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November 26, 2004

満月伝説 #6 ツキヨダケ

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昌義はくたくたに疲れていた。
肩は重く、目も痛かった。
鏡を見なくてもフロントの女の子の怯えた目を見て、自分の様子に察しが付いた。
ルームキーを受け取り、誰かいるかと期待してロビーを見たが誰もいない。
ふらふらと喫煙席に座って、タバコを取り出す。

そう言えば、タバコを吸うことさえ忘れていた。
火を点ける。
タバコは舌に苦かった。煙はそれでなくても痛かった目に沁みた。
涙がにじんだような気がして、目をこする。

そのまま、タバコを指に、どれだけの時間が過ぎたのだろうか……
「山田さん、どうしたん?」
碧子の声に気が付いた時、タバコはほとんど灰になっていた。
「ああ、ちょっと……」
熱さを感じて、慌ててタバコをもみ消す。

向かいに腰掛けながら、「彼女とうまくいかなかった?」
いたずらっぽく、碧子が訊く。
「どうして、そう思うんですか?」
自分ながら不機嫌な声だった。
「名探偵碧子を見縊っちゃ駄目。
男に電話がかかってきて、ほいほい飛び出していくのなら、相手は愛人に決まっている」

――その結果、殺されそうになって、好きな女の本性を見て、がっくりしている。
俺は大馬鹿者だ。

「大丈夫よ」
碧子は口にくわえたタバコに火を点けながら、言った。
「え?」
「みな、多かれ少なかれ、そんな思いはしている」
「そんな思いって?」
「男の真実と女の真実は違う。そのすれ違いに気付いただけでしょ? 
違うと知ったうえで、これからはうまくやるのね」
「水商売の女って、そんなものかな?」
碧子はきっと昌義を見据えた。
大きな目が光る。
「水商売であろうが無かろうが、そんなこと関係ないよ。
女は男とは別の生き物ということ」
「そういうものですか……」

昌義はももこの言葉を思い出していた
「黄泉の国に行った恋人や、奥さんを追いかけて、黄泉の国に行った英雄や神様は、決して振り返ってはいけないという言葉を守らず、振り返る。
そして、そのあまりの醜さに、顔を背けて、逃げ帰る。
彼女たちの本質は変わっていないのに……
愛する人を早く見たいと振り返ったというのに、その容姿が醜いというだけで、それまでの試練や努力を捨て去って、愛する人を裏切る……」

――俺は亜里沙の綺麗な容姿に騙され追いかけて、醜い姿を見たというわけか。
そして、逃げ帰ったわけだ。
それでは亜里沙の本質は、どこにあるのだろう?
俺を愛しているといったあの愛くるしい口にか、それとも、あの階段の上から、タクシーを見下ろしていた冷たい目にか……

「そろそろ、食事ね。着替えてくる」
タバコを消して立ち上がり歩き出した碧子は、昌義の横で立ち止まり、軽く昌義の肩を叩く。
「元気、出す」
命令調のぶっきら棒な言い方だが、声は優しかった。
昌義が見上げると、もう、碧子はエレベーターに向かって歩き出していた。

昌義はふらふらと立ち上がり、テラスに向かった。
風が冷たい。
その冷たさが心地よい。

ふと気配に気付いてみると、ももこが一人でいつもの席に座っていた。
テーブルの上のガラス容器の中のキャンドルが灯り、広げられた絵模様のカ―ドを照らしている。
ももこはもう、ドレスに着替えていた。
シンプルなデザインの黒の長袖のドレスに、ゴ―ルドの光る素材の肩掛けを羽織っている。まるで、怪しい占い師のようだ。

ももこは昌義に微笑みかける。
キャンドルが、ももこの幼い顔を怪しく照らしている。 
形の良い口から嗄れ声が漏れた。
「月が昇り始めましたね」
「ああ」
「満月の前日の月を何と言うか、知っています?」
「いや。何と言うの……?」
「小望月、もしくは待宵月」
「子持ち月?」
「この世をば我が世ぞと思ふ望月の欠けたることもなしと思へば……の望月ですよ。
小は小さいと書きます」

「なるほど、それで小望月か……」
大きな青白い月を昌義は見上げる。
ももこも同じように見上げて言った。
「いよいよ明日、運命が決まりますね」

「ああ、君はもう、願い事が決まったの?」
「ええ、最初から決まっていました」
「どんな……?」
答えずにももこは微笑んだ。

その笑みを見て、ふっと思いついて、昌義はももこに語りかける。
「ももこさんは、幽霊を信じますか?」
「もちろん、信じますよ」
ももこは、躊躇わない。
「見たこと、あるんですか?」
昌義のほうが驚いて質問する。
「いいえ」
平然とももこは答える。

「それでは……?」
「どうぞ、おかけになって……」
ももこは前の席を示す。
昌義は素直にももこの向かいに座った。

「居ても不思議ではないと思います」
ももこはテーブルの上のカ―ドを一枚ずつ集めながら話す。
見ると、綺麗だが、髑髏のついた恐ろしげな模様のカ―ドもある。

「私たちの現在の生活を、石器時代の人が見たら、魔法だと思うに違いありませんわ。
私たちは空を飛べるし、遠くの人と話すことも、遠くの人の姿を見ることも出来る。
魔法そのものです。

でも、私たちは、それをテクノロジ―のおかげだと理解できるし理論付けできる。
それと同じように、私たちの脳の働きが電気信号だとしたら、つまり、心が電気とか磁気とかで構成されているなら、それは肉体が無くなっても保存できるかもしれない。
それって、CDとかMDに記録されている情報と同じでしょ?

石器人の誰が、あんな薄っぺらなつるつるの板にあんなに膨大な情報が記録され保存されていると理解できますか?

同じように、私たちが理解していないだけで、地球上に、自然に在るものの中に、私たちの記憶を保存できる何かがあるかもしれない。
それが、石だったり、木だったり、空気だったり、何かその場にあるものだとすれば、その人間の情報自体は保存されていて、何かの拍子に再生されるというのは有り得ることですわ」

「大胆な説だね」
昌義にはますますこの女性が理解しがたくなってきた。
こんなことをこんな子供のような顔をして考えているとは……
「神楽坂史記の先月のエッセイの受け売りですよ」
ももこは無邪気に笑う。

「史記はそれを再生できる人、つまり、プレイヤ―のような働きの出来る人がいて、その人たちが霊を視る事の出来る霊能者かもしれないと言っていました。
殺人や事故、自殺など、不慮の死を遂げた人は、肉体を失う瞬間に強い電気信号を残すから、強く書き込みされ、幽霊として目撃されやすいのだというの。
そう思えば、確かに幽霊は論理的な存在といえるでしょう?
それに、お諸仏さんを信じる私たちが幽霊を信じないのはおかしい……」
「まあ、そうだね」
「世の中には、人智では計り知れないものがあるのです」
予言者のように、ももこは言い放つ。

ももこの言葉を、今の昌義はなんとなく理解できた。 
――癪に障る。が、彼女の言葉は、今の俺には思い当たることばかりだ。

「ところで、山田さんこそ、お諸仏さんへの願いは決まりましたの?」
集まったカ―ドをシャッフルしながら、ももこは訊く。
その一瞬、昌義の心は決まった。
「ああ、決まりましたよ」
思わず、笑みが出ていた。

「望むのは、地位ですか? 名誉ですか? それとも、金?」
そういいながら、ももこは裏返しにカ―ドを広げて差出す。
昌義は、つい、一枚選んで取り出す。
ももこはそれを受け取り、そのまま裏返しに置く。

「もっと、僕にとっては価値のあるものだよ」
昌義は自分でも不思議なほどにすっきりした気分だった。
ももこは、微笑むと、カ―ドを表に返した。
陽気な若者が、歌でも歌っているように山道を歩いている、足元には犬がじゃれているカ―ドだ。

「愚者(FOОL)ね。これは逆位置の愚者。
愚者はタロットカ―ドのナンバ―〇(ゼロ)なの。
すべての始まり。すべての終わり。
逆位置の愚者には、新たなる旅立ちの意味もあるわ。
何かが終わり、何かが始まる」

キャンドルと月明かりに照らされたももこの顔は、幼い童女のようにも、お婆さんの魔法使いのようにも見えた。

「ああ、山田さん、どこに行ってたんですか?」
丹波がテラスに顔を出す。
彼はもう、ブラックタイに着替えている。
「もうすぐ、ディナーですよ。妻に逃げられたもの同士、一緒に如何ですか?」
「ええ、ありがとうございます」
もう少し、ももこと話したいと思ったが、丹波の顔を見て、ほっとするものを感じ、昌義はももこに頭を下げる。
「貴重な意見をありがとう。着替えてきます」

昌義は三階の部屋に向かいながら、ももこの言葉を反芻する。
「何かが終わり、何かが始まる」

今まで、夢で見る杉崎は、悲しそうな顔で、昌義を睨んでいた。
だが、秋田に来てから現れる杉崎はちゃんと話している。
さっき、腕を掴まれたときには、まるで生身の人間のような感触さえあった。

――俺は、生きている杉崎に会うことが出来るかもしれない。


その夜のディナーに着慣れないタキシードにブラックタイで出ると、昌義は坂田、丹波、碧子、陽子が座っている中央の大テーブル席に案内された。

「お連れの方は?」
今宵は真紅のシンプルなシルクのスリップドレス姿の陽子に訊くと、当たり前のように、「仕事中なの」と答える。
「こんなところに来てまで仕事ですか? 大変ですね」
「まあ、好きでやっているから、放っておくの」
「華楠さんは?」
碧子に訊くと、碧子は肩を竦める。
「今日は近くのホテルに呼ばれて歌っている。
あの子は歌声一つで世界の何処に言っても生きていけるね」
薄いグリ―ンのオ―ガンディ―と濃いグリ―ンのサテンを重ねた胸の開いたドレスを着た碧子は淡いピンクのシャンパンに口を付ける。
「歌一つで世界を放浪できたら、それは素晴らしいですね」
接待カラオケで歌う歌に悩む昌義には信じられない才能だ。
「そういう才能が有れば、私、きっと、今頃はここに居ないわ」
陽子がワインリストから目を離して言い出した。
「陽子さんが歌手なら何処に行きますか?」
「そうね。アメリカに行ってカ―ネギ―ホ―ルを目指そうかしら」
「歌の世界的成功を目指すわけだ」
碧子が茶化す。陽子は真剣な顔で、
「ええ、それが才能を持って生まれた者の使命というものだわ。
神様に預けられた才能を存分に発揮して、成功者になって、誰かの目標になる。
それが、才能のある者の使命よ」

そんな話を、どこかで聞いたような気がして、そうだ、ももこの話に似ているのだと気付いて、昌義は苦笑した。
丹波はニコニコしながら、話に耳を傾け、ワインを飲んでいる。

そういえば、丹波もその料理と言う才能で、きっと何処に行ってもやっていけるだろう。
華楠の才能を賛辞している坂田や陽子だって、十分にそれぞれの道の成功者だ。
それに気付き、昌義は思う。

――俺には無い才能。
ここに居る人は多かれ少なかれ、才能に溢れた人ばかりだ。
それぞれの業界でトップにいる人ばかり。
俺のようなサラリ―マンとはまるで違う人種だ。
お諸仏さんに出会って、その成功を手に入れたと、彼らは言うが、本当にそうだろうか?
お諸仏さんに会えたということが、すでに才能の証明なのかもしれない。
あの、窓際の席で二人の世界を作っている若いアベック、あの二人だって、何かとんでもない才能の持ち主かもしれない。
アベックの隣席で談笑しているももこ達。
あいつ等こそ、侮れない。類い希な才能の持ち主たちかもしれない。
それにしても、俺のように、金勘定ばかりしてきたサラリ――マンがお諸仏さんに選ばれるには、何が必要なんだろう?

そんなことを考えながら、ぼんやりとももこたちのテーブルを見る。

祐一が何か言って、歩夢が笑い、それを見て、祐一が微笑む。
ももこが何か言うと、歩夢が嬉しそうな表情で懸命に話している。

「どうなさったの? 山田さん」
目聡い陽子に声を掛けられて、昌義は我に帰る。
「いや、何でも有りませんよ」
「あら、あの男の子に見惚れていたのかと思ったわ」
碧子がアミュ―ズのからりと揚げた湯葉を口に運びながら言い出す。
「女の子じゃなくて、男の子ですか?」
坂田が聞き咎め、碧子は肩を竦める。
「あの男の子二人、滅多に無い美形だわ。創作意欲をかき立てられるくらい。
あのチビの女があんな美形に囲まれているというのは癪だけど、漫画的にはかなり良い線ね」
「漫画的?」
「少女漫画の読者に、夢を与えるじゃない。
あんな、チビでそこそこの女が、あんな美形に大切にされる、ま、よくあるパタ―ンだけど……」
「碧子さん……」

全員が引いた所へ支配人がシェフを連れてきた。
「皆様、シェフの大鶴湊人を紹介いたします」
学校出立てのような若いシェフは深々と礼をして、料理の説明を始める。

「本日のディナ―は、丹波先生のご指導で、キノコ料理をご用意させていただきました。
香り高いこの地方のキノコとフレンチのコラボレ―ションをお楽しみください」
再び、仰々しく礼をして、シェフは厨房に下がる。

やがて、ス―プが運ばれてきた。
シェフの言葉どおり、コンソメス―プに一片の白いキノコが浮いている。
「『カノカ』ですよ」
丹波は嬉しそうだ。
この香りが素晴らしいキノコは「カノカ」と言うものらしい。
一匙のスープを口に含むと、山の香りが口内に広がる。

「これはさっき、僕が採ってきたんだ」
丹波が自慢する。
「凄い、こんなのがこの山にあるの? 自然に生えているの?」
陽子が歓声を上げる。
「ああ、地元の人に案内してもらってね。いろんなキノコが採れた」
「毒キノコだったりして」
碧子がいたずらっぽい目で丹波を見る。

丹波は面白そうに、
「そうそう、それなんだけどね、もの凄く立派な椎茸があって、こりゃ凄いと思って、山ほど採って籠に入れていたんだ。
帰る途中、地元の人に自慢して見せたら、椎茸じゃないと言われた」
「へ―、何だったんですか?」
「ツキヨダケというキノコだそうだ」
「ツキヨダケ?」
「月夜の晩に青白く光るんだそうだ。もっとも、月が無くても光るようで、昔はヤミヨダケとも言ったそうだよ。
闇夜に提灯代わりに出来るくらいに光るんだそうで……」
「すご―い、ロマンティックなキノコ」
碧子は漫画家らしく目を輝かせる。
「それは、良い絵になるなあ」
「そのキノコが毒キノコなら、神楽坂史記が喜ぶだろうね」
昌義の言葉に、丹波が笑う。
「仰せの通り、そのキノコ、物凄い毒キノコだそうだよ。毎年、中毒患者が出るそうだ。時には死者も……」
「笑っている場合ではありませんわよ」
スプ―ンを置いて、陽子が丹波を嗜める。

「大丈夫ですよ、このス―プにはツキヨダケは入れていませんから……」
「どうしたんですか? そのキノコ……」
おそるおそる昌義は尋ねる。
「ゴミ箱に捨てました」
丹波は軽く流して、次の皿を出すよう、側に立っていたウエイターに指示を出す。
直ぐに、前菜のエスカルゴが運ばれてきた。
エスカルゴはニンニクとパセリのほかに細かく刻んだマイタケが散らしてあり、熱々で、薫り高く美味だった。
「このマイタケも採っていらしたの?」
陽子の問いに丹波は嬉しそうに頷く。

「これはこんな大きな株だったんですよ」
両手抱えるような仕草をして、丹波は自慢げに答える。
「あんな大きなマイタケの株、見たこと無いなあ。それにどうです? この香り! ニンニクとバタ―とマイタケ、素晴らしい!」
その意見に、誰も異論は無かった。

次の皿はヒメマスのポワレ、様々なキノコのソ―スが掛っている。
「凄く良い香りだけど、このキノコは?」
碧子は歓声を上げたあとで丹波を見る。
「それが……」
丹波にしては歯切れが悪い。
「食べられるとは言われたのですが、名前が判らないキノコたちです」
「え―? 大丈夫なの?」
陽子がフォ―クを持ちかけて止める。
「大丈夫ですよ、この辺りの人は、食べているそうです。私も念のため、毒味しましたが、この通り、ぴんぴんしています」
「このキノコたち、素晴らしい。木の味がする。森を食べている感じがする」
碧子は嬉々としてもりもり食べている。
それを見て、陽子も坂田も食べ始めた。昌義も手をつける。
「うわあ、これは……」
それ以上何も言えず、皆、黙々と食べた。
あっという間に皿が空になる。
その後の短角牛のフィレのメダイヨンも、マツタケが利いていて良かったが、この皿がこの夜の逸品だと言うことで、皆の意見は一致した。

デザ―トの山葡萄のム―スの芳醇な香りと上品な甘酸っぱさに驚かされ、山の匂いと色と味を存分に堪能して、食事は終わった。

皆そのまま、バ―に移る。
今宵は、バンドは入っておらず、落ち着いたジャズが流れている。
そのバ―で、彼らは古い友人のように真夜中まで語り合った。

丹波と坂田が四十代の半ばで、同じくらいの年、昌義は少し年下、陽子は三十台半ば、碧子は二十台の後半。
結構幅広い年代に渡っているのに、話題は繋がった。
昌義と坂田は同じアニメのファンだったし、碧子はそのアニメの再放送を見て、漫画家を目指したと言う。
丹波は修行時代の海外の話、坂田は近頃の学生について、陽子は鴇野雄一郎の思い出話をした。
碧子は飲みながらそれを聴いている。

昌義はお諸仏さんの話を聞くつもりで彼らに付き合ったはずが、そんなことはすっかり忘れ、心温まる楽しい一時を過ごした。
何の利害も無い、つい一昨日までは存在さえ知らなかった連中と、こんなに楽しい時間を共有できるとは……
昌義はその夜、本当に幸せだった。

次の朝、昌義がロビーに降りると、客はまだ誰もいなかった。
従業員は忙しそうに働いている。コーヒーを頼んで、テラスに出る。
ワインと水割りで荒れている胃が寒さにぎゅっと収縮した。
フロントの背の高い女性がコーヒーを運んできた。
「ありがとう」
コーヒーを受け取り、ふっと思いついて訊いてみた。
「このホテルは若い子ばかりだね、皆、この辺の出身?」
胸に山本というネ―ムプレ―トを付けたその女性は、笑顔を作りながら、
「いいえ、出身は、全国各地でございます」
「どうして、ここに……?」
その質問を測りかねるように、山本は首を傾げる。
「いや、ごめん。変なこと聞いちゃったかな?」
「いいえ、ただ……お客様はシーファをご存じないのですか?」
「シーファ?」

――何のことだろう?
今度は昌義が首を傾げる番だった。
「申し訳ございません、あの、私、失礼いたします」
山本は蒼褪めて帰ろうとする。
「シーファ? 何のことだ?」
昌義はその後姿を見送っていたが、山本がロビーに入るのと入れ替わりに、丹波が顔を出した。
振り返り、山本に「コーヒーを頼むよ」と注文する。

