楽坂史記とはほとんど面識も無いような状態だ。
会って何を話せというのだろうかと思いながら、昌義はここに来た。


「ロビーと僕らの部屋は綺麗だったけど、後は荒れ果てて、埃だらけだった」
「予算と時間の関係で、あれが精一杯だったの」
平然と、史記は昌義の言葉を肯定する。

祐一が説明する。
「古いホテルは短期間での改修は難しかったんです。
かろうじて、エレベーターが動いたので、水周りは新しく必要なところだけ配管しました。
だけど、大浴場に湯を引くのは難しかったので、パス。
従業員役の生徒たちは、思わぬ飛行機の遅延で、山田さんたちと同時についてしまいました。
だから、山田さんたちのバスを遅れて到着させたり、結構大変だったんですよ」
歩夢が嬉しそうに口を挟む。
「運転手さんたち、秋田弁の話せるナイスなキャラクタ―のおじさんたちだったでしょ?」
昌義は思わず頷いてしまった。

祐一が続ける。
「山田さんの知らないところで、どたばたと、皆、動き回っていたんですよ。
シーファ学院の生徒たちも実習という名目を信じて、真面目に演技してくれました。
フロント役、クリ―ニングスタッフ役、ベルボーイ役、ウエイター役、と真剣に研修していたでしょ?」
心底呆れて、昌義は言った。
「その予算と時間だが……そんなものを使ってまで、なぜ、僕らを騙したんだ?」
何より、昌義にはそれが不思議だった。

――そんなことをする必要がどこにあったのだ?

史記は可愛く首を傾げ、癪に障る甘ったるい嗄れ声で答える。
「私たちにも、その意味は分からないの」
昌義はその答えにムカついた。思わず声が大きくなる。
「どういうことですか?
あんたたちは何か変な宗教団体なんですか?」
史記は動じずに、
「宗教団体なんかじゃないわ。でも、変な団体とは言えるかも……私たちにはああする必要があったの」
「どんな理由か聞かせていただきたいもんだ」
昌義はテーブルで冷えた紅茶をぐっと飲み干す。
タバコが吸いたいところだが、灰皿が無いので我慢した。

史記は真面目な顔で答えた。
「あなたがあのホテルに行き、私たちに逢うと予言した人がいるの」
「予言……」
その答えに昌義は力が抜けるのを感じた。

――お諸仏さんなどと言うほら話で人を騙した理由が予言だと……
月にはウサギが居るとでも言ったほうがまだ現実的だ。

だが、史記は臆する様子も無く堂々と昌義の目を見る。
「その人の予言は確かです。私たちはそうしなければならなかったの」
「どんな予言だったんですか?」
「あのホテルで、私たちは出会い、お諸仏さんの話をする」
「それから?」
「それだけ」
史記は外人のするように肩をすくめた。
「それで、僕をどうするつもりだったんですか?」
「……さあ?」
史記はまた首を傾げて、
「どうするつもりだったんでしょうね」などと言い出した。

昌義は頭にきて、怒鳴る。
「では、何のためにするのかも分からずに、あれだけのことをしたっていうのか?」
史記は微笑んで頷く。

猫が昌義の声に驚いたのか、スーっと花台から降りると部屋を出て行った。
犬たちは非難するような目で昌義を見つめる。
歩夢と祐一は他人事のように、黙って紅茶を飲んでいる。

昌義は我に返って、息を整え、声を抑えて訊く。
「お諸仏さんの意味は?」

史記はのんびりした調子で言った。
「わたしたちこそ、その意味を知りたくて、貴方をお持ちしていたのよ」
「それでは、今日、僕が来ることも予言されていたと……」
史記はこくりと頷いた。
昌義は呆然と史記を見つめる。

「良かったら、あの時何が起こったか、教えていただけませんか?」
祐一が口を開いた。
「あの時って?」
「あの満月の夜、僕らはあなたを追いかけて外に出ました。
でも、どうしてもあなたを見つけられなかった。
どこに居たんです?」
その言葉に昌義は驚く。
「じゃあ、あれは君たちの演出じゃなかったのか?」

祐一はテーブルの上のノ―トパソコンを開く。
「もし、何か起こっていたとすれば、それこそが真相に繋がるヒントなんです」

昌義は躊躇した。
――果たして、彼らが信じるだろうか?