「山田さん、お早いですな」
丹波はテラスデッキに出てきて、立ったまま、シガーに火を点け、辺りを眺める。

ホテルの前の赤と金色に色づいた繁みは朝の光に光っている。
空を仰いだ丹波の吐く息が湯気のように立ち上るのが見えた。
今朝も冷え込んで、蒼くすき透っている空には雲ひとつ無い。

「良い天気だ」
「……本当に」
「満月日和だな」
「丹波さん、お諸仏さんはどんな願いでも適えられますか?」
昌義の問いに、丹波は昌義の顔をじっと眺めていたが、やがて口を開いた。

「山田さん、あんたの願い事が何かわからないが、それが正しいことなら、きっと適うと思うよ」
「正しいことって?」
昌義が聞き返した瞬間、丹波の携帯が鳴った。
意外なことに丹波の着信音はなんだか可愛い子供が喜びそうな曲だ。
「ああ、ジュリかい? ん、ママと一緒か? そうか……」
相好を崩している丹波は、優しい言葉で話している。
どうやら、子供からのようだ。

ひとしきり、子供と話した後、昌義に、
「奥さんが話したいそうだ」と携帯を渡す。
「あなたあ、私よ」
美奈子のキンキン声が響いた。耳が痛いくらい興奮してテンションが上がっている。

「元気そうだね」
「もう、スッゴク楽しくて、幸せ」
「それは良かった」
その様子が目に浮かんだ。
セレブの夫人たちに囲まれて、絶好調の美奈子。
亜里沙の本性を知った今、美奈子の不機嫌な顔も懐かしく愛しく思えた。

「実はねえ、私、岡様にハワイの別荘にお招きいただいたの」
「ハワイの別荘……?」
「今から家に帰って、パスポ―トを取ってくるわ。一週間くらい行って来るけど、良い?」
いまさら「良い?」も無いもんだと思いながらも、
「いいよ、行っておいで」
少し心細い……その感情を出さないように返事をする。
「ありがと、じゃ、急いでいるからこれでね。ごきげんよう」
美奈子は取って付けた様な挨拶をして、電話を切った。
山本がコーヒーを運んできて、昌義のテーブルに置く。
「ハワイに行くそうで……」

「家のも一緒のようですよ」丹波はあっさりと言う。
昌義は驚いた。「奥さん、お子さん連れで、ですか?」
「ええ、さやか夫人は息子を可愛がってくれて、たまに連れて行って下さるんですよ」
「お子さん、お幾つですか?」
「四歳になるところです」

――丹波さんの子供なら、十代でもおかしくないのに。あの細い奥さんが○高出産できたとは……

「遅くに出来たお子さんなんですね」
丹波は椅子に座り、コーヒーに口を付ける。
「そうか、山田さんはご存じなかったか……」
「何を、です?」

「実は私らは再婚同士なんだ。樹里は前の妻の産んだ子供です」
一瞬、昌義は絶句した。
丹波夫妻が一緒に居るのを見ていると、長年連れ添った夫婦のように馴れ合った雰囲気だったので、そんなことは考えたことも無かった。
昌義の驚きを他所に丹波は続ける。

「前の妻は……樹里の母親は、かなり年下でしてね。
一年前に、まあ、その、自殺したことになっているんです」
「自殺した、ことに、って……?」
昌義の表情を見て、丹波は苦笑する。

「本当は僕の義理の母親に殺されたんですよ」
あっけに取られた昌義の、口から出たのは間抜けな質問だった。
「また、どうしてそんなことに……?」
「僕の義理の兄、彼女の息子を、妻が殺したからです。不倫の挙句ね」
丹波は何のためらいもなく答えた。

――それは……そんなことを会ったばかりの俺に話して良いのか?

「そんな大事なこと、どうして……?」
丹波は真剣な表情で、昌義を見る。
「僕はその事件で、多くのことを学びました。
藤江、今の妻ですが、彼女と神楽坂史記が居なければ、僕は今ここには居ない」
そう言って言葉を切ると、丹波は昌義の目を見て続ける。

「山田さん、神楽坂史記を知っていますか?」
「いや、あの、一度だけ、部屋を間違えて叱られたことは有りますが……」
「史記が叱った?」
「ええ、あの、陽子さんと一緒の人ですよね? 細くて」
神経質そうなと言いかけて慌てて口を閉じる。
丹波はにやっと笑い、弾んだ声で言った。
「史記を、史記の真意をあなたは知らない……」
「え?」

――真意って?あの部屋に何か問題でも有ったのだろうか?

次の丹波の言葉は意外な言葉だった。
「とにかく、あなたは心配要りませんよ。
あなたは幸運な人だ。あなたは護られている」
「はあ? 僕が幸運? 護られている……?」

整えられた髭がその掘りの深い顔立ちに深みを与えている丹波は、よく見ると澄んだ瞳の美男子だ。
「僕がそう信じていることを、山田さん、憶えて置いてください」
「何のために?」

理由が判らず、戸惑う昌義に、丹波は、話を逸らした。
「ああ、お諸仏さんは死人を生き返らせることができるかと言うことでしたね」
「はあ」
丹波は元の陽気で気さくな丹波に戻っていた。
「あなたがお諸仏さんのおめがねに適えば、きっと、生き返りますよ」
こともなげに言う。
言い出した昌義のほうが信じられない。
「でも、もう、死んでかなり経っているから、戸籍とか……」

――それに死体は火葬されているし……
それを口に出すのは流石に躊躇われて、言葉を濁す。

「山田さん、お諸仏さんが人を生き返らすことが出来るのなら、そんなことは何の傷害にもならない」
丹波はそう言うとシガーを消して立ち上がり、伸びをする。
「さあ、今日は良い日になりますよ。早く食事して、動きましょう」
丹波に促されて、昌義も慌てて立った。

ロビーに入ると、陽子、碧子、坂田が蒸気機関車のように煙を上げていた。
口々に朝の挨拶をし、食事を摂ることにし、ダイニングに入る。
昨日のディナーと同じように五人分のテーブルがセットされていた。
この胃ではト―ストは辛いと思っていた昌義は、おかゆが出てきて驚いた。
「おかゆですか……」
「あら、お気に召さなかったかしら?」
陽子が昌義を気遣う。

「いや、有り難いですよ。ちょっと、胃がね。夕べ、飲みすぎたみたいで」
「さすがにシェフは、私たちのコンディションを知っているみたいね」
碧子の言い方は相変わらずぶっきらぼうだ。
「大鶴君がこの方が良いと、言い張ったんだよ」
丹波は嬉しそうだ。
「このタクアン、燻製されている」
早速、おかゆに添えられた漬物に箸を付けた碧子が驚きの声を上げる。
「燻りガッコだよ」
「何ですの、それ?」
「ガッコは漬物のことさ。燻りと言うのは碧子さんの言ったとおり、燻製のことだ」
「へ―、珍しいですね」
坂田が燻りガッコを口に放り込み、歓声を上げる。
「うん、燻製だ。なんとも言えない味わい」
「秋に採れたタクアンを、冷たい水で洗い、軒先で乾し、その後、囲炉裏の煙で燻すんです。
それぞれの家の味がある、この地方独特の漬物ですよ。
これをこの茶粥に合わせると、どんなバッドコンディションでもするすると喉を通りますよ」

皆は丹波の説明を聞き、美味しさが増したような気がして、漬物に箸を伸ばす。
昌義もそれを口にして、そのまろやか味に驚いた。
確かに燻製の匂いがして、苦味も有るが、大根の自然な甘さが出ている洗練された味だった。
それに茶粥を合わせると、茶粥の旨みが強調される。ついつい、三杯もお替りしていた。

すっかり満腹になり、ダイニングを出てロビーに向かいながら、昌義はタバコが無くなったのに気がついた。
「ちょっと、タバコ取って来ます」
「私のタバコを差し上げますわ」
陽子も碧子も坂田も、輸入タバコを吸っている。丹波はシガーだ。

「お気持ちはありがたいのですが、やはり、吸い慣れたのが良いので、取ってきます」
「僕もちょっと部屋に帰ってきます」
坂田が一緒にエレベーターに乗った。

三階の部屋からタバコを持ってロビーに戻り、新聞を取ろうとフロントの前の新聞のフォルダ―の前に行く。
「シーファ」と言う言葉が耳に入った。
昌義に気付かず、フロントの女性二人が話している。
「へ―、知らなかったの?」
「うん」
「そっか、今回、何か変だと思っていたんだよね」
「変って?」
「だって、今回のゲスト、なんか凄いメンバ―だよ」
「そう言われれば……」
「大楠碧子、華楠、岡さやか……凄いよね。それに丹波先生でしょ?
大鶴さんなんか、緊張で吐いてたよ」
「そうだよね。私だって、毎日、どきどき。身体に悪いわ」
「史記さんも何を企んでいるのかしら?」
「ミステリ―ツア―かなんかかな?」
女性たちはこそこそと話し合っている。
「ミステリ―ツア―?」

――このフロントの女たちは満月伝説のことを知らないのか? 

昌義はおかしいと思ったが、直ぐに思い直した。
この従業員たちまで満月伝説のことを知ってしまえば、このホテルの従業員全部がライバルになる。
昌義はそれまでは彼女たちに「シーファ」とは何かを問いただそうと思っていたのだが、止めることにした。
 
新聞を取り、喫煙席に戻ると、坂田が戻っていて、全員、そこで談笑している。
「楽しそうですね」
「ああ、山田さん」
「今、お諸仏さんのことを話していたんですよ」
「それは、それは」
願ってもない展開だと昌義は期待する。
「皆さん、どうやってお諸仏さんに出会ったんですか?」
丹波がコホンと咳払いする。
坂田と陽子は顔を見合わせる。
碧子はテーブルのコーヒーを飲み干して話し出す。

「如何すれば良いか教えて上げる。
今夜、満月が昇ったら、このロビーで待っているの。
林の中から、お諸仏さんたちが現れる迄……
お諸仏さんが現れたら、あなたは自分の真実を話す。
そして、願い事する」
「それで、どうなるんですか?」
「候補が何人か居るから、一人ずつ、お願いしていくの。
お諸仏さんたちが話し合って、あなたの望みを適えるかどうか決めるわ」

「僕には何の才能も無い……」
つい本音が出た。
「才能は要らないわ、真実さえあれば」
「真実って?」
「あなたが自分の人生を反省して、これからの人生で成さなければならないものがあるというなら……」
「成さなければならないこと……」
昌義は勢い込んで言った。
「ええ、僕には、それが有ります」
「だったら、あなたには候補の資格がある。
心からの願いをお諸仏さんにぶっつけるしかないっしょ?」

碧子の言葉をご宣託のように聞き、昌義は勢い込んで話す。
「僕はお諸仏さんに適えて貰いたい願いがある……」
「頑張ってね」
真面目な顔で碧子が言う。
「適うと良いわね」
陽子は嫣然と微笑む。
「頑張ってください」
坂田は昌義に握手の手を差し出す。
丹波はうんうんと頷いてやはり握手の手を差し出した。
「僕は、ここに来て、本当に良かった。
こんな暖かい励ましを誰かに貰えるなんて……見ず知らずの僕に、こんな……」
昌義は丹波と握手しながら、息が詰まって、声が出なくなった。

――こんな人たちが居るのか? 
この世智辛い世の中に、こんな人たちが……
杉崎、お前を生き返らせて、この人たちに合わせてあげたい。
俺はとんでもない人間だが、こんなに素晴らしい人たちと巡り合えたって……

「ところで、鶴の湯に行きましょうよ」
陽子が言い出した。
鶴の湯は秘湯というと一番に名前の挙がる温泉で、昌義も芸能人が乳白色の湯に使っている映像をテレビで見たことがある。
その温泉がこの田沢湖高原の奥にあることは昌義も調べていた。
「鶴の湯はいいですな」
坂田も相槌を打つ。
「丹波さん、今日は?」
「良いですよ、行きましょう」
「ここに来たら、玉川温泉も良いけど、鶴の湯にも行かなきゃ。
日本の秘湯というと一番に名の挙がるところよ。山田さんも行きましょうよ」
陽子の言葉に坂田も頷く。
「良いところですよ。特に紅葉の頃の景色は素晴らしい。
それにあの下から湯の沸いてくる感覚は堪りません」
「混浴もあるのよ」
碧子が付け足す。
「一緒に入りましょうよ」
陽子の誘いは魅惑的な誘惑だった。
「どうなの、山田さん?」
「もちろん、ご一緒させていただきます」
昌義は躊躇い無く言った。

「皆でお風呂に入って、ビ―ルを飲んで、きりたんぽ鍋を食べましょう」
陽子が立ち上がる。
「そうと決まれば、さっさと支度して。出かけるわよ」
碧子の号令で、皆、慌てて立つ。


青い空を切り取る真っ赤に紅葉したナナカマドの葉。
金色に輝くブナの森。
腐葉土の匂い。キノコの匂い。風に飛ぶ落ち葉。そして、乳白色の温泉。
「良いところだなあ」
湯に浮かんだ落ち葉を掬いながら昌義はため息をつく。
「良いところでしょ?」
丹波は傍らの岩に置いた冷酒の盃を取り、飲む。
「天国ですよ」
頭の上に乗せたタオルを取り、汗の吹き出た顔を拭きながら坂田は頷く。
露天の男湯で、彼らは何とはなしに空を見上げる。
「空気の層の向うに宇宙が見えるようだ」
坂田がため息を漏らす。
「坂田さんはロマンチストだな」
丹波は目を細める。

「そう云えば、坂田さん、そろそろ、どうです?
陽子さんとのご結婚は?」
その言葉に昌義は驚き、坂田を見るが、坂田は首を振る。
「結婚は無理でしょう」
「あ、あれですか、あの、彼女が家庭的じゃないからですか?」
昌義は昨日の会話を思い出し、問い質す。
「いや、そうじゃありませんよ」
坂田は空を見上げたまま続ける。
「あの人は誰とも結婚できないでしょう。
あの人の中には鴇野雄一郎が居る。彼は死んでも、彼女を放さないんです」
「そんなに良い人だったんですか? 鴇野雄一郎って……」
「良い人ってのは、どうかな?
確かに凄い人だったけど、夫向きじゃなかったんじゃないかな?」
「陽子さんはどうして、お諸仏さんに彼の生き返りを願わなかったんだろう?」
昌義の言葉に坂田は目を丸くする。
「生き返りねえ? 
ああ、あの時は、雄一郎はまだ生きていたから……」
「山田さんはお諸仏さんにお友達の生き返りを願うつもりなんだそうですよ」

「へえ、そんなに大事な人だったんですか?
でも、お諸仏さんにそんなこと出来るのかなあ?」
坂田は丹波ほどお諸仏さんを信じていないようだ。
「それに、果たして、本人は生き返りたいんですかね?」

その言葉に昌義は胸を突かれた。
――自殺した杉崎、俺を憎んでいるだろうか?
俺の勝手で生き返らされても、喜ばないかもしれない……

様子を見て昌義の動揺を察した丹波は穏やかに話しかける。
「山田さん、大丈夫ですか?」
「ああ、ええ、大丈夫です」
「悪いこと言ってしまったかな?」
坂田が頭を掻く。
「いや、そんな……そうですよね。喜ばないかもしれませんね」
昌義は溢れそうになる気持ちを誤魔化すために、ばしゃばしゃ湯を顔に掛け、声を振り絞った。
「いやあ、良い湯です」
丹波と坂田は黙って、空を見上げる。遠くで鳥の鳴き声が聴こえた。

鶴の湯の木造平屋の新館の囲炉裏の部屋で、全員で昼食を取り、また、湯に浸かり、ビ―ルを飲み、三度、湯に浸かり、のんびりと半日を過ごした。
夕方、暗くなる前にホテルの駐車場までもどると、フロントの山本が血相を変えて迎えに出てきた。
「山田様、警察の方がお見えです」
「警察?」
 
その刑事たちはロビーで昌義を待っていた。
百九十センチは有りそうな長身の若い刑事と、百六十センチそこそこの中年の目つきの鋭い刑事たちは、出されたコーヒーを飲んでいた。
二人は昌義を見ると立ち上がり、黙礼する。

「山田ですが……」
「いやあ、鶴の湯にお出かけだったそうで?」
中年の刑事が愛想良く話しかける。だが、目は笑っていなかった。
「ええ」
「あそこは良かったっしょ?」
「ええ、で、何か?」
「ちょっと、お訊きしたいことがありましてね。あ、私、佐々木と言います」
「千葉です」
年配の刑事が佐々木で、若いほうが千葉だった。
「ああ、どうぞ、座ってください」

昌義が彼らの向かいに座ると、若い刑事は写真を取り出す。
免許証の写真のようだ。
正面を向き、真面目な表情で写っていたのはあの亜里沙の店のボーイだった。

「この人、ご存知ですね?」
「ええ、僕が良く行く地元のクラブの従業員だと思うけど……」
「『マリエンバ―ド』にお勤めの鈴木拓也さんです」
「名前は初めて知りました。彼がどうかしたんですか?」
「実は鈴木さん、亡くなりましてね」
「亡くなった……?」

――昨日は生きていたぞ。俺を殺そうとしていた……

「ええ、今朝、この先の林の中で、死んでいるのが発見されたんすよ」
「この先って……?」

――なぜ、そんなところで死んだんだ?
まさか、俺を殺しに来たのか?

若い刑事が上目遣いに昌義を見る。
「夕べ、九時頃はどちらに?」
「このホテルにいました」
「ここに?」
刑事たちは驚いたように顔を見合わせる。
「こんただとこで、何していたんすか?」

――こんただとこってとはこんなところってことか?

変な質問だと思いながらも、昌義は正直に答える。
「皆さんと一緒に飲んでいました」
「そうですか……皆さんというのは?」
年配の男が疑り深そうな目つきで見るのを感じ、昌義は思わず、隣りの席でタバコを吸っている丹波達に話しかける。
「すみません、あの、夕べの事、この人たちに話してくれませんか?」
若い方の刑事がそれを遮る。
「あ、後で、お一人ずつお聞きしますので……」

「千葉君、ここじゃ何だから……」
年配の刑事が皆の前では不味いと思ったのか、通りかかった支配人を呼び止める。
「あ、君、どこか話できる場所は無いか?」
「それでは、ダイニングのほうへどうぞ」

支配人は三人をダイニングに案内する。
「へ―、ここ、こんな風になっているんだ?」
若い方の刑事が物珍しそうに、辺りを見回す。
どうやら、彼らはこのホテルに入るのは初めてのようだ。

窓際の席で、刑事たちは再び尋問を始める。 
「何時くらいまで、飲んでいたんすか?」
「二時半か三時くらいだったと思いますが……」
「それからは?」
「部屋に帰って寝ました」
「その後、夜中に外に出られたとか言うことは?」
「有りませんよ。朝までぐっすり寝ました。といっても、七時には起きましたが……」
「そうですか……」
「こちらには奥さんもご一緒だとか?」
若い刑事はメモを見て訊ねる。
どうやら、昌義の帰りを待つついでにホテルの従業員に色々訊いていたようだ。
「一緒に来たんですが……一足先に帰って、今はハワイだと思います」

「ハワイ……って、あのハワイ? 外国の?」
素っ頓狂な声を佐々木が出す。
変な質問だ。
昌義もついぶっきら棒になる。
「それ以外、どこにハワイがあるんですか?」

「常磐ハワイがあるべさ」
年配の刑事がにんまり笑う。
「何ですか? それ」
「あれ、おめ、常磐ハワイ知らねのけ?」
「知りませんよ」
「へ―、あっちじゃ有名じゃないんだ?」
「佐々木さん、常磐ハワイなんかどうでも良いっしょ?」
「んだ、んだ。そっか、奥さん、いねがったのか。ま、身内の証言はアリバイにはなんねし……」

昌義は不安になった。今の話では彼らは昌義を疑っているらしい。

――亜里沙はどうしたのだろう? 
亜里沙もまさか?

「その、刑事さん、一体、何が何だかさっぱり判らないんですが、その、鈴木さんは何故死んだんですか?」
 刑事たちは顔を見合わせる。
「言って良いんだべか?」
「良いっしょ」
相談の結果、話しても良いという結論になったらしい。
千葉が話し始めた。
昌義もそのほうが助かる。
佐々木の方言では、「理解する」より「想像する」になってしまう。

千葉は周りを見回し、声を潜める。
「実は、東京の警視庁捜査一課の刑事殿が、お忍びで、この近くのホテルに泊まっているんですよ」
「はあ?」
「それで、今朝がた、婚約者の方と散歩されていたところ、林の中で、変死体を見つけたということです。
ま、死因は検死の結果、中毒死と判ったんすがね」
「中毒死?」
「なんとまあ、ツキヨダケ、食っちまったんですよ」
夕べ聞いたばかりのキノコの名前が出て、昌義は思わず
「あの闇夜でも光るという毒キノコですか?」
と訊いてしまった。

「あっら―、知ってる―?」
佐々木が素っ頓狂な声を出す。
「夕べ、食事の時にその話が出ました」
「あら―、それは、それは……」
佐々木と千葉は思わせぶりに視線を交わす。
佐々木が続ける。
「んで、何処で、そんなもん食ったのか判らんのよ」
「心当たり無いですか?」
千葉の問いに、昌義は首を振る。

「でもねえ、鈴木の手帳に、あんたの名刺が挟まっていて、それにあんたの泊まっているホテルの電話番号が書いてあったし、この近くで亡くなったとなると、やっぱし、あんたに訊くしかないっしょ?」
「確かに……」
つい、納得してしまい、慌てて、
「でも、そう云われても僕には心当たりなんか……」

――大いにあった。多分、亜里沙に命じられて俺を殺そうとしていたに違いない。
 
若い刑事も困ったように、ダインニングの入り口を顎で示す。
「ま、確かに、あんたのアリバイは、ここの従業員もあんたが言ったとおりに答えているし……
でもねえ、何のためにここさ来ただか……」
「何処に止まっていたんですか?」
「いや、この近くのホテルに問い合わせたども、宿泊名簿には鈴木拓也なんた名前は無いのしゃ。
行方不明の宿泊客もいねし……」
「何処にも泊まっていないんですか?」
「んだ」
恐る恐る、昌義は訊いてみる。
「あの、その人は、一人だったんですか?」
「一人って?」
「いや、こんなところに一人で来るのは、ちょっと、考えられないから……」
「連れがいた可能性……うん、あるかもしれないな」
千葉が言い出し、佐々木が頷く。
「んだな。その線でちょっくら調べてみっか?」
二人は昌義が理解不能の会話を少し交わした。

やがて、千葉が昌義に向き直り、
「したらば、そういうことで、山田さんは明日までここにいるんだすな?」
「はあ」
言葉があまり理解できず、昌義は曖昧に頷く。
「ひば、また、あとで、寄らせてもらいますわ」
「ひば……」
刑事二人はそそくさと帰っていく。

彼らを見送り、呆然としている昌義に、ダイニングに入ってきた丹波が声を掛ける。
「どうでした?」
丹波の顔を見た途端、昌義は鈴木の死因を思い出した。

――ツキヨダケの中毒!

「丹波さん、ツキヨダケ、何処に捨てたんですか?」
昌義の迫力に驚きつつも、丹波は、笑顔で答える。
「あれは、ちゃんとゴミ箱に捨てましたよ」
「良かった―」
ふ―と息を突き、テーブルに突っ伏す昌義を、丹波も、後からダイニングに入ってきた碧子たち三人も、訳がわからずに、見守っている。

「ツキヨダケの中毒ですか……」
「そう言っていました」
「丹波さん、本当に大丈夫なの?」
「ゴミ箱に捨てたから大丈夫……」
そう言いながらも心配になったらしく、丹波は突然、立ちあがり急いでダイニングの奥の厨房に向かう。
「それにしても、その人、何だって山田さんの泊まっているホテルの電話番号なんか持っていたんですか?」
坂田が丹波を見送りながら聞く。
「さあ」

そう答えながらも、「理由は判っている。俺を殺すためだ」と昌義は思う。

 ――亜里沙はどうしたのだろう? 一緒じゃなかったのか? 

山の中で斃れている亜里沙を想像して、昌義は首を振る。
「それにしても、夕べ、ツキヨダケの話をしている間に、その人はツキヨダケを食べていたことになるのかしら?
何だか怖いわ」
陽子は寒気を覚えたように二の腕を擦っている。
「大変だ」
厨房に行っていた丹波が厨房の入り口で怒鳴る。
「どうしたんです?」
丹波はよろよろと皆のところに来て、ぺたんと昌義の前の椅子に腰掛ける。
「どうしたんです、丹波さん?」
「ツキヨダケが……ゴミ箱に捨てたはずのツキヨダケが無くなっている」
全員、絶句する。

息を呑んで、最初に口を開いたのは碧子だった。
「どういうこと……?」
蒼醒めた顔の丹波は漸く息を吐き、話し始める。
「今、厨房でゴミ箱を確認したんだ。
ここのゴミ箱は毎日、回収に来なくて、昨日のが、まだ、残っていたからね。
見たが、ツキヨダケを入れた紙袋が無くなっていた」
「それでは、死んだ鈴木がゴミ箱漁りして、ツキヨダケを持ち出して食べちゃったってこと?」
「まさか、そんな……」
「しかし、無くなっていると言う事はその可能性も有りだな」

「下手すると、誰かが持ち出して食べさせたとか……?」
碧子の言葉に一瞬、会話が途切れた。
昌義は皆が自分を見ない振りをしているようで居た堪れず、
「僕じゃ有りませんよ」
言わずもがなの弁解をしてしまった。

碧子の鋭い声が飛ぶ。
「そんなの判っているわよ。私たち、ず―っと、一緒だったんだから」
「心配は要らないですよ、山田さん、私たちが証人です」
坂田も、昌義の肩を叩く。
丹波が沈痛な面持ちで言い出した。
「警察に話したほうが良いだろうか?」
「それはどうかと……山田さんに要らぬ嫌疑が掛りかねません」
「そうですわ。きっと、山田さんを犯人に仕立てますわ」
「史記に、史記に報告してくる」
碧子が立ち上がる。
「そうですね、それが良い……」
坂田がそう言い、碧子が歩き始めた瞬間、ダイニングに歩夢が入ってきた。

「どうしたんですか?」
歩夢はにこやかに碧子に語りかける。
「あ、あの……」
碧子が口ごもり、昌義達のほうを振り返る。
「警察の人が来ていましたね」
「ええ」
「ぼくらはもう事情を聞かれたんですよ」
「そうなの……?」
碧子は緊張した声を出した。

「僕らは今日一日、ホテルにいましたからね。
警察が来て、僕らが最初に会いました」
歩夢は平然としている。見かけよりも芯がしっかりしている子らしい。
「それで?」
「亡くなった人、このホテルの電話番号を書いた山田さんの名刺、持っていたそうです」
「そう……みたいね」
「警察は、何も知らずにツキヨダケを採って食べた中毒か、山田さんに食べさせられたのか、判断を迷っているようでしたが……
僕ら、昨夜は山田さんとダイニングでも一緒でしたし、バ―でも十二時過ぎまで一緒でしたから、そう証言しておきました」
昌義はホ―っと胸をなでおろす。
「ありがとう、助かります」
「推理作家なら、これをどう推理するかな?」
碧子が「どう、思う?」と歩夢に訊く。

「さあ、僕は作家じゃないから判らないけど、何もしないのか一番じゃないかな。
ほら、ヤブヘビっていうでしょ?」
その言葉に、皆ハッとする。
「そうだな、そうしよう。僕らは何も悪いことはしていない」
坂田がそう呟く。
「とりあえず、史記に内容だけは連絡しておくわ。
あの人のことだから何か気付いたかもしれない」
碧子は歩き出そうとする。
「でも、史記さんは、昨日は部屋に籠もりきりだったじゃないですか?」
そう言った途端、全員の視線を受けて、昌義はたじたじとなる。
「だって、食事の時間にはいなかったから……」
碧子は微笑んで、昌義に言った。
「最初から説明してくるわ」
碧子の後を、歩夢も着いていく。

残った四人は、ロビーに戻りコーヒーを飲むことにした。
坂田が注文に立った。
陽子が「大変なことになったわね」
そう言いながらも、この女性はあまり動じていないように見える。
女のほうが、度胸が据わって居るのかもしれないと昌義は思う。
それに比べて、丹波はかなりショックを受けているようだ。

「まさか、僕が採ったツキヨダケでは……」
「まさか」
陽子が笑い飛ばす。
「そうですよ。仮にそうだとしても、丹波さんのせいじゃ有りません」
昌義もつい余計なことを言ってしまう。

昌義は亜里沙にあったこと、亜里沙と鈴木に殺されそうになったことを話そうかと思ったが、そうすると、杉崎のことを話さざるを得ないと思い、辞めた。
コーヒーを飲み終えると、みな着替えのために部屋にもどることになった。
昌義も部屋に帰り、タキシードに着替えて、タバコを取り出し、ベランダに向かう。

満月は明るく、辺りは薄墨色に染まっている。

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November 23, 2004

満月伝説 #5 幽霊

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「山田さん」
呆然と立っていた昌義は、その声に飛び上がった。
三人が立っていた。
歩夢が心配そうに声を掛けてくる。
「どうしたんですか?」

「あ、いや、今、ここに子供がいたんだが……」
夢だったのかと昌義は思う。
あれは昌義の出た小学校のジャ―ジ―だった。
真冬でも、ずっと、杉崎は短パンで通していた。この北の国の寒い秋に、あの頃のことを思い出したのだろう。

――それにしても、白昼夢を見るとは、俺も終わりだ。

「もう、行きませんか? 玉川温泉まで、もう少しですよ」
祐一がそう言い、先に歩いていく。
歩夢とももこが続き、昌義も振り返りつつ、車に戻った。

それから、小一時間、車で走った。
もうひとつの新しいダムの側を走り、山道を走ると、やがて、焼けたように削り取られた赤い山肌が見え始めた。
煙がもうもうと上がっている。
玉川温泉だ。

硫黄の強い臭いがする。
車を上の駐車場で止めて、谷底のようなところに下りると、もう、そこは地面が熱く、ところどころに湯が吹き出ていた。
「凄い、こんなところから湯が沸いているよ」
歩夢が驚きの声を上げる。
「周りが黄色いのは硫黄分だな」
「硫黄の臭いって、何だか腐った卵みたいな匂いじゃない?」
後の二人は醒めた表情でそんなことを言っている。

歩夢は少しでも足場の悪いところでは、ももこに手を差し伸べる。
ももこはそれを自然に受けている。
昌義は歩夢を見て、小学生の頃の同級生、男女を問わず人気のあった少年を思い出した。
彼は多くの女の子の初恋の人になった素直で優しい可愛い顔立ちの少年で、今は福祉関係の仕事をしていると聞いた。
祐一は個性の強い優等生タイプ、結構、運動神経も良いように見える。
少し近づきがたいほど整った顔立ちは誰かに似ているような気がしたが、その誰かを思い出せず、昌義は胸に何か痞えているような気分になった。
ももこには、何ともいえない違和感を感じた。
可愛い女の子なのに、およそ色気と言うものが無い。
そんなまるっきり個性の違う三人が、阿吽の呼吸で、相手の言いたい事やしたい事を理解しているように見えるのは不思議だった。

温泉施設には入らずに遊歩道を歩くことにした。
遊歩道の側を熱湯の川が流れている。
「玉川毒水だ」
祐一がその川を指差す。
「この水が川に流れていた頃は、川水は毒水で、生き物が棲めなかったそうだ。
この川の水が流れ込んでいたから、田沢湖には魚がいなくなったというよ」

どこから、仕入れた知識か知らないが、祐一がそんなことを言う。
昌義はその強烈な匂いに、あのホ―ムペ―ジの文章を思い出していた。
強烈な酸性の温泉の成分、それが空気まで酸性にしている。
だから、金属はすぐに錆びる。テレビや冷蔵庫さえ、置けない温泉。

「なんだか、毒をもって毒を制すと言う言葉が実感できる匂いね」
病人が聞いたら、怒りそうなことをももこは言っている。
「ももこさん、僕ら、待っているから、入ってきたら?」
祐一が、信じられないほど優しい声で言った。
「そうだよ、入ってきたら。
僕ら、この辺で、ぶらぶらしているから。いいでしょ? 山田さん」
歩夢が昌義を見る。
いやだと言える立場でもないので、昌義は頷いた。

「いいわ。もう、帰りましょう。
少し、疲れたし、ここでは、昼食を取るのは無理だわ」
「そうだな、食事を出来るようなところも無いし、帰ろう」
昌義も異存は無かった。

急な坂道を登る。
硫黄の匂いの上に坂道が急なので、眩暈がして、昌義は途中何度か立ち止まったが、少年たちはいたって健康なようで軽い足取りだった。
だが、ももこは息が苦しそうだ。
「大丈夫ですか? ももこさん」
昌義が声を掛けると、ももこは青白い顔で笑う。
そのやり取りで、少年達は気がついたらしい。
歩夢が「おんぶしたげようか?」などと言い出したが、ももこは首を振る。
漸く駐車場に戻ったところで、昌義はももこに声を掛ける。
「運転、代わろうか?」
「お願いできますかあ?」
ももこはほっとしたような顔をした。
あどけない顔がさらに子供に見える。

昌義が運転し、史記は助手席に座った。
運転して見ると、ジャガーは見た目よりは運転しやすい車だった。
「いい車ですね」
快適なエンジン音は気分を高揚させる。
「ええ、結構、気に入っているんですよ」
そう言いながらも、助手席に座ったももこはまだ顔色が悪かった。
「どこか、具合が悪いんですか? ももこさん」
「え、どうして?」
「いや、少し、顔色が悪いから……」
そういった途端、後部座席の歩夢が、持ってきていたポットを取り出しカップに中身を注ぐと、ももこに差し出した。
車内に良い香りが広がる。
ほんのり暖まるような匂いだ。
「少し車を止めて、山田さんも如何ですか?」
祐一の言葉に従って、昌義は新しいダムに掛かった橋の上で車を止めた。

このダム湖は行きに車を止めたダム湖よりも急峻な山に囲まれていて、幅が狭い。
向うのダムが湖のような佇まいなら、こちらは山の中の大きな川のように見えた。
五百mほどの長さの橋の先の道は行き止まりになっている。
ダムを囲む山々は紅葉が素晴らしく、風に葉が裏返るのか、きらきら光っている。
 
歩夢に貰った飲み物を持って車外に出ると、吹きぬける風は身を縮めるほど冷たかった。
だが、それが心地良かった。
祐一も飲み物を持って車から降りて来る。
昌義の隣に並ぶと、身を乗り出して、欄干から湖水を覗く。

昌義が、この風の中でもしっかり香る紅茶の匂いをくんと嗅いで、首を傾げると、
「ア―ルグレイですよ」
「え?」
「その紅茶」
祐一が昌義を見ていた。
子供っぽいことをしているのを見られたのを恥じ、昌義は必要以上に褒めてしまった。
「ああ、なんだか、いい匂いだね。それに美味しい」
「温まりますよね」
「ああ」
昌義はカップを橋の手すりにおいて、タバコに火をつける。
祐一は風に飛ばされないように、そのカップを支えた。

「この下に、昔、玉川という集落があったそうですよ」
「今は、水の底か……住んでいた人たちはどこに行ったんだろう?」
「生保内という田沢湖駅のあるところに移ったそうです」
「オボナイ?」
「アイヌの言葉らしいですよ。生きる、保つ、内、と書いてオボナイ、深い川という意味だそうです」
「このあたりは、お諸仏さんといい、アイヌ名のついた場所といい、古くからの由緒のある土地なんだな」
 ――こんな山の中に、何故、皆住もうと考えたんだろう?
「こんな所にねえ……恐ろしく不便そうだ」
その疑問を口にすると、祐一はニコリともせずに即座に答えた。
「なんといっても、東北地方は三内丸山遺跡のある場所ですからね。
縄文人が居た場所ですから……
その時代は歩いていける範囲が生活圏で、そこにすべてが揃っていれば、どこに行く必要も無かったんでしょう。
この山を見てください。
豊かな恵みをもたらしたに違いない。
ここにいれば山や川が生活に必要なものを与えてくれたんですよ」
祐一は頭の良い子らしくそんな知識をひけらかす。
そして、じっと昌義を見ると、訊いた。
「さっき、男の子がいたって、言ってましたよね?」
「ああ、思い違いだった。あんなところにいるわけがない」

昌義は苦笑いする。
車に戻ったときに、辺りを見回したが、その駐車場には彼らの車しかなかった。
その下の駐車場にも、道路にも、止まっている車は無かった。
それに、杉崎の少年時代とそっくりの少年がこんなところに居るはずが無い。

「それより、彼女、どこか悪いのかい?」
ももこの様子が心配になり、訊ねると
「ええ、去年、ちょっと怪我をしましてね。寒くなると痛むようなんです。
冷えや、疲れすぎは禁物なんですよ」
祐一は車を見やりながら言う。
その口調は優しさに満ちている。
「君たち、ずいぶん、彼女のこと大切にしているんだね」
昌義はからかい口調に言ったのだが、
「彼女は僕らの大事な人なんですよ」
祐一はなんの衒いも無く答える。

「へ―、年上の恋人なのか、恋愛関係には見えないけど……」
昌義の言葉に祐一は照れくさそうに笑うと、
「そんなんじゃないですよ。少なくとも、僕はね」
そして真面目な顔になり、言った。
「彼女は、居なきゃいけないんですよ。僕らのためにも、この国のためにも」
「この国のためって、大げさだな。
そういえば、クリエ―タ―って、どんな仕事なの?」
あんな小娘が日本に何かを与えられる存在とは到底思えなかった。
「木を植えているんですよ」
――木を植えるって、植林?
昌義が聞き返そうとするのを遮るように昌義に紙コップを渡すと、祐一はさっさと車に戻った。
歩夢が窓から顔を出し、声を掛ける。
「そろそろ行きましょうか?」