「信じられないかもしれないが……」
と前置きをして、昌義は杉崎のことを話し始めた。
祐一が、昌義の発言をメモしていく。

「俺には、幼稚園の頃からの幼馴染が居た。
二年前、彼、杉崎に融資を頼まれた。だが、俺はそれを断った」
「幼馴染を助けようとは思わなかったんですか?」
歩夢が不思議そうに言う。
「助けたかったさ。だが、その話の晩、あいつ、俺を接待してくれたんだ。
あるクラブに連れて行ってくれた。
そこで俺は亜里沙という女を紹介された」
「あの田沢湖で亡くなった人ですね」
「ああ、その席で亜里沙が俺を褒めたとき、杉崎が笑ったんだ。それで……」
「馬鹿にされたと思って、意地悪した?」
祐一が冷たい目で昌義を見た
「ああ、ほんのちょっとの意地悪のつもりだった。
泣き付かれれば何とかするつもりだった。
だが、あいつは泣きつかずに、そのまま出て行って……」
昌義は声を詰まらせる。
「その夜、海に車で落ちて死んだ」
「自殺したんですか?」
史記が形の良い眉を顰め、痛ましそうな声を出す。
「俺はそう思っていた」

昌義は、お諸仏さんからの帰り、小学生の杉崎に会ったこと。
田沢湖の砂浜で中学生の杉崎に会ったこと。
そして、亜里沙に呼び出されて行った御座の石神社で、青年の杉崎に救われたことを話した。
その青年のことは、タクシー運転手から史記たちにも情報が入っていた。
「会うたびに大きくなっていたんですね」
祐一が確認する。
「ああ、そして、最後に、あの満月の夜、亡くなる前の杉崎になって現われた」
「何のために?」
歩夢の無邪気な問いに答えるのは辛かった。
だが、死ぬまで自分ひとりで持っているのはもっと辛いようにも思った。
もし、誰かに話すとすれば、彼らに話すのがベタ―だろう。
彼らなら、この重い真実を、分けて持ってくれるだろう。
昌義は意を決して、話し始めた。


――あの時……

昌義は部屋に戻り、着替えをした。
美奈子の選んだタキシードはちゃんと身体にフィットした。

――関係は冷え切っていても、夫婦とは不思議なものだ。
美奈子は俺のサイズを把握している。

タバコをポケットに入れようとし、ふと思い立ち、ベランダのサッシを開けて、外に出た。

天空で青白く月は光り、あたりは明るい月の光に照らし出されている。
紅葉の木々も今は薄墨色に沈んでいる。
眼下の山の上に、田沢湖が銀色に浮かんでいる。
ふと、視線を下に移すと、ホテルの前の駐車場に杉崎が立っていた。

その杉崎はあの融資を断った日と同じ、つまり、死んだ年齢の杉崎だった。
杉崎は何も言わずに手を上げる。
昌義は手を上げ返して、慌てて部屋から走り出てエレベーターに向かった。
ちょうど、下から上がってきたエレベーターはすぐに開いた。

歩夢が降りて、昌義の様子に只ならぬ物を感じたのか、声を掛ける。
「あれ、山田さん、どうしたんですか?」
それに答えもせず、下へのボタンを乱暴に押し続ける。
エレベーターの下降がゆっくりと感じられ、いらいらした。
一階に着くなり、ドアをこじ開けるように開け、走り出す。
ロビーに集まった着飾った客たちや、従業員の視線を感じながら、走る。

表に出ると、杉崎はさっきの位置で立っていた。
「そんなに慌てなくても、待っていたのに……」
笑いながら言う。
「いなくなるんじゃないかと思った」
息を切らしながら昌義は答える。
「そんな思わせぶりことはしないよ」
そうだ、たしかに杉崎はそんな奴じゃなかった。
嫌な事は嫌といい、駄目なことは駄目といい、その上で、別の解決策を一緒に模索する。
そういう奴だった。

「歩こうか」
杉崎は、雑木林の中にほんのりと明るく光る小道を指差す。
湿った落葉の匂いのする道を、月の光の中、二人は歩き出す。
「これは、お諸仏様のおかげか?」
昌義が問うと、杉崎はふっと笑った。
「たぶん、そうだな」
「それじゃ、俺は選ばれたんだ」
「そういうことだな」
昌義はポケットを探り、タバコを差し出す。
杉崎はにやっと笑うと、一本抜き出した。
昌義はライタ―を取り出し、火を点け、杉崎に差し出す。
うまそうに杉崎はタバコを吸った。
昌義も自分のタバコに火を点ける。
歩きながら、二人はタバコを吸い黙り込んだ。

こんな時間をどれだけ一緒に過ごしたことかと昌義は思う。
幼稚園、小学校、中学校、高校と同じ学校に行った。
大学は別々になったが、私立の大学に通う杉崎と同じ電車に乗って通った。
タバコも杉崎の影響で覚えた。
酒も女も、杉崎は昌義より一歩早く、兄のように教えてくれたものだ。