最後の一服をしてタバコを消し、紅茶を飲み干し、昌義も車に戻った。
ももこは大分顔色が良くなっていた。
「ごめんなさい。ご心配かけて……少し、冷えてしまったみたい」
「それじゃ、とっとと、ホテルに帰りましょうか?」

「田沢湖に行きませんか?」
歩夢が言い出す。
「今、ももこさんと話していたんだけど、田沢湖に寄って帰りましょう。
昼ごはんもまだだし……」
「ああ、いいけど、うちの奥さんはどうしているかな?」
「ああ、そうですね。この次の集落に着けば、きっと携帯が使えますよ」

ダム湖を抜けて小さな集落についてすぐに、車を止めて、昌義は美奈子に電話した。
何回か呼び出すと、美奈子が出た。
かなり雑音がひどい。

「あら、あなた、さっきから何回も電話していたのよ」
それが本当なら、普段はこんな穏やかな声ではないが、今日は余所行きの声を出している。
どうせ、岡夫人が傍に居るのだろう。
「あなた、私、岡さんにご招待いただいて、今、東京に向かっているの。今日は帰れないわ」
「帰れないって、お前……」
「あなたのタキシードは、岡さんの運転手さんが持っていってくださったから、心配しないで」
「なんだよ、それ」
「私は岡さんと丹波さんとご一緒に、今、東北新幹線の中なの。また、連絡するわね」
自分の言いたいことだけ言って、美奈子は電話を切る。

「奥さん、どうなさったの?」
「いや、あいつ、岡夫人たちと東京に行くって、今、新幹線の中だそうだ」
「あら、それは、それは……」
ももこが呆れたように言うのに対して、歩夢は
「置いていかれたんですか? 寂しいですね」
慰めるように言う。
この少年には悪意というものがまるで感じられない。馬鹿かと思えるほどだ。
「ま、いいけどね」
と言いながら、昌義は、内心、ほっとしていた。
お諸仏のことを夜までに話さなければ不味いかもしれないと思っていたのだが、話さずに済んで幸いだった。
「岡夫人ともなると、お諸仏さんのご利益なんか要らないんだな」
昌義のつぶやきに祐一がませた口調で言う。
「人の幸不幸は、他人には見えないものですよ」

「とりあえず、田沢湖に行きましょう。お腹空いたわ」
ももこの言葉で、皆、空腹を思い出した。
高原には戻らず、田沢湖に向かう。
 
田沢湖にはその道から小さな山を登っていく。
坂道を登りきると目の前に湖があった。
小さな湖だ。
周りにはホテルや土産物屋がごちゃごちゃと並んでいる。
田沢湖は直径約六km、周囲二〇㎞、面積二五.五平方㎞の六角形に近い円形の小さな湖だ。
だが、その深さは最深四二三mと日本一、世界でも十七番目の深さを誇る。
まるで、お風呂の湯を汲む桶のような形をしていることになる。

噴火の後に水が溜まったカルデラ湖と思われているが、実態はわかっていない。
湖面の標高が二四九mなので、湖底は海面下、一七四mに達することになる。
透明度は大きく、水色と藍色の美しい湖だ。
今日は風が強く、白い波が立っている。

湖畔のレストランに入る。
デパ―トの食堂のように、なんでもありのメニュ―の中から、四人は、辰子定食というものを頼んだ。
刺身が付いているので心配だったが、結構新鮮で煮物も美味しかった。
昌義が不思議だったのは、彼らが食事をしながら、なにか物足りなさそうにしていることだった。
そして、食事のスピ―ドがかなり速いのに驚いた。
なにかに追われているように食べている。

彼らは、食後の飲み物が出て、ようやく落ち着いたようだった。
昌義はタバコが吸いたくて、「ちょっと、出てくるよ」と断って、外に出た。

ぶらぶらと、目の前の砂浜に向かって歩く。
観光シ―ズンが終わったからか、寒いからか、砂浜には人影が無かった。
小さな湖の水は風が強いせいで、ゼリ―のように震え、波立っている。
細かな砂を踏みながら水辺まで歩く。
海辺で育った昌義には砂浜は見慣れたものだが、三河湾の広がりに比べて、この湖は手を伸ばせば、対岸に手が届きそうで面白かった。

子供の頃、昌義が杉崎と遊んだ海岸は、埋め立てられてもう無い。
国立公園の中にある市は、山を開発できず、海へ海へと市街地を延ばしている。

振り返ると、駒ヶ岳が、青空にくっきりと聳えている。
頂上には白いものが見える。その山に続く稜線がなだらかな線を描いている。
――今頃、彼らはどうしているのだろう?

「この水、凄く冷たい……」
角館に行くと言っていた碧子たちのことを考えながら、タバコに火をつけてほっとした瞬間、後ろから声が聞こえた。
思い振り返ると、中学生くらいの少年が波打ち際に裸足で立って昌義を見ていた。

「昌義は、泳ぎ下手だもんな。こんなところで泳いだら、溺れちゃうな」
綿のチェックのシャツ、紺色の長袖セ―タ―を首にかけて袖を結んでいる。
ジーンズの裾を打ち寄せる波が濡らしている。
杉崎だった。

海の側で生まれ育ったというのに、昌義は泳ぎが苦手で、杉崎はいつもそれをからかっていた。

「竹島で、いつか、お前、溺れただろう? 
あの時は焦ったよな。あんなところで溺れるとは思わなかったもん」

そう言うと、少年は二十m位沖にある飛び込み台を指差す。
「あそこでも、かなり深いんだって。
それに、田沢湖は湧き水だから冷たい水の塊があって、心臓麻痺で死んだ人が結構居るんだよ」
「杉崎……」
「まったく、お前って、泳ぎだけじゃなく、危なっかしいな」
そういって笑う顔は、確かに中学時代の杉崎だった。

「杉崎……」
そういって、少年に手を伸ばそうとした昌義は、
「山田さん」
突然、後ろから呼ばれて、振り返った。

歩夢と祐一が立っている。
「どうしたんですか?顔色、悪いですよ」
歩夢が心配そうに言う。
「今、ここに……」
振り返ると、そこにはただ、波が打ち寄せているだけだった。
杉崎の姿は消えていた。

「ももこが、疲れちゃっているみたいだから、帰ろうと思うんですけど……」
「わかった。今、行くよ」
祐一と歩夢は砂浜を先に戻っていく。
その後を追いながら、昌義はこの意味を考えている。

――誰かのいたずらだろうか……だが、何のために?

竹島で溺れたことは、昌義と杉崎の秘密だった。
昌義が恥ずかしいから言わないでくれと、助けてくれた杉崎に頼んで、杉崎はそれを律儀に守っていた。

――何よりも、あのいたずらっぽい目、あれは紛れもなく中学時代の杉崎だ。


高原のホテルに帰りついたのは、三時近かった。
車を運転しながら昌義は、ずっと、杉崎のことを考えていた。
ももこはかなり調子が良くないようで、歩夢と祐一はその心配をしていて、昌義には興味が無いようだった。
まっすぐ部屋に戻るという彼らとロビーで別れて、テラスに出ると、碧子と坂田がガーデンチェアに座り、ビ―ルを飲んでいた。

「お子様方とのお出かけは如何でした?」
碧子が笑いかける。
「楽しかったですよ」
「玉川温泉に行ったんですか?」
坂田が訊く。
「ええ、ついでに鳩峰神社とお諸仏さんと田沢湖です」
「ほう、それは盛り沢山ですな」
「疲れたでしょう?」

確かに昌義は疲れていた。
碧子の隣の椅子のどさっと座り、タバコに火を点ける。
「角館は如何でしたか?」
「スッゴク良かったわ。いっぱい買い物してきちゃった。
天気も良くて……明日も晴れそうね」
碧子は嬉しそうに言う。
「雨だと、お諸仏さん、来ないんですかね」
「そんなことは無いが、やはり、満月の中で迎えるのが一番だ。感動的だよ。」
坂田は何かを思い浮かべるように、虚空を見つめる。
「もう、願い事は決まっているの?」
碧子は興味津々と言った様子で昌義に尋ねる。
「まあ……」
煙を吐き出しながら、曖昧に昌義は答える。

――お諸仏さんなんて荒唐無稽の話、本当に信じて良いんだろうか……
でも、杉崎が、どうして……死んだ人間が現れるんだ?

「ところで、奥さんは?」
坂田が辺りを見回す。
「ああ、岡夫人や丹波夫人と東京に行きました」
「まあ」碧子が目を見張る。
「それじゃ、今晩は帰らない?」
坂田の問いに、「そうみたいですよ」と答えると、
「まあ、それは、それは……」
碧子は呆れる。

「夫婦って、面白いわね」
「碧子さん、ご結婚、まだですか?」
昌義は、これはセクハラと思われるだろうかとヒヤヒヤしながら、訊いて見る。
「ええ」
「やはり、そうですか」
「あら、どうして、やはり、独身だと?」
「やはり」を強調して、碧子はキッと昌義を睨む。

「いや、やはりって、その……」
慌てて弁解しながら、昌義は言い出したことを後悔した。
「昨日、税金を一億払われたと聞いて、そんなに仕事しながら主婦業も、では大変だろうなと思って……」
「ああ、そう言う事……確かにね、私の手は主婦業まで回らないのが現状ね」
碧子は納得したように頷き、右手の中指の救急バンドを取った。
「これ見て」

中指には大きなペンダコがあり、それが割れている。
「痛そうですね」
昌義はそのペンダコの大きさと、傷口の深さに顔を顰める。
「こりゃ酷い、これは痛いでしょう?」
覗き込んだ坂田も、思わず声を上げる。

「痛いわよ。とっても」
碧子は小さなバッグから新しい救急バンドを取り出し、昌義に渡す。
昌義も何気なくそのバンドを受け取り、指に貼り付けながら訊く。
「こんなになるまで書くんですか?」
「これだけじゃないわ。腕だって、これ以上、上がらない」
そう言うと、肩の辺りまで腕を上げる。
「腱鞘炎、慢性になっちゃって……」
「自分の身体を痛めて、漫画を描いているんですね」
「この指先がこんなでなければ、もっと描けるんだけど、人間の皮膚って柔なもんだから、ペンに勝てないのよ」
「そんなに酷使されて、その言われ方では指が怒りますよ」
坂田が笑う。
「書きたいことは一杯あるから、寿命が足りるかどうか、心配」
 そう言うと、碧子は愛しそうに指先を擦る。
「漫画家って、身を削る職業なんですね」
昌義は感嘆し、「それにしても、同じ女性でうちのと碧子さんじゃ偉い違いだな」
思わず愚痴を言ってしまった。
「うちのは、自分が守られて、安泰なのは当然と思っているみたいで……見栄と意地の張り合いをして、周りを振り回す。どうしようもない奴で……」

坂田がその場を取り成すように口を挟んだ。
「まあ、良いじゃないですか。自分の稼ぎで妻子を養うっての男の甲斐性ですよ。
僕も奥さんには専業主婦で居て欲しかったな。
僕が結婚した人はとても元気な人で、うちに閉じ込めて置けなかったから、離婚してしまったけどね」
「まあ、坂田さんってバツイチ……」
碧子が目を丸くする。

「ええ、元奥さんは経済産業省のキャリアだったんですよ。
僕は結構、わがままだから、奥さんには家に居て欲しかったんです。
帰ったら、部屋が片付いていて、お風呂が沸いていて、食事が出来ていて、子供がそこらで遊んでいる……」
「ああ、そんな人、私も欲しいわ」
切実そうな声を碧子は出すが、直ぐに我に返ったようだ。坂田を睨む。
「でも、キャリアにそれを求めるのは無理じゃない? そんなの国の損失だよ」

「何のお話?」
陽子が、ダイニングからコーヒーカップを手にやってきた。
「坂田先生の理想の家庭の話」
碧子の返事に、陽子は眉を上げる。
「どんな?」
「綺麗に片付いた家に帰ると、お風呂が沸いていて食事ができていて、可愛い子供がそこいら辺で遊んでいるんだって」
「子供は居ないけれど、そんな生活、私、していますわ」
立ったまま、陽子が馬鹿にしたような目で坂田を見下す。
「家政婦さんがやってくださいますの」

坂田は苦笑して昌義を見る。
「僕の周りの女性は、皆さん、陽子さんや碧子さんのように頑張りやさんでね。男以上の頭脳と知恵を持って世に出ている。
だから、僕はいつまで経っても再婚できない」

陽子はカップをテーブルに置くと、坂田の隣のソファに深く腰掛け、足を組み、タバコに火を点ける。
昌義はその長く美しい足に釘付けになってしまった。
「結婚なんて、しなくて結構。
結婚すると、どんな優秀で自立した男でも、女でも、相手に甘えて堕落していく。
一人で立っていた人間が、結婚した途端、凭れあって、相手に要求ばかりするようになるんです」

坂田は力なく笑う。
「はは、相変わらず、君は結婚に手厳しいね」
「出来ない人間のやっかみだと思っていらっしゃるんでしょ?」
コーヒーを口に運びながら、陽子が突き放した口調で言う。
碧子も「そうそう」と相槌を打つ。

「君たちのように何もかも備えた女性が、嫉むような相手が居るとは思えないが……」
「ま、お上手ですこと」
彼らの会話を聞くともなしに聞きながら、昌義は亜里沙を思い出していた。

――亜里沙は今頃どうしているのだろう? 
あの夜以来、会わないまま、ここに来てしまった。
亜里沙なら、良き妻、良き母になるに違いない。
家に帰るのが楽しみな、楽しい家庭を作ってくれるだろう。
子供だって夢じゃない。
父親になれる。そうだ、帰ったら、美奈子と別れよう。
信用金庫を辞めて、違う土地に行って亜里沙と結婚しよう。

昌義は使い込みの件には目を瞑り、一瞬、楽しい夢を見る。
突然、携帯のベルが鳴った。
ポケットから取り出し、表示を見ると、亜里沙を示すAの字が出ている。
――ここにきていることは知っているはずなのに、どうしたのだろう?

「はい」
「亜里沙です」
「ああ」
「今、話していて大丈夫?」
「ああ、良いよ」
思わず声が和らいだ。
それを聞きつけて、碧子と陽子が意味ありげに囁き交わし、笑っている。
「奥さんは?」
「東京に行った」
「まあ、あなたは?」
「ホテルに居るよ」
「そうなの。私、どうしても会いたくて、田沢湖に居るの。
会いに来てくださる?」
「今から?」
切なげな声が言う。
「ほんのちょっとの間でもいいの。ね、来て」
その言葉に抗うことは出来なかった。
電話を切って、立ち上がろうとすると、碧子と陽子がニヤニヤして声を掛ける。
「あら、奥様がお出かけした途端に、彼女と待ち合わせですか?」
「山田さん、なかなかやりますね」
碧子と陽子に冷かされながら、フロントに行き、タクシーを頼む。

フロント係は「そういえば、奥様からということで、これをお預かりしていました」と奥から箱を持ってきた。
運転手に頼んだタキシードのようだ。
部屋に持って上がり、箱を開くと、やはり、タキシードだった。
クロ―ゼットにタキシードを掛け、ロビーに降りると、もう、タクシーが来ていた。

見慣れた坂道を下る車の中で、昌義は亜里沙の白い横顔を思い浮かべ、幸せな気分になった。

亜里沙は御座の石神社で待っているといっていた。
御座の石神社には、さっき、昌義たちが通った道からさらに湖を回って対岸にいく。
砂浜のあった場所から二十分も走ると、岩場になり、赤い鳥居が見えてきた。
タクシーの運転手に待っているようにと頼んで、降りて亜里沙を探す。
鬱蒼と繁った杉林の中に神社がある。
真っ赤な鳥居は神社と道を挟んだ反対側、湖のほうにあった。
ここにもやはり、観光客はちらほらとしか居ない。

鳥居の向こう、湖に突き出た大きな岩の上に見慣れない皮ジャンと皮のパンツ姿の亜里沙の、すらりと背の高い華奢な身体が見えた。
いつも女らしいピンクや柔らかい素材の服を着ている亜里沙にしては珍しい格好だ。
今まで皮パンツ姿など見たことが無いので、別人かと思うほどだった。
だが、スタイルの良さは隠しようが無いし、サングラスを掛けていても、形の良い唇が目立っている。。
亜里沙が歩くと、すれ違う数少ない観光客が振り返る。
黒の革ジャンは、亜里沙の整った日本人形のような顔と、細い身体を引き立てている。
亜里沙は目の前まで近づいて、サングラスを取った。
その笑顔に昌義は見惚れる。

「ご免なさいね。わがまま言って……」
そう言うと上目遣いに昌義を見る亜里沙は、砂糖菓子のように甘く、美しいと昌義は思う。
絶世の美女だったという辰子姫がいたら、きっと、こんな姿だろう。
そんな女性と親しげに話すことに優越感を覚えながら、「いや、良いんだ。俺も会いたかったよ」と肩に手を回す。
亜里沙もごく自然に、昌義にしな垂れかかる。

「奥さん、どうなさったの?」
「ああ、あのホテルで知り合った奥さんたちと東京に行った。
今日は帰って来ないとさ」
「せっかくの旅行なのに、旦那様を置いて行っちゃうなんて、亜里沙、信じられない」
亜里沙は眉根を寄せて美奈子を非難する。
その姿がまた可愛くて、また、昌義は幸せな気分になった。
「あいつはそういう人なんだよ。亜里沙とは違う」
「そういうものかしら。私なら貴方を一分でも一人にはしないわ」

それから二人は、神社の石段を登り、おみくじを引いた。
昌義は吉だった。
「おい、吉だってさ。
 待ち人、遅いが来たる。家内運、波乱が起こる、注意。
 金運悪し。病、健康なり、安心せよ。
 人の姿に騙される。人は自分の鏡なり……なんじゃこりゃだな」
亜里沙を振り返ると、亜里沙はおみくじを見つめて、肩を震わせている。
「どうした?」

「大凶、ですって」
亜里沙は昌義を見て、ようやく言った。
「大凶? 珍しいな。大凶なんて……」
「失礼しちゃうわ、なによ、この神社」
その言い方は、いつもの亜里沙に似合わない蓮っ葉な言い方だった。
昌義の怪訝そうな表情に気づいたのか、亜里沙は慌てて、
「大凶なんて、初めてなの。折角、あなたと一緒に居るのに、つまんない」
と誤魔化す。
「たかが、おみくじだよ。気にするんじゃない」
「そうね」

近くの木の枝におみくじを結びつける。
社務所の近くにある木という木に、おみくじが結びつけてあり、彼らのおみくじもその群れに紛れた。
「私、この先にあるホテルに泊まっているの。奥様がいないのなら、こっちに来れば良いのに」
「今晩は、ちょっと……ホテルを空けるわけには行かないんだ」
昌義は断腸の思いで断った。
亜里沙は寂しそうな顔をする。
だが、明日の満月に備えてお諸仏さんのことを、もう少し、聞いておかなければならない。

「レンタカ―を借りているから、少しドライブしましょうよ。
それから送るわ。それなら、少しでも長く一緒にいられるでしょ?」
「ああ、それなら、いいよ」
「ねえ、さっき私が居たところで写真撮りましょうよ。
折角の記念ですもの」
「あの岩の上でか?」
「すごい断崖になっているんですって。
覗いてみたけど、結構深そうで、面白かったわ」
「ふうん」
「アー、わかった」
「何?」
「怖いんでしょ?」
「そんなこと無いよ」
「道路の側の駐車スペ―スに車を置いてあるの。
戻りがてら、もう一度鳥居の向こうの岩で写真を撮りたいわ」
「わかったよ」
亜里沙のおねだりに負け、鳥居のところに戻ることにした。

「ねえ、私、ちょっと」
もう、一年近い付き合いだというのに、亜里沙はトイレに行くときに「ちょっと」という。
そんなところも可愛いと昌義は思う。

「あなた、さっきの鳥居のところで待っていてくださる?」
そう言って、亜里沙は持っていたカメラを差し出す。
亜里沙が社務所に入るのを見て、昌義は階段を下りかけた。
つい、頬が緩んでいるのを自分でも感じる。

カメラの操作方法を確認しながら降りていた昌義は、階段半ばで、ぐっと、腕を掴まれて引っ張られた。
二十代くらいの体格の良い男性が昌義の腕を掴んで、階段の横の大きな秋田杉の根元のほうに引っ張る。
「昌義、行っちゃ駄目だ」
「お前は……?」
逞しい腕の、日に焼けた青年だ。
それは、確かに、大学時代の杉崎だった。
ボ―ト部に所属していた杉崎はいつもに日に焼けて、筋肉モリモリだった。
そのままの杉崎が、今、目の前にいた。

「ちょっと、こっちに」
杉崎に引っ張られて、直径二m近い杉の大木の裏に隠れる。
「なにを……?」
「シッ!」
杉崎は口に指を当てて、黙るように指示する。
そのままの状態で、五分も経つと、階段を上ってくる人影が見えた。
若い男だ。
少し長めのヘアースタイル、細身のサングラスをかけている。
ジーンズにTシャツ、革ジャンを身につけている。
彼は昌義たちの隠れている杉の木の手前で立ち止まり、あたりを見回している。
その時、軽い足音がして、亜里沙が上から下りてきた。
不審な男と鉢合わせするのを心配して、昌義が木の陰から出ようとするのを、杉崎は物凄い力で抑える。

「何しているのよ」
亜里沙が男に近寄ると、厳しい声で言った。
どうやら、二人は知り合いらしい。
思いがけない展開に昌義は耳を澄ます。

「いつまでたっても、あいつが来ないから探しに来たんだ」
「すれ違っちゃったんじゃない。さっき、下りて行ったわ」
「だが、鳥居の影で待っていたけど、来なかったんだ」
「ちゃんと、見ていたの。よそ見してたんじゃない?」
「そんなこと無い」
「使えない人ね。いいわ、私が探すから、あなたは鳥居の影に居て。
連れて行くから、うまくやるのよ」
「わかった」
男は階段を下りていき、亜里沙は階段を上り、神社のほうに向かった。

「御座の石神社の鳥居の岩がある岸は、山で言えば絶壁になっていてさ、水深四百m近いらしい。
落ちたら、お前みたいにろくに泳げないやつは、そのまま、ずぼずぼと沈んじゃうだろうな。
ま、溺れる前に心臓麻痺ということも考えられるな。
なんと言っても、この季節のこの冷たい水だからな」

耳元に聞こえる杉崎の囁きは、悪魔の声のようだった。
「亜里沙が、俺を殺そうとしているというのか?」
声が震えているのが自分でもわかった。

「あの男、見覚えないか?」
「いや……」
と答えてから、あの細身の姿に、なんとなく引っかかった。
「亜里沙の店のバ―テンだ」
杉崎が囁く。

いつも、お仕着せのチョッキと蝶ネクタイの姿しか見ていなかったし、亜里沙に夢中でほかのものには気を使っていなかったので、昌義は彼の存在など気にもしていなかった。

「大学時代にバ―テンのアルバイトを始めて、そのままずるずると本業になって、今は大学を辞めて女に食べさせて貰っている、寄生虫のような男さ」
「その男が、どうして……?」
「寄生虫は宿主と一緒に居るものさ」

昌義はその言葉に衝撃を受け、杉崎を見つめる。
一瞬、杉崎と目が会った。
懐かしい優しい目だ。

あの男が亜里沙の愛人と知っているくらいだから、杉崎は亜里沙と昌義の関係も知っているに違いない。
それにしてはその目は穏やかだった。
正義感の強い以前の杉崎なら、こんな時、出て行って亜里沙を糾弾したに違いないのに、と昌義は不思議な気がした。

――この男は杉崎ではないのか……?

「お前、このまま、帰ったほうがいい。
あそこに、お前を乗せてきたタクシーが止まっている。
こちらから下りて、あのタクシーに乗って帰れ」
杉崎はそういうと、昌義の手をぐいぐい引っ張って、藪の中をタクシーの側まで連れて行く。
「早く、あいつがこっちを見つけたぞ」

鳥居のほうを見ると、男がこちらに向かって走っているのが見えた。
昌義はその近くにあった岩の上にカメラを置くと、あわててタクシーに乗り込んだ。
「ホテルへ戻ってくれ」

タクシーが階段の下を通りかかったとき、亜里沙が階段の途中でこちらを見ているのに気が付いた。
亜里沙は、何の感情もない冷たい眼差しで、通り過ぎるタクシーを見下ろしていた。
昌義が一度も見たことの無い女の本性がそこには現れていた。

神社が見る見る遠ざかり、ほっとして、隣を見たとき、自分が一人でタクシーに乗っているのに気づいた。
杉崎はいなかった。
「運転手さん、僕と一緒にいた男はどうした?」
運転手はミラ―越しに
「お客さん、からかわないでくださいよ。お客さん、一人だったっしょ」
「そう、だったかな」
「ああ、あの、エンジンを掛けて待っているようにと言いに来た人だすか?」
「え?」
「あのお客さん、急いでいるからすぐに動けるようにして待っててくれって、言いに来た人。
あの人はお友達だすか?」
「ああ」
杉崎だろうと思った。
――この事態を予測していた?

「そりゃ、幽霊ならそれも可能だ」と、昌義は変なことを思って可笑しくなった。
「楽しそうすね、お客さん、良い事あったすか?」
つい、笑っていたらしい。
「ああ、すごく良いことがあったよ」
つい、三ヵ月前の亜里沙との会話を思い出していた。

夏の終わり、昌義と一緒に自分の部屋に帰った亜里沙は、服を着替え、昌義の好きなスコッチの水割りを作って差し出し、何か思い出したように、クロ―ゼットを探った。
A4サイズのファイルをクロ―ゼットの奥から出すと、その中に入っていた証書を昌義に見せる。

「友達が……ほら、あの、前、ウチに勤めていた彩ちゃん、彼女、今、保険の外交をしているの。
亜里沙もあなたを受取人にして入ったのよ」
はにかみながら亜里沙が見せた証書は一千万の額面で、確かに受取人は山田昌義になっていた。
自分を受取人に指名した気持ちが嬉しくて、昌義は涙が出そうになった。
感激で何も言えずに居ると、亜里沙は昌義の顔を覗き込む。
「気を悪くしたの?」
「いや、なんか、感動して……」
 
亜里沙は微笑みながら、昌義の右手を取り、両手で包み込む。
「私、貴方にこんなに良くして貰っても何も返せない。
せめて、私が死んだ時には、貴方に保険金くらい残さなきゃ、罰が当たるわ」
昌義はやっとのことで答えた。
「そんなこと無い。亜里沙が生きているだけで、俺は幸せなんだ。こんな保険、いらないよ」
亜里沙は首を傾げ、昌義の顔を覗き込む。
「でも、彩ちゃん、なかなかノルマが達成できないんですって、協力したかったの」
「亜里沙は、本当に優しいんだね」
「彼女、苦労しているのよ。あの若さで未婚の母でしょ?   
少しは力になりたくて」

彩と言うホステスは、確か二十歳くらいだったような気がした。
子連れとは思えない軽い感じの子だったが……

「あの子が未婚の母ねえ? 人は見かけに寄らないな」
「そうだ、ね、あなたも付き合ってやって下さらない?
彼女、また、今月、一件も取れていなくて、首になりそうなんですって」
昌義は思わず頷いていた。

次の日、早速、彩が勧誘にやってきた。
手回しが良いと思ったが、仕方なくサインした。
自分が受取人の証書を見せられた後では、亜里沙を受取人にせざるを得なかった。

「ほんとに、私が受取人でいいの? 奥様に悪いわ」
三千万の保険の証書を渡すと、それを胸に抱いて、亜里沙は尋ねる。
「大丈夫だよ。心配するな」
死ぬ時までには事態が変わっていると思っていた。

美奈子と離婚して、亜里沙とやり直す。
もしくは使い込みがばれて、会社を首になり、すべてが破綻する。
どっちでも良い様な気がしていた。
どうせなるようにしかならないのだ……
「ね、お願い、私がこんな保険を受け取らなくていいように、私よりも長生きしてね」
たしか、亜里沙はそんなことを言った。
その言葉が嬉しくて、高額の保険の支払いをどうするかという悩みを、一瞬、忘れていた。

「みんな、嘘か……」
波立つ湖面を車窓から眺めながら、昌義は自嘲する。
「運転手さん、男って馬鹿だね。甘い言葉や美しい容姿にころっと騙される」
運転手はバックミラ―越しに昌義を見る。
「おらも、いっぱい女子には騙されたども、まだ、女子のことは愛ごいとおもってら。
男は女子に騙されてなんぼだは」
運転手は方言丸出しの陽気な声で答えた。
それは運転手の優しさだろうと昌義は感謝した。
 
高原への長い坂道を登る途中で、麓は薄闇に包まれた。
だが、駒が岳は、夕日に照らされ、ピンク色に染まり、ますますくっきりと空に聳えている。
月は東の空に、丸いその姿を白い影となって現している。
碧子の言ったとおり、天気のよい月の夜になりそうだ。

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November 15, 2004

満月伝説 #4 お諸仏さん

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「あなた、あなた」
美奈子の声に、昌義は目を覚ました。美奈子は、流石にパックを取っている。
「ああ、どうした?」
「凄くうなされていたわよ。どうしたのよ?」
「ああ、ちょっと、夢を見て……」
「もう、あなたはうんうん唸っているし、何処かから、犬の泣き声はするし、誰かが怒鳴っているし、最悪だわ」
「犬?」
「こんな朝早くから、何してんだか」
「聞こえないぞ」

時計を見ると、まだ、朝の六時前だった。外はまだ暗い。
「さっきまで、凄かったのよ。きっと大きな犬だわ。野犬でもいるのかしら?」

酷く喉が乾いているのに気付き、昌義は起き上がり、次の間への襖を開ける。
備え付けの冷蔵庫からミネラルウォ―タ―のペットボトルを出し、ごくごく飲んだ。

サッシを開け、ベランダに出ると、朝霧が漂っていて、まるで雲の中にいるようだった。

――天気はどうだろう。満月が出なければどうなるのだろう?

杉崎の夢を久しぶりに見た。
夢の中の杉崎は、冷たい見下したような目で、昌義をあざ笑っているように思えた。
亜里沙に会いたかった。
亜里沙のあの良い香りの温かい身体を抱きしめたい。
美奈子の側に居ると現実が迫ってくる。自分が哀れな中年男であると自覚してしまう。
亜里沙といると、強くて立派な支店長さんの役割を演じることが出来る。
自分が若く美しい女に愛されている英雄のように思える。 
だが、そのために、もう、信用金庫の金に手を付けている。
来月の監査が、ごまかしの限度だろう。
二千万、今の昌義にどうにかなる金ではない。

――美奈子の生命保険の二千万が入れば……昨日まで、その思いから、抜け出せなかった。
だが、今は、お諸仏さんに気に入ってもらえば、なんとかなるかもしれないという希望が生まれた。

――とにかく、何とかしなければ……

タバコに火をつけ、下を見ると、あの三人組が散歩にでも行ってきたのか、真っ白なロングコートを着てホテルの前に佇んでいる。
――こんな、薄暗いうちに、どこに行ってきたのだろう?
大きな犬と小さな犬が彼らの足元でじゃれている。
美奈子が言っていたのはあの犬の吠え声かと目を凝らす。
――犬も連れて来られるのか?

覗きをしているような罪悪感で声を掛けるべきか迷っているうちに、彼らは犬を連れて、目の前の林の中に入っていく。
見ると、その彼らと入れ替わりに、丹波や、丹波夫人、岡夫人、あの大野とか言う男とその恋人、昌義が神楽坂史記かと思っている愛想の無い女、それに、坂田教授、陽子と華楠、このホテルの泊り客がぞろぞろと歩いてくる。
なぜか全員少年たちと同じ真っ白なロングコートを着ている。
霧のせいで彼らはゾンビのようにふわふわと歩いているように見えた。

最後に碧子が歩いてきた。
碧子は気配に気づいたのか、ふっと上を見上げた。
昌義と目が合うと、彼女はじっと見上げている。
感情の無い、見知らぬ人を見るような目で……
「おはようございます」
昌義は大きな声で挨拶した。
歩いていた全員が上を見上げる。
全員の視線を受けて昌義はたじろいだが、彼らは何も見なかったかのように視線を戻すと、黙って、ホテルに入っていく。
碧子も黙ったまま、ホテルに入った。

「何なんだ、こんな朝っぱらから……それに人が挨拶しているのに無視しやがって」
昌義も寝室に戻る。
美奈子は二度寝したらしく、布団に包まっている。
昌義ももう一度寝ることにした。
 

次に目が覚めた時、部屋には、明るい光が満ちていた。
美奈子はもう着替えている。

「いつまで寝ているの。もう、七時過ぎよ。さっさと起きて。今日は忙しいんだから」

昌義は髭を剃りながら、あの光景は何だったのだろうと思い返していた。二度寝したせいで、本当のことだったのかどうか、確信が持てない。 

――あんな朝霧の中で、ふわふわと歩いていた宿泊客たち、あれには何か意味があるのだろうか?
それが、お諸仏に関することなら、自分は出遅れてしまったのかもしれない。だったら、大変だ。

「あなた、このスーツで大丈夫かしら?」
美奈子は、昌義が見たこともない黄色のスーツを着ている。
「朝ごはんに、そんなおしゃれをしなくても……」
昌義のセーターとチノパンを横目で眺めて美奈子は、
「何言っているのよ。夕べの屈辱を忘れたの。侮れないわよ。このホテルの客は」
「まあ、そうかもしれんが……」
「さあ、行くわよ。早く食事をして、さっさと買い物に行かなきゃ」
美奈子に急かされて、一階のダイニングに行くために部屋を出た。
昌義たちの部屋は、エレベーターから左側二つ目だが、奥から、少年二人が歩いてきた。、
「おはようございます」
愛想の良い少年が挨拶する。
もう一人の背の高いほうも黙礼する。

――犬はどうしたのだろう? 外に繋いでいるのだろうか?

エレベーターを待っているうちに、坂田が奥の右側のドアから出てきた。
坂田は紺のフィッシャーマンズセーターを着てチノパンを穿いている。
昌義はなんとなくホッとした。

「おはようございます」
昌義が挨拶すると、坂田は機嫌よく答える。
「おはようございます」
そして、美奈子を見て、笑いかける。
「奥様ですか」
「ええ、美奈子、こちらは東都大の坂田教授だよ。夕べ、お知り合いになったんだ」
権威に弱い美奈子は、教授という言葉に、もう、思いっきりの愛想笑いをしている。
――判りやすい女だ。
「そうなんですの?
主人ったら、何も教えてくれないもので、ご挨拶が遅れまして申し訳ございません」
「いや、こちらこそ」
坂田はたじたじとなりながらも愛想良く答えた。

エレベーターを降りると、坂田は用事があるらしく、フロントに向かい、少年たちはテラスデッキに向かう。
ソファに、丹波夫妻と岡夫人が座っている。
岡夫人を見て、美奈子が息を呑むのが分かった。
岡夫人の美しさは、朝の光の中でも、褪せない。
淡いクリ―ム色の値の張りそうなスーツを着て、豊かな髪を波打たせている。
たしかに美奈子の言うとおり侮れない連中だ。

「おはようございます」
昌義が声を掛けると
「おはようございます。良い天気で何よりですな」
「おはようございます。爽やかな朝ですわね」
丹波も、岡夫人も、昌義の挨拶ににこやかに答えてくれる。
美奈子がその様子に驚いているのが分かって、昌義は少し誇らしい気持ちになった。

丹波は紺のフランネルのジャケットにジーンズというカジュアルなスタイルだ。
「ほら、結構、普通だろ?」
美奈子に耳打ちすると、美奈子は囁き返した。
「あれ全部、高級ブランドなのよ。判らないの?」
昌義には良くわからないが、どうもなんと言うことは無いように見えてかなりの高級品らしい。

その場に立ったまま、昌義は丹波に問いかけた。
「それにしても、皆さん、あんなに朝早くどちらにお出かけだったんですか?」
全員、顔を見合わせる。丹波が怪訝そうな声を出す。
「何のことですか? 僕たちは、今起きてここに来たばかりですよ」
「六時ごろ、外を歩いていませんでしたか?」
ほほほと上品な笑い声がした。
「夢をご覧になったのではございません?」
岡夫人が笑っている。つられて、丹波夫人も笑い始めた。
「そうだったんですかね」
昌義は二度寝したせいで、自信が無くなった。
「まったく、あなたったら」
美奈子が、恥ずかしそうに昌義のセーターの裾を引っ張る。

「奥様でいらっしゃいますの」
藤色のシンプルなワンピース(これにも美奈子の目が光ったところを見るとかなりのブランド品らしい)の丹波夫人の問いに、あわてて美奈子を紹介する。
「美奈子、こちらは、料理の超人の丹波さんと奥様だ。それから、岡夫人、あの、リ―ドの社長夫人だよ」
「まあ」
美奈子は憧れの料理の超人とリ―ドの社長夫人と聞き、とっさに声が出ない。
岡夫人がこの上なく優しい声でとどめを刺す。
「奥様、殿方は煙に飢えていらっしゃるようですから、私たちと、先にお食事に参りません?」
そして、立ち上がり、美しい大きな目でじっと昌義を見た。
身長が高くて、昌義と目線が同じ高さになっている。
「奥様をお借りしてもよろしいかしら」
もちろん、異存は無かった。
――いっそ、地球の裏側まで連れて行ってくれれば良いのに。

美奈子は夢見心地でふわふわと、岡夫人に導かれて奥のダイニングに向かう。
丹波は灰皿の置いてある席に座り直し、昌義もその席に向かい合って座った。
とりあえず、タバコに火を点ける。
ふっと、香水の香りが漂ったと思うと、昌義の隣に金沢陽子が座った。
相変わらず、仕立ての良い派手なオレンジ色のスーツを着ている。
「おはようございます。ご機嫌いかが?」
「ああ、おはようございます」
みると、陽子はもう、口にタバコを咥えている。
「ああ、よく寝たわ―。こんなに寝たの、久しぶり」
煙を吐き出しながら、陽子が言う。
丹波は陽子を見て笑っている。昌義はおずおずと言い出した。
「あの、今朝、どこかに行きませんでしたか?」
陽子は頚を振る。
「今朝って? 今さっき起きたばかりですのよ。山田様は、早く起きられたんですか?」
「彼、夢見たみたいなんだよ。さっきから、僕らにも、朝どこに行ったのかって……」
丹波が口を挟む。
「あら、そうなんですの。夢にまで見ていただけるなんて、光栄ですわ」
陽子はさすがの切り返しをする。