悲しいとき苦しいとき、杉崎と昌義は黙って、歩くのが常だった。
子供の頃、杉崎はそんな時、ポケットからアメ玉を取り出して昌義に渡した。
アメ玉がガムになり、ビ―ルになったり、タバコになったりしたが、彼らはいつも、黙って海辺の道を歩いたものだ。
「昨日はありがとう」
ドキドキしながら、昌義は杉崎に話しかける。
「亜里沙のことか?」
「俺、殺される予定だったのか?」
「そうらしいな」
タバコをふかしながら、杉崎は笑う。
「お前に教えて貰わなきゃ、今頃、田沢湖の魚の餌だ」
「田沢湖に魚はいないぞ。
あそこは玉川毒水の影響で、酸性が強くて魚があまり棲めない」
杉崎がわざと話をはぐらかしているのがわかった。

「どうしてというのも変だが、どうしてアイツが俺を殺そうとしていることがわかったんだ?」

多くの木が倒れて、林の中にぽっかり空いた空き地に差し掛かっていた。
倒れた木の周りにはキノコの群れがぽこぽこと丸く青白く光っている。
まるで照明のようだ。
「ああ、これがツキヨダケか……」
昌義は頭の隅で納得した。
月の光とツキヨダケの青白い明かりで、辺りは昼のように明るい。

倒れている木の幹に腰掛けて、杉崎は立っている昌義を見上げた。
「お前には、本当にすまないと思っている」
杉崎が何を謝っているのか昌義には理解不能だった。
不審顔の昌義に、杉崎は続ける。
「すべては、俺があの店にお前を連れて行ったことから始まっている」
「あの店って? 亜里沙の店か?」
「ああ、あの頃、俺はあの女の本性を見極めていなかった。
見極めたときには手遅れだった」
「亜里沙とお前には関係があったのか?」
当然、考えていても良いことだった。

「亜里沙は俺が東京の得意先を接待して、初めて行ったクラブに出ていた。
性格の良い可愛い子だと思って通いつめたよ。
あいつはその頃、銀座に出たばかりで常連客も居なかったから、俺のことは大切にしてくれた。
俺はまだその頃結婚していなかった。
あいつと知り合った翌年、見合いで女房と結婚した。
その報告をしたときも、あいつ、おめでとうって笑って言っていた。
その後すぐに、あいつも結婚した。
小さな会社の社長の後妻になったんだが、三年後、銀座に戻ってきた。
先妻の息子や姑とうまく行かなかったと後で言っていた。
それからも、東京に行けば、あいつのいる店に顔を出した。
店を移るたびに、だんだん、銀座の中心から離れていくのを見て、可哀想に思ったよ。
そのうち、あいつ、もう、銀座は良いから田舎に行こうかなと言い出した。
ほんの気まぐれだろうと思ったが、蒲郡においでよといったら、来る気になって来てしまった。
俺が、あの店のママに頼み込んで、使ってもらえるようにした。
アパ―トの手配もしてやった」

「それじゃ、お前が彼女のパトロンだったのか?」
昌義は想像以上の話に愕然とした。
杉崎が昌義に内緒で亜里沙とそんな関係を何年も続けていたなんて……
亜里沙と杉崎の関係にも驚いたが、杉崎がそれを黙っていたことのほうがショックだった。
「ああ、お前には言っていなかったな。すまん」
「そうか……」

そんなことはおくびにも出さず、亜里沙は昌義に杉崎のことを話していた。
あんな良い方が亡くなるなんてと単なる客のような言い方をしていた。
その言い方に、昌義は亜里沙が心の優しい純な女性だと、心から信じたというのに。

「お前に融資を断られた後、俺は亜里沙のアパ―トに行った。
行くのはいつも夜で、昼に行ったことは無かった。
何回かノックをしても返事が無い。
だが、家に帰りたくなかったから、使ったことのない合鍵で部屋に入ると、亜里沙はいた。
さっきの男と一緒にね」
杉崎は淡々と衝撃の事実を告げる。
昌義は言葉に詰まる。
「別に、良かったんだ。
二人がそういう関係なら、俺は手を引く。それだけのことだ。
だから、亜里沙にもそう言ってやった」

「それまで、ご免なさいと泣きながら謝っていた亜里沙の顔がその言葉を聞いた途端、蒼白になって、凍りついたように無表情になった。
俺はそれを見て、納得したのかと思い、外に出ようと玄関に向かった。
頭に衝撃を感じたのは、靴を履き終わったときだった。
俺は薄れていく意識の中で、亜里沙の声を聞いた。
「あなたみたいにひどい人、知らない。本当にひどい人』
亜里沙はそう言っていた」

一気にそこまで話して、杉崎は俯いた。

その話を聞いて、昌義は不思議で仕方なかった。
「どうして、それで怒るんだ?
面倒にならず、男が潔く身を引こうとしているのに……」
「俺もそう思ったよ。
俺の態度に怒るんじゃなくて、ほっとするのが当然だろうって」