――やはり、夢なんだろうか?
それにしては、かなり鮮明に覚えているのだが。

「さあ、食事に取り掛かろう。今日は忙しい」
シガーを消して、丹波が立ち上がる。
「私も、今日は鶴の湯に行く予定なんですの。山田さん、お食事は?」
「ああ、もう一本、吸ってから」
「それでは、お先にね」
二人がダイニングに入るのを眺めながら、昌義はテラスに出た。

もう、霧はすっかり晴れて前の雑木林の紅葉が見える。
例の三人組が奥のテーブルで地図を見ていた。
「やあ」
昌義が手を上げると、三人は頭を下げる。
愛想のよい少年が話しかけてきた。
「食事、まだですか?」
「ああ、もう一本と思って」
「ヘビ―スモ―カ―なんですね」
「ああ、止められないんだ」
「今日はどこかに行かれるんですか?」
きりっとした無口なほうの少年が口を開いた。
それに少し驚きながら、昌義は今日の行動を考えると気が重くなる。
「午前中は、盛岡まで買い物に行こうかなと思っている。それから、玉川温泉に行くつもりなんだが……
レンタカ―を借りなくてはね」
「それなら、僕たちも昼から、お諸仏さんを見物した後、玉川ダムに行くつもりなんです。
ご一緒にいかがですか?」
「君たち、車で来ているの?」
――誰が運転するのだ?まさか・・・?
「ええ、彼女の運転ですけどね」

それは、少し怖いと思いながらも、同乗させて貰えるのなら頼もうかと思った。
いざとなれば、代わりに運転してもよい。
「そう、じゃあ、頼んでいいかな?」
「いいですよ。ね、ももこさん」
「いいわよ。私の運転でよければ……」
愛想の無い言い方で答える女性は、ももこというらしい。
「あ、彼女はももこさん。彼は祐一。僕は歩夢です」
美人と形容したほうがよさそうな少年は歩夢と言う名前だった。
「ああ、僕は山田。よろしく。君たちも、お諸仏さんに会いに来たのか?」
お諸仏の名を出すと、彼らはまた、顔を見合わせる。

「山田さんも、お諸仏さん目当てですか?」
祐一は歩夢に比べると少し取っ付きにくい。
だが、嫌味な感じはしなかった。
「いや、そんなこと知らずに来たんだが、夕べ話を聞いてね」
「じゃあ、お諸仏さんのことは詳しいわけではないのね?」
ほっとしたように、ももこが尋ねる。
「ああ、ちょっと小耳に挟んだ程度だよ」
「ライバルということになるのかな?」
歩夢が道化ていう。
「ライバル、というか、僕はほとんどお諸仏さんのことは知らないからね」
碧子たちからの情報を教えたくなかったので、昌義は嘘をついた。

「踊りとか、歌とか出来るんですか?」
歩夢の言葉に昌義は驚く。
「そんなのが必要なのか?」
「お諸仏さんが人を選ぶポイントは、才能か真実と言われてますよ」
ももこがそれも知らないの?と言う表情で言った。
「才能か真実?」
「お諸仏さんを圧倒するだけの才能か、その人の真の姿、善悪は問わず、どこまで自分をさらけ出せるかがポイントらしいですよ」
祐一が相変わらず愛想の無い声で付け加える。
「へえ」
「といっても、お諸仏さんとの間の話は、誰も聞くことが出来ないから、今までの成功者たちが、何を語ったか分かりませんけどね。
大楠碧子や華楠や、丹波シェフのように分かりやすい才能を持っていれば、そうかと納得できるんですけど」
「ちょっと前の成功者なんて、ホテルに迷い込んだ老夫婦で、何であの人たちが選ばれたのか、みな、分からなかったと言いますし……」
ももこが口を挟む。
「その人たち、ドリ―ムジャンボ前後賞併せて三億円を手に入れたそうですよ。今はどうしているんでしょうね?」
ハワイで悠々自適さと喉元まで出掛かったが、それを話すのは止めた。
この際、情報は大事にしなければならない。

あの十九才の華楠と言う歌手が選ばれているなら、年齢制限は無いということだ。
彼らは十分にライバルになり得る。
あまり話していては、余計なことを言ってしまいそうなので、昌義はその場を離れることにした。
――そろそろ行かなくては、美奈子が何を言い出すやら……

ダイニングに入ると、美奈子は中央の大きなテーブルで、女性陣に囲まれ頬を上気させている。
岡夫人、丹波夫人、金沢陽子、華楠と碧子もいる。
神楽坂史記はいなかった。
奥のほうの四人掛けのテーブルで、丹波と坂田が手招きしてくれたので、そちらに向かう。

「あら、主人がやっと参りましたわ。ちょっと失礼致します」
美奈子がそう断るのが聞こえた。
美奈子は席を立ち、昌義のほうにやってきた。
ダイニングの真ん中で立ち話の形になる。

「あなた、岡様が盛岡に連れて行ってくださるのよ。ついでにドレスも見立ててくださるの。あなたのタキシードは適当に、私が買ってくるわ。行ってもよいでしょう?」
にこやかに話しかける美奈子は、ほんのり頬が上気し、幸せそのもののように見えた。
有名なセレブの夫人に声を掛けられて有頂天になっている愚かな女と云う侮りの気持ちを隠して、昌義は出来る限りの優しそうな声を出した。
「ああ、いいよ。でも、足は大丈夫なのか?」
「えっ、足?」
骨折した足のことを忘れたのか、美奈子は普通に歩いている。
「あ、これ、大丈夫。なんだか痛みなんて忘れちゃった。それに、岡夫人は車でいらしているから、歩かなくてもいいのよ」
昌義は岡夫人の側に行き、
「本当にお言葉に甘えてよろしいんですか?」
と確認する。
岡さやかはにこやかに微笑む。まるで大輪の花が咲いたような笑顔だ。

「ええ、勿論ですわ。ショッピングはやはり、女性同士のほうが楽しゅうございますわ。
ご主人様はごゆっくり、温泉にでもいらしてくださいませ。
丹波様もご主人を残していらっしゃいますので、ご一緒にお出かけになれば如何かしら?」
「お話してみましょう」
そう言いながら、丹波たちのテーブルに向かう。
少しムカついていた。
――あの女は人に指図するのが当然のようだ。
他人の時間の使い方まで指示しやがる。
だが、美奈子を引き受けてくれるのはありがたい。
ゆっくりとお諸仏さん対策を練ることが出来る。
昌義はこの旅の目的も忘れ、そんなことを思っていた。

「ご一緒しても、よろしいですか」
「もちろんです。どうぞ、どうぞ」
丹波が隣の空席を指し示す。
「奥様に置いて行かれるのは、寂しいですか?」
座りかけた昌義に丹波が冷やかすような口調で言う。
「そんなことありませんよ」
「ご機嫌斜めのように見えましたが」
「いや、大丈夫ですよ」

そう答えながらも、なにか面白くない。
座るのを待っていたように、ウエイターがフレッシュジュ―スと新鮮な野菜とハムのサラダ、パンを運んで来た。
ポタ―ジュス―プにオムレット、プチケ―キにエスプレッソ。
どれも驚くほど美味しい。
食後はやはり、煙が必要ということで、彼らはすぐにダイニングを出た。
ロビーの喫煙席に一目散に向かう。

そこには食事を終えた陽子と碧子がすでに座っていた。

「お二人は盛岡には行かれないんですか?」
昌義が問うと、陽子が肩を竦める。
「何のためにわざわざ田舎に来たか判らないじゃない?
私たちは、今日は角館よ」
「角館?」
「小京都。有名よ」
碧子は手にしていたパンフレットを差し出す。
「小京都ねえ」
あまり気が無かったが昌義はそのパンフレットを受け取り眺めた。
「樺細工とか、武家屋敷、楽しみだな」
「華楠さんも一緒なの。坂田先生もご一緒に如何?」
陽子が坂田を誘う。
坂田は嬉しそうに頷いた。
「そうですね。ご一緒しましょう。丹波さんは?」
「私は、今日、このホテルのシェフに講習をすることになっていましてね。仕事です」
「そういえば、このホテルの食事はなかなかですね。
やはり、丹波さんのお弟子さんかなんかで……?」
坂田の問いに丹波は嬉しそうに頷く。
「まあ、そんなところです。若手ですが、才能のある青年ですよ」
「丹波さんのように、人の才能を伸ばそうとなさる大御所は珍しいですわ」
陽子が感心する。
「いつかはご自分のライバルになるかもしれないのに」
昌義もそれは不思議だと思う。
料理の世界も競争であることには変わりは無いだろうに。
「実はね、それがお諸仏さんとの約束なんですよ」
「ああ、それで……」
坂田も碧子も陽子も、その一言で納得する。

「お諸仏さんとの約束って?」
昌義の問いに、碧子が声を潜めて
「お諸仏さんは、選んだ人に課題を与える。
成功を持続できるかどうかは、その約束が守れるかどうか」
「難しい約束なんですか?」
それに答えず、碧子は丹波に話を振る。
「丹波さんは後輩の指導をするというのが約束なんですね?」
丹波はシガーの煙を払いながら
「そうです。僕は人を育てるというタイプではないのです。
だからこそ、敢えて、それを課題にしたです。
ですから、僕はいろんなところで、請われれば、料理の講習をしています。
料理人の心構えなんかを話しています。
味とか調理法なんてのは、出来て当然のことですからね。
プラスアルファを料理に与えるのは、本人の人生観です」

「けちな料理人は、物を惜しんで、手間を惜しんで、自滅していくということ?」
と碧子が付け加える。
「そういうことです。そういえば、坂田先生はどんな課題を?」
昌義もそれには興味があり、身を乗り出した。
「私の課題は……恥ずかしいな」
「ま、ますますお聞きしたくなりましたわ」
陽子が坂田の腕に手を回す。
この女性はさりげなく、このようなスキンシップをして相手の心を開かせるようだ。

「いやあ、陽子さんはどうなんです?」
学者は往生際が悪く、陽子に話を振る。
「私? 私は、消費すること」
陽子はさっぱりと即答する。

「消費すること?」
全員が声を揃えて聞き返した。
「ええ、溜め込まず、どんな形でも消費して社会に還元していく。壮大な無駄遣いって呼んでいますけど」
「それが、お諸仏さんの課題なんですか?」
昌義は信じられずについ不服そうな声を出してしまった。

「そうですわ。その代わり、その無駄使いを補って余りある御利益を頂いていますわ。
さあ、坂田先生、先生は?」
坂田は、まだ、ぐずぐず言っていたが、やがて、重い口を開いた。
「たいしたことじゃないから、言いたくないんだよ」
「そんなこと仰らずに……」
「いやあ、僕の場合、社会に貢献するようなことではないので、ま、その、株は買わないということです」
「何なの、それ?」
碧子が目を丸くする。

「いや、僕は、株、当たるんですよ。
これはと思ったので、下落したものは無いんです。
というより、僕が望んだのは、その才能なんですよ。経済の将来を見通す能力。
お諸仏さんは、才能は与えるけれども、その才能を自分のためには使うなといったんです。
その才能を他人のために使ってこそ、僕は食べていけるという呪いをかけられた様なものです」
「それは、お気の毒だわ」
陽子がしんみりと言う。

経済的な成功の喜びを知っている者には、その呪いの恐ろしさが分かったのだろう。 
だが、坂田にしたところで、人並み以上の生活や地位を得ている。
坂田はその才能を発揮することで、多くの塾生を得ている。
その中には大会社で地位を築いている者、起業して会社経営をしている者も多い。
坂田自身、十分な名誉も財力も手にしている。昌義はそう思いながら、
――そういえば、あの少年たちが言っていたことを確認しなければ。

「たしか、お諸仏さんに選んでもらうには、才能が必要だとか?」
「ああ、それは、芸術、技能関係の方ですよ。碧子さんが良い例ですね」
坂田が碧子を指す。
「まあね、そう言う事かな」
碧子はさりげなく頷く。

「でも、才能が有るなら、成功は約束されたようなものじゃありませんか?」
昌義の言葉に、碧子は昌義を馬鹿にしたような目で見る。
「才能のある人間なんて、掃いて捨てるほどいるよ。
子供の頃、皆、何か認められて、賞状、貰ったりしているじゃない?
でも、大人になって、それを発揮し、持続するには何らかのきっかけや運が必要。
それをお諸仏さんは与えてくれるの」
「そう言うものですか……」
今ひとつ納得がいかないがとりあえず相槌を打った。
「華南は、あの歌声だけで、選んで貰えた。
とんとん拍子に音楽祭に出て、新人賞を貰えて……でも、あの子自身も血を吐くような努力をした。
その努力をお諸仏さんは認めたのね。
今年はそんな才能のある人がいなさそうだから、山田さんは幸運よ」

昌義はあの変な三人組の話を思い出した。
「才能の代わりに、真実をと聞きましたが?」
坂田がその問いに答える。
「願い事に金という人が多いからですよ」

――金を願っちゃいけないのか?

「成功をどう考えるかは人によって違うけれど、他人に成功が見えるには、金とか地位しかないじゃないですか?」
昌義の反論に碧子は苦笑する。
「確かにお金は大事だけど、それが目的じゃないって言うか……それだけじゃないんだな。
私の場合、どちらかというと生活の心配をすることなく、漫画を描き続けることさえ出来たら、それで良いと思ったの。
で、私はお諸仏さまに無尽蔵の漫画のアイデアを願ったの。
でも、頑強な手を願い忘れてしまって、ちょっと、痛い思いをしているけど……」
「羨ましいな、そんな職業を手に入れられて……」
それは昌義の本心だった。

碧子は哂う。
「簡単よ。漫画家になりたいと、お諸仏さんに願えばいいのよ」
「はあ……」
――そんなことはしたく無いような気がするが……

「山田さんは漫画を描くことを欲求しないでしょ?」
陽子がクスと笑った。
「まあ、描きたいと思ったこと無いですね」
――そう言えば絵を描くのは苦手だった。
そんなことが何かの役に立つなどと考えもしなかったなあ。
美術の時間なんか遊びだと思っていた。

「人は自分の知っているものにしかなれない。
だって、何かになりたいと思うときには、その何かが必要でしよ。
一番大変なのは、今は無い「何か」を確立する人。
そういう人は自分の持っている物が何なのか自分で見出さなければいけない。
それを名付け広めなければいけない。それが大変なんだ」
碧子の言葉が耳を擦り抜けていく。

――俺は何を知っているのだろう? 
そもそも、何かになりたいなんて思ったことが無い、ような気がする。
良い学校を出て、良い職業に付いて、良い家庭を持って、そんな風にしか考えていなかった。
でも、この年になって、俺は……何をしているんだろう?

昌義は不意に涙をこぼしそうになって、あわててタバコを吸った。
煙が目に染みた。
話は坂田の経済論になっている。

「金というものは対価だから、何かがないと手に入らない。
その対価は時間と労力と品物。

製造業は製品を金に換える。
商社は商品を右から左に移すことで差益を手に入れる。
サ―ビス業は客に、サ―ビスする時間と労力で対価を貰う。
芸術家なら、自分の才能で創り上げたものを金に替えることが出来る。
いずれも、その持っている物が相手にとって利益をもたらす物でなければ、相手は欲しがらない。

客に気に入られなければ、元も子もない。
だから、その商品には彼ら自身の創意工夫や才能、他人への思いやりが込められていることになる。

だが、金融業は自分の商品が、金だと思い違いしている。
本当はその金を有効に生かすサ―ビスが売り物なのにね。

だから、この商品(金)を与えたんだから、代金を払ってくれという態度を取ってしまう。
だが、本来、社会を潤滑に動かすために必要な資金を、必要なところに動かす、そのサ―ビスに利息という対価は支払われるものなのだ。
それが判っていないから、相手に利益をもたらす様にと努力することもせず、ただ、貸し与え、返せなければ、あんたの責任と、根こそぎ剥がそうとする。

相手が死のうが生きようが知らん振り。
追いはぎ同然だ。

金融業が理想ばかりを追っていては、行き詰まるに決まっている。
だが、金融業がなりふりかまわなくなったら、国は滅びるのさ」

かなり耳の痛い話をされて、昌義は言葉を失う。

「坂田先生の経済論は、もう少し、別の話のような気がしたけど?」
碧子がその場を取り成すように茶化す。
「ああ、本では、こんなことは書けないよ。
だが、私はもう、この国の政治や経済や金融のトップに失望しているんだ。
自分の保身や自分の取り分のことばかりを考えている人間に、他人の痛みがわかるとは思えないし、判ったところで、自分を優先するだろう。
だから、うまく逃げている人間がいるうちは、この国は良くならない。
一度みな、泥水を飲むべきだ。
全員飲まなきゃ、その苦さを理解できないのなら、経済なんて好転しなくていいんだ。
中途半端に経済回復なんかしないで、全員、飲むべきなんだよ」

「理解力と想像力と理想の欠如が、今の経済の一番の問題というわけね」
碧子は細く煙を吐く。
陽子がそう云えばと言い出した。
「神楽坂史記が言っていましたわ。
この十数年を失敗と不毛の時代と、みな、受け止めているけれど、この時代は現在の神風が吹いている時代だ。
あのまま、バブルが続いていたら、日本は無かっただろうって。
トロンや難民船のことを考えれば自明の理だと」
「ほう、神楽坂史記さんがね。一度しっかり話をしてみたいな」
「ええ、満月が終わったら……史記も今は忙しいから」

昌義は史記の名前を聞いて、つい口を挟んだ。
「神楽坂史記さんも、やはり、お諸仏さんのご利益で?」
陽子はなぜか狼狽したように、愛想笑いを昌義に向ける。
「史記は鴇野雄一郎にお諸仏さんのことを教えてもらったの。私もよ。碧子さんもそうよね?」
碧子は黙って頷く。
「坂田先生は偶然だったんですよね?」
昌義の問いに坂田は、
「そうだよ。僕が岡敏郎に教えた。確か、岡敏郎が鴇野雄一郎に伝えたんだ」
「僕も岡さんからでしたよ」
丹波はシガーの煙を優雅に吹いてそう言うと、時計を見る。
「ああ、もうこんな時間だ。シャワ―を浴びなければ」
「シガーの匂いを消すんだ?」
碧子が訳知り顔に質問する。
「ああ、大好物のシガーをこんな時間に吸えるのは、休みの日だけなのに」
そういうと、名残惜しそうに丹波はシガーを消した。
「どうしてですか?」
昌義の問いに、丹波は肩を竦める。

「料理人は、無臭で無ければね。
タバコくさい手で食材に触るなんてもってのほかなんだよ。
今日は、まだ、話だけだから、吸ってしまったが、いつもは吸わないようにしている」
「そうなんですか。厳しいんですね」
「当然さ。好き勝手なことをしている人間に、成功は無いのだ。 
じゃ、そういうことで、失礼」
丹波は、シガーケースをポケットにしまい立ち上がった。
陽子が碧子に、「私たちも仕度しましょう」と言い、昌義を振り向いた。
「そうだ、山田さんもご一緒に如何?」
「そうだわ、いかがです?」
「ああ、一緒にどうです。奥さん、岡さんたちと出かけるんでしょう?」
碧子と坂田も昌義を誘う。

昌義は少し考えたが、止めることにした。
あの三人と一緒に玉川温泉に行くと約束したのを思い出したのだ。
彼らはお諸仏さんを見に行くといっていた。
角館見物で一日潰すよりも、ここはお諸仏さんを見に行ったほうがよいだろう。

「お言葉は有り難いんですが、今日は玉川温泉に行こうと思っているんです」
「ああ、あそこも良いところです」
坂田は頷く。
「お諸仏さんも見てきたいし……」
「そうね、お諸仏さんにご挨拶するのは大事ですわ」
「私たちは、昨日、お諸仏さんにご挨拶してきたから……行くべきだわ」
陽子と碧子も口々に勧める。
「それでは、私たちは支度しましょう」
「華楠ちゃんも行くんですか?」
未練たらしく昌義は訊く。
「ええ」
「碧子さん、華楠さんとはどういう……?」
二人がどういう関係か気になっていた昌義はこの機会に質問する。
「華楠は私の従妹」
「ああ、それで……」
「華楠は急に忙しくなって、ちょっと、疲れ気味なの。
だから、ゆっくり休ませて上げたくて、連れてきたの」
「え? お諸仏さんにお礼に来たんじゃないんですか?」
昌義の言葉に、一瞬、皆、動きを止める。

「ええ、勿論、お諸仏さんに会うのが一番。で、休養はついでね」
「さあ、早く支度しましょ。急がないと、昼になっちゃうわ」
陽子はさっさと立ち上がり、二人を促す。
「じゃあ、お先に」
坂田も、陽子に引っ張られ、エレベーターに向かう。

昼まで、時間を潰さなければならない。
昌義はロビーに置かれている新聞を手に取った。
株価は相変わらずだ。経済欄を見ると、陽子の顔が目に飛び込んできた。
トップインタビュ―という記事の写真だ。

「投資会社グローバルライン社の金沢陽子社長」と紹介がある。
「景気低迷の現在、女性社長のがんばりで業績を伸ばすグローバルライン社……」
そこまで、読んだ時、
「山田さん」
横に歩夢が立っている。気配に気づかなかった昌義は驚いた。
「ごめんなさい、驚かせて」
「いや、どうしたの?」
「僕たち、昼からと言ったんですけど、今から支度して出かけたいんです。山田さん、ご都合は?」
「ああ、いいよ」
「それじゃ、三十分後に、ここで待っています」
「分かった」
歩夢は部屋に戻るらしい。
昌義も部屋に戻って支度することにした。
一緒にエレベーターに乗り、三階で降りると、美奈子が丹波夫人と廊下で立っている。
「あ、あなた、私たち、今から出かけますから」
昌義が何をしているのかには興味が無いらしく、また、丹波夫人との会話に戻っている。
「気をつけて」という昌義の言葉にも上の空だ。

昌義は部屋に入り、窓を開ける。
遠くに田沢湖が光って見える。
空は抜けるように蒼い。よい天気だ。
ふっと、下を見る。
大きなシルバ―のベンツが止まっている。その後ろに真っ赤なジャガ―と黒のBMWが止まっている。このボロボロのホテルとは対照的に、その車は皆、ぴかぴかに光っている。

昌義は、彼らの車に負けない高級車を乗り回すようになる自分を想像した。
――金、それさえあれば、問題はすべて片付く。それさえあれば、信用金庫を辞めて、美奈子と別れ、亜里沙とやり直せる。
金を生み出す才能を願おうか……ああ、それが良い。
……でも、どんな才能が金を生み出す才能なんだろう?
三億を自分の右手一本で稼ぐ漫画家・碧子の才能。
砂漠から文学賞に応募して受賞した神楽坂史記の才能。(確か賞金は一千万だった)
ベンチャ―キャピタルを経営する陽子の才能。(鴇野雄一郎はたった数年で三十億の資産を手にした)
坂田の経済を見通す才能。
丹波の料理の才能。
華楠の歌の才能。
才能があっても、必死で働かなきゃいけないと言うことでは、今と変わりないな。
そういう点では、三億の宝くじのほうが楽そうだ。

――とにかく、絶対にあんな子供たちや、平凡な結婚くらいのつまらない願いに負けるわけには行かない。
そういえば、あの三人の願いを、まだ、聞いていない。あの子供たちは何を願っているんだろう?
車の中で聞き出してやろうと昌義は思う。


「どうぞ」
その車のドアを開けられて、昌義は驚いた。
「この車が、君の……?」
その車はあの部屋から見下ろした赤いジャガ―だった。
歩夢が助手席に座り、祐一がその後ろに、昌義は運転席の後ろに座る。
ジャガ―に乗るのは初めての昌義は物珍しげに車内を見回し、感心しながら史記に話しかける。
「凄いんだね。その若さで、こんな車を持っているなんて」
「まあ、それほどでも……」
「ももこさんは、仕事、何をしているの?」
昌義の問いに故意に答えないのか、それとも、カ―ブ続きの高原から降りる道路に必死なのか、ももこは運転に集中しているようで答えない。
代わりに後ろを向いて、歩夢が言い出した。
「ももこさんは、すごく才能のあるクリエ―タ―なんだよ。
だから、こんな車くらい、彼女の収入ならぜんぜんオッケ―なんだ」
「ぜんぜんオッケ―ねえ。そういえば、君たちはお諸仏さんに何を願うの?」
「木を植える力」
即座に歩夢が答える。
「木……?」
「あ、ふざけていると思っているでしょ?」
心外そうに歩夢がふくれる。

「山田さん、職業は? なにしているんですか?」
落ち着いた口調で祐一が問いかける。
「私は、信用金庫に勤めているんだ」
「ふうん、仕事は楽しいですか?」
祐一がおざなりに問う。
なんと言っていいものか、昌義は躊躇う。

「仕事が楽しいかって? 
毎日毎日、金を貸して、回収して、トラブルや苦情を処理して、金に振り回されている。
自分のものでもない金のために、身を磨り減らす。
うまくいって当然。下手すりゃ、人が死ぬかもしれない。そんな仕事が楽しいわけ無いだろ」
と、彼らに話してもわかるはずが無い。
「まあ、どんな仕事も楽しいものじゃないよ」
車窓を眺めて昌義は言葉を濁す。

昌義はバブルの初期に大学を出た。
地方だったが、国立大学を出たから、内定をいくつも貰えた。
その中で今の信用金庫を選んだのは、父親の影響が大きかった。
父親はある企業に勤めるために、中卒で九州から中部地方の小都市に出てきた。
働きながら定時制高校に通い、三交代勤務をこなし、工場で班長になり、五年前、定年退職した。

昌義と妹、弟の三人は、父親の骨身を削って建てた家で育ち、母親のパ―トの帰りを待つ鍵っ子だった。
母も中国地方の出身だった。
大きな企業に勤め、出世とは縁の無かった父親は、昌義の学歴なら小さな組織のほうが出世できるし、信用金庫なら固い職業だと思ったらしい。
ほかの内定の出た企業が、全国に転勤があるのも反対の理由のひとつだった。
九州男子の気風を持つ、父親の発言力の強い家庭に育った昌義は、それに従った。

四十前に支店長職を得たのは、美奈子と結婚したお陰だと、義父からも、周りからも言われ続けてきた。
舅は、その小さな信用金庫を牛耳っている理事長で、その市の名士だ。
信用金庫自体は、小規模で、競争の少ないその市だからこそ、存続できているような代物だ。
舅も姑も、昌義との結婚に反対した。
閨閥のない昌義との結婚は何の利益も齎さないということだったのだろう。

だが、二人姉妹の長女が家を出ても、彼と結婚すると宣言したのでは、認めないわけには行かなかった。
結婚式は、その市の一番のホテルで、国会議員や、市長や名士を集めて、盛大に取り行なわれた。
花嫁は五回もお色直しをして、煌びやかな衣装を見せびらかした。
昌義はお色直しのたびに、出迎えに出る自分を見る招待客の目に嘲りを感じた。
長身で整った顔立ちの昌義は、彼女の添え物で、容姿だけが取り柄のジゴロだと噂されているのを知っていたから……
そして、彼らの視線を受けながら、花嫁の手を取った時、昌義は自分の結婚が間違いだったのではないかと不安になった。

妻の美奈子には、子供が出来なかった。
その上、結婚五年目の春、検診で初期の子宮ガンと宣告され、子宮摘出手術をした。
彼女はもう、子供を望めなくなってしまった。
荒れる美奈子に、昌義は途方にくれた。
舅は、次女の息子を養子にすると言い出した。
子供の出来ない婿など、不要になったということを、彼は隠そうともしなかった。
それから、六年間、そんな生活に耐えてきた。

昌義は自分でも出来る限りの努力をして、理事長の娘婿という自分の立場から抜け出そうと努力した。
その努力により、昌義の支店は常に、四十五支店中のトップだった。
地域のために活動し、客のために有利になるよう計らい、それが自分へのリタ―ンとなると、自分にも、部下にも、思い込ませていた。
だが、常に聞こえてくるのは、正当な評価ではなかった。


その客は応接室で上目使いに昌義を見る。
「山田さんにお願いすれば、大丈夫ですよね。なんと言っても、次期理事長さんだ」
彼が派手に遊んでいるという噂は昌義の耳にも入ってきていた。
今回は、追加融資の相談だった。
だが、その金の使い方に、昌義は疑問を抱いていた。
担当者からの話には耳を貸さない昌義に痺れを切らして、彼は乗り込んできたのだ。

「そんな力、私にはありませんよ」
「ご謙遜を。もう、決まっていることじゃありませんか」
そんなこと、と言いかけて、客の言葉の意味が、自分の胸に突き刺さっているのに、気づいた。

腹の底から、目の前で能天気に笑っている商店主を憎いと思った。
脂ぎった顔を見ていて、むかむかしてきた。
何の経営努力もせずに、お追従を言って、金を引き出そうとしている。
この大変な時代を、金を借りるだけで乗り切ろうとしている。
そんな奴のために、稟議書を出して、舅に怒鳴られるのが馬鹿らしくなった。
だから、稟議書を書くのを止めた。

「山田さん、酷いじゃないか。この前、あれだけお願いしたのに……」
「大久保さん、私は、絶対に大丈夫とは申しませんでしたよ。なんと言っても、私も本部の決定には逆らえないんですよ」
「本部の決定、それじゃ、おたくは、オレに潰れろ、首を吊れと……」
男の顔が蒼褪める。
「そんなこと……大久保さんのように、お力のある方でしたら、ウチの融資が無くても、十分、やって行けると思うんですよ。
今度のことでは、私の力不足で、お力になれませんでしたが、私も、大久保さんとは長いお付き合いですから、これからも、お力になるつもりでおります。頑張って、乗り越えてください」
気落ちして、今にもソファから崩れ落ちそうな客を目の前にして、気が晴れた。
それが始まりだった。
ほんの少しの意地悪のつもりだった。
現に、その商店はほかの銀行の支援を受けて、今も営業している。

小さな工務店の二代目の杉崎は、幼稚園時代からの昌義の親友だった。
昌義は、その日、杉崎の融資の申し込みを受けていた。
もちろん、彼のために、難しい審査を通すつもりだった。
今夜は接待だと言って、杉崎は、最近気に入っている子がいるという店に連れて行ってくれた。
そこに亜里沙が居た。
「凄い、そんなにお若いのに、もう支店長さんなの?」 
その言葉に、杉崎一郎が、ふっと笑ったのを、昌義は見逃さなかった。

その笑いを見て、昌義の気持ちは変わった。
あの商店主の時のように、稟議書を通さず、当日になって断った。
工務店はその融資が通れば、さらに発展するだろうと、昌義にも分かっていた。
だが、その日、手形が不当りになれば、杉崎の会社が危ういのも、分かっていた。
大久保のように、杉崎も、ほかで手当てして、何とかなるだろう。
それがだめでも、泣いて縋ってきたら、何とかしてやろうとも思っていた。

杉崎は昌義の目をじっと見て、
「わかった。迷惑をかけたな」
それだけ言って、昌義に弁解の機会も与えず、応接室を出て行った。
それが、昌義が杉崎の姿を見た最後だった。
杉崎一郎は、その夜、蒲郡埠頭に行き、車で海に飛び込んだのだ。


「大丈夫ですか、山田さん。車に酔っちゃいました?」
歩夢が心配そうに話しかける。
車はいつの間にか高原を下りて、平坦な道を走っている。
「いや、大丈夫だよ。ちょっと、考え事をしていてね」
「もうすぐ、秋扇湖ですわ」
ももこがバックミラ―越しに話しかける。
「シュウセンコ?」
「ダムに名前が付いているんですって。秋田の秋に扇の扇、そして、湖」 
車は少し山道を登り、やがて、前方左手に、満々と水を湛えた湖が見えてきた。
濃いブル―の美しい水だった。

「ああ、綺麗だな」
思わず口に出た。三人も歓声を上げている。
湖はきらきらと光り、山は紅葉し、息を呑む美しさだった。
ダムの周りには家一軒ない。ドライブインや土産物屋も無い。
全くの自然だった。

車をダムの堰堤に止め、四人は外に出る。
奥羽山脈から吹き降ろす風が、ダム湖を渡って吹き抜ける。
その風にもろに晒された。
「わあ、寒い」
歩夢はそういうと、さっと車から、上着を取り出して、ももこに着せ掛ける。
祐一も「大丈夫?」と聞いている。
まるで、お姫様の扱いだなと昌義は驚いた。

ももこはというと、そんなことに構わず、
「わあ、綺麗、綺麗、こんな景色の中で住んでいたのかあ」とはしゃいでいる。
昌義が「住むって、誰が?」と問うと、
「知り合いが、昔、ここに住んでいたんですって」
と答える。

「こんな山の中の、何も無いところで?」
昌義は思わず、周りを見回す。
「昔のことよ。今は誰も住んでいないわ」
昌義は碧子の言葉を思い出した。
確か、子供に人型でいるのを見られて、彼らは年に一度、秋の満月の夜しか人型に戻れなくなったのだ。
「それは、もしかしたら、お諸仏さんに出会った子供の一家のことかな?」
史記が振り向き、怪訝な顔をする。
「あら、その話、誰から聞いたの?」
「碧子さんから聞いたよ」
「そう……」
祐一は風に乱れる長い前髪を払いながら言う。
「僕らはお諸仏さんに出会った人から、その話を聞いてきたんです」
「それじゃ、その人は、今、東京に住んでいるんだね」
昌義は聞き返すが、彼らはその問いに答えない。

再び、車に乗り、目的地を目指す。
お諸仏さんに行く道は、ダムの終わりの手前を右にそれて、山道を登る。
がたがたの道を走っていくと、「鳩峰神社」という神社に出た。
うっそうと茂る秋田杉の、黒に近いような濃い緑と、燃えるような赤や黄色に染まった雑木林の中に、ひっそりと古ぼけた神社はあった。
どうと言うことの無い古ぼけた神社だ。

お諸仏はさらにその奥にあるという。ここからは歩きだ。
道は結構険しく、息が切れた。
三人はさっさと先を歩いていく。

――若くないんだなあ。

昌義は息を吐きながら苦笑する。
道は一本道なので、彼らに追い付こうと努力するのは辞めて、ゆっくり歩く。
それでも、息が切れた。
三十分ほど歩くと、大きな岩の下に彼らの姿が見えた。
お諸仏はイ―スタ―島のモアイ像のようにごつごつの巨石で、点々と山の中に在った。
顔だと言われればそうかとも思えるが、なんと言うことの無い苔生した石で、大した感動も湧かず、昌義はがっかりした。
 
――こんな石……ただのでっかい岩じゃないか。
こんなものがなにか力を持っていはずない。

歩夢たちは黙って石を見上げている。
同じような感慨を抱いているのだろうと、昌義は歩夢に話しかけた。
「なんてこと無い石だね」
だが、歩夢の声は震えていた。
「凄いよね。この石。こんな山の中に……やっぱ、お諸仏さんだ」
歩夢は手を合わせる。
ほかの二人も同じように頭を垂れて、手を合わせている。
昌義は居心地が悪くなって、周りを見回した。

山は黄や赤や茶、紫、あらゆる色をぶちまけた様に色づいている。
それは絵心の無い昌義から見ても圧倒的な自然の美だ。
彼らが感動してその場から動かないので、昌義は一人で、ぶらぶらと、来た道を戻る。
タバコに火を点け、吸いながら、坂道を降りる。
 
――願いが、本当に適うのなら、何が欲しい?
金、喉から手が出るほど欲しい。
五千万あれば、借金払って、あの金が返せる。
一億有れば、それ以外に自分の好きなことが少し出来る。
三億あれば、亜里沙とハワイで遊んで暮らせる。

でも……命は買えない。
何億あろうと、何千億、何兆あっても、失った命は帰らない。
お諸仏に願えば、杉崎を取り戻すことが出来るだろうか?