ふっと寂しげな表情を浮かべ、杉崎は月を見上げた。
「だけど、未練を持たれないというのは辛いことだよ」

月に照らされた杉崎の顔は、憂いを含んでいい男振りだった。
その言葉に昌義は最近の町の噂を思い出した。
杉崎の妻の和美は杉崎の死の後、子供がいなかったのを幸いに実家に帰った。
最近、再婚が決まったと聞いた。

「俺には、それなりに自分の場所があったと思っていたが……和美は俺のことを忘れちまった。
忘れられるのは結構辛いもんだ。
お前だけだ。いつも俺のことを思っていてくれたのは……」
「それは……」
昌義に杉山は笑いかける。
「昌義、だが、もう、俺のこと忘れて良いぞ」
「どうして?」
「俺が死んだのは、お前に融資を断られて絶望したからじゃない」
「じゃあ、なぜ?」
「言っただろう。頭、殴られたって」
昌義にはまだ杉崎の言わんとすることがわからなかった。
杉崎はにやっと笑った。
「俺は、あの二人に殺されたのさ」

「今にしてみれば、亜里沙の気持ちがわかる。
頼りにして付き合っていると思っていた男が、ある日別の女性と結婚すると、当然のように言う。
自分は水商売の女だと諦めたんだろうな。
それから、そんな境遇を知っていてもプロポ―ズしてくれる男が現れた。
結婚して幸せになれるはずだった。
ところが、義理の息子と姑にいじめられるのを、その男は庇ってくれなかった。
絶望して離婚する。
銀座に帰ると、男たちはちやほやしてくれる。
だが、その関心はだんだん自分より若い女に移っていく。
昔の男が見かねて自分の町に来るようにと言ってくれた。
パトロンになっていろいろと面倒も見てくれる。
だが、奥さんともうまくやっている。
寂しくて、ちょっと見掛けの良い男と遊んだ。
それを目撃したパトロンは、じゃあそっちと上手くやってと、これ幸いと逃げようとする。
女としてのプライドはずたずただ。
殺したいくらいその男が憎くなっても仕方ないだろう」
「亜里沙が……? 信じられない……」
昌義が呻くように言うと、杉崎はからからと笑った。

「俺だって、そう思ったよ。だが、本当のことさ。
お前だって、昨日、殺されかけたじゃないか。
使い込みまでしてマンションを買ってくれて、誰よりも大切にしてくれているお前を、保険をかけて」
「保険金が欲しかったのか……」
殺されると知ったときにそう思ったものの、信じたく無かった。
だが、あの女は、杉崎を殺していた……それは悲しい現実だった。

「男の愛や真心など、もう、あの女は欲しくないのさ。
そんな不確かなものより、金や物を選んだのさ」
判ってはいても、杉崎の言葉はずっしり昌義の全身に重く圧し掛かった。

そんな昌義を見ながら、杉崎は優しい声で言った。
「お前はもう、俺の死について責任は感じなくて良い。
俺は、お前に融資を断わられたくらいで、死ぬような柔な人間じゃない。
あの時は、一瞬、どうしようと思ったが、切り抜ける自信はあった」
確かに、昌義の知っている杉崎はそういう男だった。
いつも自信に満ちていて、潔い。

――人を試すことも、人をないがしろにすることもない。
そんな杉崎を尊敬して、そして、俺は妬んでいた。

杉崎は続ける。
「俺はいつの間にか、お前が俺のために何かしてくれるのを当然と思うようになっていたんだな。
自分の仕事を他人に頼って、どうにかしてもらおうなんて、虫が良すぎた。
俺は自分の力で立ち直れる人間のはずだった。
お前には嫌な思いをさせて悪かった」
杉崎は頭を下げる。

――そんなこと無い。俺が悪かったんだ。
俺のお前に対する意地や嫉妬、自分の立場を誇示しようとする醜い心、それがお前を亜里沙の部屋に行かせる元になったんだ。
俺が悪かったんだ。

昌義はそう言おうとしたが、声が出なかった。

よいしょっと掛け声をかけて、杉崎が立ち上がる。
「昌義、俺は責任取ることにしたよ。亜里沙を連れて行く。
お前はお前の責任を取れ。
美奈子さんを亜里沙のようにするんじゃないぞ。
きちんと、お前が必要だと伝えるんだ。
大切なものに大切だと言わなければ、一生、後悔するぞ。
お前、頭が良いくせに、そんな簡単なこともわからないからな」
そういうと、杉崎は照れたように首を掻いた。
「ま、俺も人の事言えないが……」

杉崎は手を上げて林の奥に歩き始めた。
二、三歩歩いて振り返る。
「昌義、お前との時間、俺の宝物だ。ありがとうな」
「杉崎、待ってくれ、俺の話を聞いてくれ」

昌義は杉崎の後を追おうとした。
だが、いくら一生懸命走っても、歩いている杉崎に追いつかない。
切り株や木の根に躓いて何度か転んだ。
月の光が強くなり、気温が下がり、風が吹き抜けて、林はざわざわ蠢いている。
月明かりの林を抜けて、草原を杉崎は登っていく。
月の光が一瞬強くなって、目を開けていられなかった。
瞬きをしたら、杉崎の姿はもう無かった。
辺りを見回しても、人気は無い。
昌義は立ち尽くした。
月の光に照らされて、多くの影が草原をこちらに登ってくるのが見えた。
「お諸仏さん……?」
遠くで昌義の名を呼ぶ声が聞こえたよう気がしたが、眩暈がして、もう、意識を保っていられなかった。


「それでは、杉崎さんはその二人に殺されたんですね。
そして、亜里沙さんを連れて行くと」
「そう言っていた」
「亜里沙さんはどうして、そんなに自分を思ってくれる山田さんを殺そうとしたの?」
歩夢は至極もっともな疑問を口にする。
「サロメのように、自分の欲望を満たすために、首を切ろうとしたのね」
と、こともなげに史記が答える。
「人間は、自分の器に入るものしか理解出来ない。
自分の器以上のものには怯えてしまう。
あなたの愛を、亜里沙さんは信じることが出来なかった。
彼女はそれまで、いろんな男に期待し、裏切られて、あなたの真心を信じられなかった。
いつ裏切られるか、と信じるのが怖かったんでしょう。
そして、あなたがお金に困り始めたのを見て、きっと、自分は捨てられると思い、その前にあなたをお金に替えようと思ったんでしょ」
それは、きつい言い方だったが、そんなところだったのだろうと昌義は思う。
「いまではもう、確認するすべはありませんがね」
昌義は力なく答えた。

「亜里沙さん、自殺と断定されたそうですね」
歩夢が気の毒そうに訊く。
「ああ、鈴木がツキヨダケの中毒で死んで、そのショックで後追い自殺したということになったらしい」
「じゃあ、彼らに殺されかけたことは、警察に言わなかったんですか?」
祐一の問いに昌義は自嘲する。
「なんと言えば良いんだ?
自分の愛人がその愛人と結託して僕を殺そうとしたのを、死んだ親友がおしえてくれましたってか?」
「気が狂ったとしか思われませんわね」
史記が冷静に言う。
「そうだろ。僕は杉崎が亜里沙を連れて行ったんだと思っている。
だとしたら、それは、亜里沙にとって、幸福なことなんだ。
だったら、そっとしておきたい」

「亜里沙さんが鈴木を殺したとは思いませんか?」
祐一の問いに、昌義は躊躇ったが、頷いた。
「亜里沙は山形の出身で、ツキヨダケのことはよく知っていたらしい」
「貴方を殺すのに失敗して、鈴木さんを殺して時分も死ぬつもりだったのかしら?」
「さあ」
そう答えながらも、昌義はそうでは無いだろうと思う。
亜里沙が保身のために鈴木を殺したとしても、自殺は考えていなかったような気がした。

「亜里沙さん、杉崎さんに会ったのかな?」
歩夢が呟く。
「僕が最後に見た亜里沙の顔は冷たい能面のような顔だったが、刑事に言わせると、綺麗な幸せそうな笑顔で死んでいたそうだ」
笑顔で死んでいたという話は、せめてもの慰めだった。
昌義は結局、亜里沙を見捨てたという自責の念から抜け出せないで居る。
だが、自分のしてきた横領が白昼に晒され、それを悲しむどころではなかった。

「もしかしたら、杉崎さんはずっと、山田さんに何か伝えたかったのかもしれませんよ。
でも、超常現象を信じない山田さんには、杉崎さんの声は届かなかった。
だから、あんな、お諸仏の話を聞かせて、理性では信じられないものを信じる下地を作らせたのかもしれませんね」
そう、祐一に言われて、昌義も腑に落ちた。
確かに、お諸仏さんの話が無ければ、昌義は杉崎のことを受け入れられなかっただろう。

「杉崎さんが亜里沙さんのためにと思ってしたことも、山田さんが犯罪に手を染めてまで与えたものも、彼女が真に欲しかったものではなかったのね」
「何が欲しかったのかな」
歩夢には思いつかないらしい。
史記は思い付きを口にする。
「あなた無しでは生きていけませんという、表現、じゃ無いかしら」
「真実……ではなくて?」
祐一が聞き返す。

「真実はいつも残酷だもの。
嘘でも、あなたが必要だと言われたかったんでしょ」
「なんか、複雑なのな」
歩夢には理解できないらしい。
「でも、山田さんにはわかったんでしょ?
だから、奥様にそういったのよね」
昌義は顔を赤らめながら
「お前が居なければ俺は立ち直れない、お前が必要だと言った」
「奥様、もう以前のような駄々はこねなくなったでしょ?」
史記は訳知り顔で問う。
「そうだなあ、最近、すごく落ち着いて、優しいなあ。
クビになったし、もうすぐ、家も売って、アパ―ト暮らしになるというのに、実家に帰るとも言わない」
「奥様、子供が出来ないことに引け目があって、山田さんにいつ捨てられるかと、ずっと、不安で、それがあの態度になっていたんでしょうね」
「そう言われればそうかもしれませんね。
でも、あの頃は手を焼くばかりで、どうして良いか悩んでばかりだった」

美奈子には子供が出来ないと俺は言っただろうかと昌義は自問したが、そんなことはどうでも良くなった。

――それくらい大したことじゃない。
きっと、こいつらはもっと、俺たちのことを知り尽くしているんだろう。
教祖か、予言者か知らないが、どこの何者だろう?

昌義には心当たりがまったく無かった。

「ところで、その予言者とは、誰なんですか?
なぜ、僕らにそんなに興味を持って、干渉したんですか?」

――それぐらい教えてもらえる資格はあるだろう。

だが、史記は頭を下げる。
「ご免なさい。その人のことは、いつか、必ずお教えします。でも、今日は勘弁してください」

「ところで、山田さん、次のお仕事は?」
新しい紅茶を入れて、史記が優しい声で訊く。
昌義は素直に本音が口から出た。
「懲戒免職は義理の父の力で免れたものの、会社の金に手をつけた男を雇ってくれるところなんて無いですよ。
かといって、家を売ってもロ―ンを返せば、何も残らないし、今は失業保険で暮らしています。
しばらくはコンビニでアルバイトでもして、職探ししますよ。
美奈子もパ―トに出て協力するといってくれるし……」
かなり悲観的な展望を語る。

信用金庫の支店長をしていた昌義に、コンビニのアルバイトなどできるはずは無い。
昌義が応募しても雇うほうは躊躇するだろう。
昌義はそれも自分の罪の償いのつもりでやる決意をしていたのだが……

そんな悲惨な話をしても、皆、反応しない。
歩夢も祐一も、あまり表情を変えずにお茶を飲んでいる。
あまりの反応の無さに、昌義は余計なことを言ったかと、慌てて弁解する。
「ま、自業自得ですから……」
史記はのんきな顔で慰めを口にする。
「失敗をしても、自分らしく生きていれば、認めてくれる人も、手を差し伸べてくれる人もいますわ」

昌義は空元気だと自分でも思いながら、今度の上京のもう一つの目的を口にした。
「実は、先輩が仕事の世話をしてくれると言うので、それもあって、今回、出てきたんだ。
この後、会うんだが」
「うまく行くと良いですね」
「どんな仕事でも、無いよりましだな」

先輩と言うのはあのレリーブドホテルを紹介してくれた大田俊夫だ。
昌義の退職を風の噂で聞いたと電話連絡してきた大田は開口一番、
「ところで、次の仕事、決まってんの?」
と訊いた。
「いや、まだです」
「なんだ、何かやるために退職したのかと思ったよ」
「そんな良いことじゃないので……」
「愛人が死んだせいか?」
大田は他の人は直接口にしないことを平然と訊く。
「ええ、まあ……」
そうとしかいえなかった。
「そうか……大変だったな。こんな時に杉崎がいたらなあ」
「そうですね」
「まあ、オレも心当たりがあるから、また、連絡するよ」

社交辞令だと思っていたが、翌日、彼はまた連絡してきた。
「うちの社長が会いたいってさ、来週、出てこないか?」
その言葉に縋るような気持ちで、上京してきた。

帰るという昌義に、送っていきますと祐一は立ち上がった。
駅までの道を歩きながら、昌義は、
「あの人に最初に会った時、変な小娘と思ったよ」
「ああ、史記のこと?」
祐一は意外でもなさそうだ。
「あの人が神楽坂史記だと言う可能性すら否定していた。
俺は人を見る目が無い」
祐一は珍しく笑みを漏らした。
「大丈夫ですよ。史記にはみな騙されるんだから」
「木を植えていると、君は言っただろう?」
昌義にはその言葉の意味がわからなかった。
さっき、あの出来事に史記の関与があったと知ってから、それを知りたいと思っていた。 

小さな公園に通りかかると、祐一は昌義に「ちょっと、話しませんか」と言って、そこに入っていく。
子供連れの主婦たちが、砂場で子供を遊ばせながら、大きな声で話し、笑っている。
どこからかサクラの花びらが舞ってくる。
祐一は空いているベンチに腰掛けると、砂場の子供たちを眺め、昌義を見ることなく言った。

「史記は、天涯孤独の身の上なんです。十七才の頃から一人で生きてきたんですよ」
昌義には史記は何も考えていない幸せな女性に見えていた。
思わず、昌義は呟く。
「そんな風には見えなかった」
「そこが彼女の凄い所であり、悲劇でもあるんですけどね」
祐一は肩を竦める。
「史記は、勤めた会社の会長と中国に植林に行ったんです。
その会長は凄い人で、史記の人格形成にかなり影響しているんだけど、その砂漠の中で彼女は思索したんです」
昌義も神楽坂史記が中国に植林に行っていたという話は聞いたことがあった。
その話は彼女の勲章のひとつだ。
「史記は砂漠の中で植林しながら、今の世の中で起こっているすべての悲しい出来事は、砂漠化している人間関係から発生していると思ったそうです。
人はここが砂漠だから、雨が降らないのは当然、日が照り付けるのは当然、植物が育たないのは当然だと思っている。
だけど、本当の砂漠でも、木を植えれば木陰が出来、木陰が出来れば草が生える。
木が子供を作り増え、森になると、やがては雨も降り始める。
雨の恵みは森を大きくしていく。
だったら、人間関係でも、木を植える人がいれば良い。
そう思ったそうです。
そのための手段として、身一つで出来る文学という手段を選んだんですよ。
なにしろ、史記には自分以外、何も頼れるものがありませんでしたからね」
「お諸仏さんはいなかったのか……」

昌義の言葉に、祐一はまた笑う。
「そうですね。お諸仏さんがいれば、一番会うべきだったのは、その頃の史記かもしれませんね」
「彼女は幸運で、幸せそのものに見えたが……」
「そう、たしかに史記は幸運で幸せそのものなんです。
でも、その運も幸せも、彼女が真に望んだものかどうかは……判りませんけどね」

昌義は史記に出会ったときのことを思い出していた。
安っぽいTシャツとジーンズ姿を見て、到底、何十億もの資産を持っている女性に思えなかった。
亜里沙の金の掛かった服装や、ヘアースタイルと比べれば、数段、金の掛かっていない女性だった。
その姿で、昌義は史記を、価値の無い女と位置づけた。
だが、史記は誰かのために植林しようとし、亜里沙は自分のために貢いでいる男さえ殺して金に替えようとする。
なんと言う違いだろう。

「俺は彼女にとって、敵方の人間だな」

――貸し渋り貸し剥がしをしたという銀行、俺はそっち側の人間だった。
ちょっとした意地悪で、幼馴染の親友さえ、死に追いやってしまった、とんでもない金貸しだった。

祐一はポツリと言った。
「人間は自分のしていることの結果に、100%の責任を取ることなんて出来ないんですよ」
「そうかな? 自己責任じゃないのか?」
「人間は一人で生きているわけじゃないでしょう。
色々な思惑がそれぞれに有って、それらが複雑に入り組んでとんでもない結果を招く。
今回のお諸仏さん騒動だって、杉崎という人の幽霊が出てくるなんて思いもしなかったし、亜里沙さんがあなたを殺そうとしたのだって、鈴木という人が死んだのだって、全く計画外のことです。
ただ、史記はあなたの心の闇に怯えている人を助けたかった。
僕らはそれに加担した。
だが、その結果として、あなたが失業してしまった。
それは本当に申し訳ないと思っています」
「君が謝る事じゃないさ」
昌義の中にちくちくと痛むものがあった。
プライドが傷つけられて、悲鳴を上げている。

「史記さんのことは何となく理解できたけど、よく他の人たちがあんな話に乗ったね」
「ああ、それ、オレも不思議だったんですよ」
「有名なオーナーシェフに高額所得者の漫画家、リ―ドの社長夫人に、ベンチャ―キャピタルの社長、その上、警視庁捜査一課の刑事まで……良くあんな茶番劇に付き合ったもんだ」
祐一はその言葉に苦笑する。
「雅文さんの場合は脅しに近いものが有りましたけどね、他の人は、皆、言っていましたよ」
「ん?」
「自分たちもお諸仏さんがいればどんなに良かっただろうと、思うときがあったって……」
「それは……」
「つまり、皆、自分の力ではどうしようもないことを突き付けられ、傷だらけになりながら、なんとか、その場を切り抜けた経験があると言うことじゃないですか?」

自分の子供といっても可笑しく無いような少年に説明され、昌義は少し体温が上がったのを感じた。
そして、丹波の言葉を思い出した。
「あなたは幸運な人だ。あなたは守られている……僕が史記を信じていることを忘れないで欲しい……」
あれは丹波のメッセ―ジだったのだと昌義は悟った。
そして、あの三日間が鮮やかに脳裏に甦った。

――全くの赤の他人に、あんなに優しい人たちに俺は今まで会ったことが無い。
他人と競争し、勝つことばかり考えて、人と打ち解けることも無く、自分の利益ばかり考えてきたこの十数年……
俺はいろんな物をすでに失っていたんだ。
それに気が付かなかっただけだ。
だが、この先、何が起ころうと、俺はあの優しい時間を思い出し、頑張ることが出来そうな気がする。
 
考え込んだ昌義のほうを振り向き、祐一は口を開く。
「そういえば、母がハワイは楽しかったと言っていました」
「君のおかあさん?」
「言ってなかったと思いますけど、岡さやかは俺の母親なんです」
その言葉で、昌義は祐一が誰に似ていたか悟った。
祐一のノーブルな雰囲気や通った鼻筋、それは名画の貴婦人と同じだ。
そっくりだったのにと、昌義は苦笑する。


駅で祐一と別れ、昌義は大田からファックスで送り付けられた地図を見ながら、大田の会社を訪ねた。
多摩プラ―ザの駅前の十階建てのビルにその会社は入っていた。
一階は食器と雑貨を扱った大きな店で、昌義は洗練された店構えに足を止めた。
美奈子の好きそうな食器を見つけ、土産に買おうかと値札を確認し、思いのほか安いのに驚いた。
そのビルの二階・三階に大田の会社の名前が出ている。
階段を上り、二階の受付を訪ねると、受付嬢は直ぐに社長室に通した。

「やあ、良く来たね」
大田が待っていて、彼は昌義を女社長に紹介する。
女社長と言うと、陽子をイメ―ジしていた昌義は、固太りでどっしりした存在感のある社長を見て、少し意外だった。
ホテル勤務の後、この会社を創業したやり手だと言う大田の説明の通り、人当たりの良い吉見千鶴というその社長は、昌義を見て微笑む。

「大田さんは優秀な営業マンで、うちに来ていただいて本当に助かりましたわ。
うちは今、食器と雑貨を扱う店舗を全国展開する準備をしていますの」
「この下の店も、うちの店なんだ」
大田が自慢する。
「そうですか、ステキな店だと思いながら上がって来ました」
千鶴が嬉しそうに頷く。
「営業面では大田さんが引っ張ってくださっているから、何とかなりそうなんですけど、問題は財務でした。
どなたかしっかりした方がいないかと大田さんに相談しましたら、次の日に山田さんを紹介してくださいましたの。
驚きましたわ」
「いや、お前のことが気になっていた時に、社長の言葉だろ?
縁があるんじゃないかと思ってね。
お話したら、会ってみたいと、社長が言ってくださってね」
大田は得意そうだ。

この前は引き抜かれたと言っていたが、大田が勤めていた商社がリストラを断行していたのを昌義は知っている。
どういう経緯でこの会社に勤めるようになったのだろうと思っていたが、それは顔には出さず、頭を下げる。
「ありがとうございます」
「信用金庫で支店長までなさっていらしたんですって?」
昌義が出した履歴書に目を通しながら千鶴は訊く。
「田舎の小さな信用金庫です」
千鶴はふっと微笑んだ。
「偉そうな人だったら、どうしょうと思っていましたの。
貴方はそういう人では無さそう……良かったわ」
「はあ……」
別に気に入らなければ断れば良いだけの話なのにと、昌義は皮肉な感想を持った。
千鶴は昌義を見つめ、
「経理部長でよろしいかしら?」
「じゃあ、社長?」
大田のほうが嬉しそうに声を上げる。
昌義もあまりの即決に驚いて声を上げる。
「私でよろしいんですか?」
「ええ、条件はここに書いてありますわ。今のうちではこれが精一杯ですの。なんと言っても発展途上の会社ですものね」
A四の用紙に印刷された条件は決して悪いものではなかった。
とりあえず、正式の返事は保留したものの、美奈子さえ承知するなら、昌義はその会社に勤めようと決めた。

その晩、品川駅前の居酒屋で大田と二人で祝杯を上げた。
少し酔って、話は千鶴のことになる。
「あの社長、独身なのか?」
「ああ、恋人はいるようだけどね」
「パトロンがいるのか?」
「いや、恋人。オーナーは別にいるらしい」
「いるらしいって? 
あの人が社長じゃないのか?」
「社長はあの会社を任されているんだよ。
煮ても焼いても文句は言わないという条件でね」
「太っ腹な人がいるんだな」
「オレもまだ会ったこと無いけどね。
前に社長がそんなこと言ってた」
「ふうん、どっかの禿爺か?」
「女……じゃないかと思う」
「女?」
「うん、時々、電話が掛ってくるんだ。なんかおばあさんじゃないかな」
「おばあさん?」
「嗄れ声のやけに丁寧な言葉遣いだから……」
ふっと、いやな予感がした。
「まさか、ね……」
「ん?」
「いや、何でも」

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