昨夜から、その考えが、ふっと浮かんでは消えていた。
そんなに霊験現らたかな仏様なら、杉崎を生き返らせることも出来るだろうと考え、その考えのあまりの奇矯さに苦笑する。

でも、もし、それが出来るのなら、と再び思う。

――生き返った杉崎に融資してやろう。
あいつの会社を立て直して、また飲みにいこう。
杉崎の下手なカラオケを聴いて、杉崎の得意なゴルフに付き合おう。
お諸仏などという滑稽無套な話を信じている者がいるのなら、死者が生き返る話だって有りだ。

昌義はそんな自分の考えに思わず苦笑した。

「何、しょぼくれてんだよ。ま―ちゃん」
突然、背後から、少年の声が聞こえた。

振り返ると、ジャ―ジ―と短パン姿の少年が道に立っている。
「君は……?」
ジャ―ジ―には見慣れたマ―クがついている。昌義の出た小学校のマ―クだ。
少し、えらの張った負けん気の強そうな鼻に覚えがあった。

「杉崎……?」

確かに、記憶の中の小学生の杉崎の顔だった。
少年は、黒に見えるほど濃い紫の小粒の葡萄を手に持っている。

「あっちにさ、山葡萄がたくさんあったぜ。取りに行こうよ」
少年の頃の杉崎の顔をした少年は、藪の中を指差す。

何も言えずに少年を見つめている昌義に、
「さっきさあ、その枝をリスが走って行ったの、見た?」
道のそばのブナの木の枝を指差す。

唖然としながらも、昌義はそれに答える。
「いや、見なかった」
「も―、ま―君は、いつもどじだからな。
勉強ばっか、しているからだぞ」

勉強ばっかしているから、というのは、杉崎が昌義をからかうときの常套句だった。
だが、それは、嫌味ではなく、なんだかなあ、だから俺が居なきゃだめなんだよという言葉に繋がった。

「俺がいるからさ、大丈夫だよ」
そう、言っていた杉崎と自分の位置が逆転したのは、唯一、あの融資を頼みに来たときだけだ。

――その逆転を、ほんの少し楽しんだだけだったのに……

「も―、先に行くからな」
じれったそうに言うと、少年はさっき指差した藪の中に駆け込んで行った。

黄色に枯れた草が揺れる。
濃厚な山の匂いが漂ってきた。落ち葉を踏みつけたときの匂いだ。


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November 08, 2004

満月伝説 #3満月伝説

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「なんですか?その満月伝説って……」

碧子は昌義に軽く乾杯の真似をして、スコッチを一口飲み、タバコに火を点けると、
「この高原を下って、玉川温泉に向かっていくと、ダムが二つあるの。
その最初のダムから山に入ったほうに、神社があって、そこには伝説があるのよ」
「はあ……?」

陽子は水割りをゆっくりと味わいながら、碧子の言葉に頷いている。
彼女も知っている話らしい

「今から、千四百年前、天竺から三十四の仏様が、空を飛んできた。
仏様たちには、夜が明ける前に、いかなければならないところがあったのだが、なにしろ、休む間もなく、急いで来たものだから、中の一体が、つい、うとうとしてしまい、その場所で石になってしまった。
残りの三十三体も、疲れて、次々に眠ってしまい、その眠った順に、山の中に点々と巨石がある。
スト―ンサ―クルとも、モアイとも言われているんだけど……
その石は、その山の他の岩石とは、成分がぜんぜん違っていて、明らかにどこかから運ばれたものだと云われている」
碧子は暗誦でもするように一気に話すと、息をつき、水を飲んだ。

昌義は、変な話を始めたなと思いながらも、一応話に載った。
「へえ、仏様が眠ってしまった罰を受けたんですか?」
「そういうことなの」
陽子が相槌を打つ。

昌義は、幽霊や怪談話や超常現象を信じることが出来ないたちだ。
そんなことがあるものかという思いはとりあえず隠して聞く。
「その罰は、誰が下したんですか?」

「上司、なんじゃない?」
からかい気味に昌義は言ったのだが、碧子は真面目に答える。
「上司? 仏様には上司がいるんですか?」
「だって、仏教って一神教ではないでしょ? 唯一絶対の仏なんていないから」
「そう……なんですか?」

碧子の言葉に思い切り首をかしげる昌義を見て、陽子は言い出した。
「ウチの会社にもいますのよ。石にしてしまいたいようなのが」
そういうと、陽子は思い出したのか、忌々しそうに、タバコを押し潰す。

昌義もそれには同感するものがあった。
――美奈子を石に出来るのなら、してみたいものだ。

「でも、それが、満月とどういう関係があるんです?」
「満月の伝説は、また、別の話。
いまから、四十年以上昔、ある少女がそのダムのほとりに住んでいた。
その少女には、神人と呼ばれた先祖がいて、系図をたどっていくと安部晴明にも届く家系だった。
その彼女が満月の晩に、見たんだって」
碧子はもったいぶって話を区切る。

最近、流行の陰陽師に託けたほら話か、馬鹿馬鹿しいと思いながらも、昌義は、その話に付き合うことにした。
「何を見たんですか?」
ついニヤニヤしてしまうのを隠しもせずに昌義は訊く。

「あ、お替りね」
碧子は手を上げて、スコッチのお替りをウエイターに頼んだ。
そして、芝居がかった口調で話し出した。

「満月の夜、女の子はふっと、目を覚ました。
満月のせいか、まるで、昼間のように外が明るい。
彼女は、両親と寝ている部屋から、何気なく外に出た。
すると、山のほうから、何か話し声が聞こえる。
女の子は山のほうに歩いていく。
すると、背の高いハンサムな青年たちが、白い見たことも無いような服を着て、山から下りてくる。
それも、何十人も……」

昌義は吹き出したくなるのを抑えて口を挟んだ。
「それはちょっと、すごい光景ですね」

「彼らは、その女の子を見つけた。
大変だ。見られてしまった。どうしようと話し合っていたが、その中の一人が、少女に言った。
私たちは鳩峰神社の奥のお諸仏だ。
普段は石になっているが、満月の晩だけは、こうして、元の姿に戻れる。
お前にこの姿を見られてしまったので、もう、年に一度しか、この姿に戻れなくなってしまった。
実は、私たちは、もう千四百年ちかく、満月の夜には石から人型に戻って、遊びに行っていたのだが、それも、年に一度のこの夜だけになってしまう。
とてもさびしいと訴えた」

「仏さんたち、どこに遊びにいっていたんですか?」
新しい漫画の話かと苦笑いしながら、昌義は義理で尋ねた。

「田沢湖の辰子姫のところらしいですわ」
平然と陽子が答える。

碧子ではなく陽子が答えたことに昌義は驚き、間の抜けた声を出してしまった。
「へえ?」
「辰子姫様は竜なんですって。綺麗な女の子が永遠の美を願って、水を飲んで竜になったのだそうよ」
「はあ?」

碧子は続ける。
「お諸仏さんたちは、女の子に言ったの。
お願いがある。満月の夜ごとに、そちらから遊びに来てくれないか?
石のままの私たちの前で、歌を歌ったり、踊ったりしてくれってね」
「仏さんが、踊りと歌……ですか?」
「そう、天照大神だって、踊りや歌で、天岩戸から出てきたんですもの。
仏さんも歌や踊りが好きだったんでしょうね」
またもや、陽子がそんなことを言い出した。
「そんなもんですかね」
絶対、眉唾ものだと思いながらも、昌義はだんだん愉快になってきた。

――この話をこの女たちはどう決着させるのだろう?

「それで、彼女は満月の夜には、お諸仏さんのところに行って、一人で歌ったり踊ったりしていた。
そして、あの夜から一年目の満月の晩、行ってみると、彼らはまた若い男性の姿をして待っていた。
お前のおかげで、この一年が楽しかったと、彼らはこの一年の礼を言い、また、来てくれと頼んだ。
女の子は、約束を守って、満月の夜は家を抜け出し、遊びにいった。
でも、それから、数年後、女の子の一家はその地を離れた。
お諸仏さんはさびしくなった。
それで、人型に戻れる満月の晩には、人に話しかけ一晩中楽しく過ごして、その人に幸運を与え、夜明け前に山に帰る。
このホテルは、お諸仏さんの通り道に建っている。
だから、満月の晩にこのホテルに泊まって、お諸仏さんと出会って、楽しいときを過ごすと、その人の願いを適えてくれるの」

そう来たかと昌義は思う。新手の霊感商法のようなものかもしれない。

お諸仏セットでも、売りつけようというのか。
それとも、それを観光の目玉にして、「満月、お諸仏ツア―」でもしょうというのか。

――そういえば、あの支配人は、定員一杯だといっていた。

「さっき、支配人がこのホテルは定員一杯だと言ってたんですが、満月ツア―でもあるんですかね」
昌義はタバコに火を点けながら陽子に問いかける。

「あら、本当に何もご存知ないのね?」
目を丸くして驚きながら、陽子はウエイターを呼んで水割りをお替りする。
碧子も三杯目のストレ―トをお替りした。

「このホテルは三階建。
この旧館にレストランやバ―があって、客室は三階にある十室だけ。
奥のほうに新館があってその客室は四十。
新館四十室はお諸仏さんのために空ける。
そうすると、ほかの宿泊客は、三階に泊まるしかない。
泊まれるのは十室だけ。
今日の食事の席には九室分の人しかいなかったから、残りは一部屋だけ。
さっき、最後の一人が来たから、このホテルはもう満室」
碧子は指を折って数を数えながら説明する。

「あれ、食事のテーブルは七つでしたよね?
あの男女三人組みは二部屋として、もう一部屋……」
陽子は声を潜めて、わざわざ昌義の耳元に口を寄せて囁く。
トレゾアの甘い香りがする。
「私たち三人とも、別々のお部屋なの」
「あ、そうなんですか」
「彼とはお友達だし、彼女はこんなところでも仕事しているのよ」

陽子は楽しげに笑う。陽子には不思議な色気があった。
気が強そうに見えるが、話していると、この女性は自分に気があるのではと感じさせるような女らしい柔らかさがある。
昌義は、彼女が銀座のナンバ―ワンで、そのころ貯めていた金を自己破産して失意のどん底にいた鴇野雄一郎に出資した、という週刊誌の記事を思い出した。

ただ、美しいだけでなく、メリハリの利いたスケ―ルの大きさを感じさせる女性。
たしかに、ナンバ―ワンになれそうな女性だ。

鴇野雄一郎はその資金で投資会社を作り、昨年、ガンに斃れたときには、三十億の資産があったという。
そういえば、神楽坂史記は鴇野雄一郎の妹だ。
だとすれば、あの無愛想な地味な眼鏡の女が神楽坂史記なのだろうか?
そうだ、そうに違いない。
小難しい理屈をこねた推理小説を書いている女。ぴったりだ。

「あの、金沢さん、神楽坂……」
「あら、こんな時間」
陽子は腕に嵌めたダイヤを散りばめた時計に目をやる。
「ごめんなさい、私、仕事の電話をしなければいけないの。
失礼いたしますわ。また、お話させてくださいね」
そういうと、さっと立ち上がり、トレゾアの香りを残してエレベーターに向かう。
「それでは私もこれで……」
碧子も立ち上がり、そそくさとその後を追う。

「まったく、何なんだ?」
わけが分からないと、昌義は思う。
お諸仏が山の中に有って、その伝説までは納得できる。
そんな言い伝えは、全国どこにでもあるだろう。  
だが、その後の満月伝説は違う。
その話は、たかだか、四十年前から始まっている。
なにか、目に見えるご利益が無ければ、人がその漠然とした話についてくるものだろうか?

「お諸仏さんの満月伝説。あなたもやはり、そのために来たんですか?」
急にバリトンで囁かれて、昌義は飛び上がった。
今まで、碧子のいた席に、例の髭の中年男性が座っている。

「驚かせてしまったようですね、すみません」
男が謝る。
「いえ、ちょっと、ぼんやりしていたもので……」
男は、タキシードを着たままで、手にブランデーグラスを持っている。

「実は、私らは満月伝説のことを知らなくて、ここに予約してきてしまったんですよ」
体制を立て直して、昌義はこの男に、いろいろ聞いてみようと決心した。

「ほう、いつ、予約されたんですか?」

「二週間前です」
「よく取れましたね。僕らは一年前に予約したんですよ」
男は驚いたように目を見張る。
「そうですか、そんな前に……」
こんなところなのにと言う言葉は呑み込んだ。

「この伝説のことは、あまり知れていないんです。
ところが、このニ、三年ほどは、口伝てに広まっていましてね。
ホテルを取るのは、結構、難しいんですよ」

昌義はその情報に驚いた。
このホテルへの予約はあっという間に出来た。
結構、暇なホテルだと思っていたのだ。
「え? でも、すんなりと取れましたが」
「それじゃ、きっと、直前のキャンセルがあって、お宅はちょうど良いところに連絡されたんでしょう。
ラッキ―でしたね」
髭の男はニコニコしながら、ブランディーをうまそうに飲んだ。

「ところで、その、満月伝説というので、願いを適えてもらった人はいるんですかね?」
昌義の問いに、男はちらっと昌義を見ながら、シガーを取り出すと火を点ける。
甘い香りが広がる。

「あまり教えたくないんですがね。
これもご縁ですし、今年は貴方の番かもしれませんから、ま、いいか」
と、男は勿体ぶる。

「あなた、神楽坂史記とか、鴇野雄一郎とか、丹波光彦とか、岡敏郎なんて知っていますか?」
「え、ええ、知っています」

――推理作家、投資会社社長、料理の超人、世界的な精密機器メ―カ―の㈱リ―ドの社長、最近、勝ち組とされている人達だ。さっきから話題になっているし、本人にも出会った。

「彼らは、お諸仏さんの力で、あの地位を手に入れたんですよ」
髭の男はこともなげに言った。
――そんな馬鹿な!

昌義の表情を読んで男は、慌てたように、
「本当ですよ。その証拠に、神楽坂史記と丹波光彦は、今日、来ています。
さっきの、グローバルラインの金沢陽子と漫画家の大楠碧子でしょう?」

昌義は「はあ……」と気の無い返事をする。
「彼女たちも、その一人です」

――嘘だろ?三億がお諸仏のおかげ?

「確かに金沢陽子さんと大楠碧子さんと言っておられましたが……しかし、丹波光彦って……?」
「私ですよ」
男は軽く手を上げる。

「あ、あなたが?」

男はポケットから名刺を取り出し、昌義に渡した。
「『カルヴァドス』……これがお店の名前ですか……?」

「ぜひ、代官山の本店にお出かけください」
「ありがとうございます、あ、私……」
昌義はポケットを探ろうとし、舌打ちする。
「すみません、ちょっと、名刺を持ち合わせていなくて……
私、愛知県から来ました山田です」
「山田さん、よろしく」
丹波は彫りの深い整った顔を崩し、にっと笑った。
普段の整った表情が崩れ、子供のように無邪気な笑顔だった。
そして、外人のように握手の手を差し出す。

「よろしくお願いします。
で、丹波さんは、今年、何を願いに来たんですか?」
握手しながら、昌義が話を合わせると、丹波は
「いや、願い事を適えてもらえるのは、一生に一度だけです。
私はお諸仏さんに会いたくて来たんですよ。願いを適えていただいた御礼にね」
「適った、んですか?」
昌義は、言葉に詰まる。この話は本当なのか?

「ええ」
さらっと丹波は答える。
「僕は、料理の世界で、一番になりたいと願ったんです。
そうしましたら、あのコンテストです。
超人のタイトルを手に入れて、店も半年の予約待ちリストがあるし、世界中から、出店の依頼は来るし大繁盛です。
でも、この三日間は、何があっても空けていました。
お諸仏さんに、この喜びを語ろうと……
お諸仏さんはきっと、喜んでくださるはずです」

――この男がおかしいのではないとすると、本当なのだろうか?

信じてよいものかどうか、昌義が悩んでいると、ロビーを通りかかった支配人が、丹波の姿を見つけて寄って来た。

「丹波先生、お探し申しあげておりました。
先ほど、岡様のご夫人がご到着されまして、只今、食事をなさっておられます。
よろしければ、後でお話をとおっしゃっておられますが」
「ああ、いいよ。岡社長は今年、来られなかったんだね」
「はい、海外にご出張中とのことで……」
「それでは、ご挨拶に伺おう」

丹波は昌義に会釈して立ち上がりかけ、何かを思い出したように昌義を見る。
「岡夫人は『絵画の貴婦人』と称される素晴らしい美人ですよ。
楽しみにしていてください」
軽く会釈して丹波は歩き出した。

「シェフも、ぜひ、丹波先生にご挨拶をと申しております」
支配人は丹波を案内しながら、そんなお追従を言っている。

――岡って、あのリードの社長の岡敏郎か?
願い事の適った本人がいるもんなあ。
馬鹿には出来ないよなあ。
本当なら?……俺だって、その候補者だ。
もしかしたら、俺も、今のこの煮詰まった状況から抜け出ることが出来るかもしれない。

昌義は、もっと、詳しく話を聞きたいと思ったが、丹波は支配人と一緒にダイニングの中に入っていく。
二人を見送って、昌義は部屋に戻ろうと立ち上がる。

美奈子には、お諸仏さんのことは話さないことにした。
現実主義の美奈子がこの話を信じるとは到底思えない。
だが、フォ―マルな装いを、皆がし続けるのなら、それは、手に入れなければならない。

昌義はフロントに寄ることにした。
小柄な女の子が緊張した表情で近づいてくる昌義を見ている。
まるで話しかけられるのを恐れているような表情をしているのが気になったが、とにかく、ドレスを売っていそうなところを見つけなければならない。

「あの、皆さん、フォ―マルな装いなんで、私らは肩身が狭くてね。
どこか、この近くで手に入るところは、ある?」
「盛岡か秋田まで行かれれば、たいていのものは手に入りますが……」
フロント係は緊張した顔で、早口で答える。
「田沢湖駅からは、秋田にも盛岡も、新幹線で三十分くらいで行けます」
彼女は律儀に付け足した。 


昌義はご機嫌で部屋に入り、和室を覗いてぎょっとした。
――ジェイソンだ!

美奈子は布団の上に座り、顔全体にパックを貼り付けている
どうやら普通の格好で他のホテルの宿泊客には会いたくないらしく、もう、派手なピンクの花柄のパジャマに着替えていた。
もう、一歩も部屋から出ないつもりらしい。

「美奈子、明日も、皆、フォ―マルな格好でディナーを取るらしい。
ここでは、そういうのが暗黙の了解みたいなんだ。
美奈子がいやなら、別の宿を予約するよ」
昌義は優しそうな声を意識して出した。

「フォ―マルな格好をすればいいんでしょ。
そんな、こそこそ逃げるようなこと出来るもんですか。
明日、買いに行くわ」
パックをしたまま美奈子は鼻息を荒くする。

「じゃあ、玉川温泉は……?」
「そんなの、午前中に買い物を済ませて午後から行くのよ」
「分かった」
昌義は素直に従うことにした。

「明日は早いから、もう、寝るわ。あなたも早く寝なさいよ」
そういうと美奈子はパックをしたまま、布団に横になる。

だが、この点では美奈子に従うわけには行かない。
――もう少しお諸仏さんの情報を手に入れなければ……
昌義はジャケットのポケットに名刺と金を突っ込むと、煙草を手にした。
「バ―で一杯やらないか?」
わざと美奈子を誘う。

「お酒?」
布団をかぶった美奈子はパックが突っ張るのか、ろれつの回らない声を出した。
「ああ」
「なんだか、眠くって仕方ないの」
そう言いながら、あくびをする美奈子に昌義は安堵する。付いて来られたら困るのだ。
「じゃあ、先に寝ていてくれ、僕は、もう一服してくるよ」

「や―ね。あなた、煙で出来てるんじゃないの」
トイレを済まして、部屋を出ようとしたときには美奈子の鼾が聴こえてきた。
パックをしたまま眠っている。

昌義は美奈子を起さないようにそっと部屋を出た。
それと同時に、向かいの部屋から、藤色のドレスの女性が出てきた。
ほっそりとした、泣き顔のような憂いのある大人しそうな中年の女性だ。
丹波光彦と一緒に居た女性だ。奥さんだろう。

丹波夫人は軽く昌義に会釈をすると、奥の部屋に向かう。
一番奥の部屋をノックすると、中から、女性が出てきた。
さっきのディナーの席にはいなかった女性だ。
――岡夫人?

エレベーターを待ちながら、昌義は見るとも無くこちらに向かって歩いてくる二人の女性を見ていたが、近くに来たその女性を見て、眩暈を起こしそうになった。

岡夫人は薔薇色のドレスにダイヤモンドのネックレスを着けていて、顔全体が光り輝いて見える。
30半ば位と昌義は思ったが、いや、たしか40代のはずだと思い直した。
――ダイヤは間違いなく本物だろうなあ。
ドレスの袖や裾は繊細なスワト―刺繍になっていて、まるで消えるように終わっている。
昌義にはまるで服が身体に溶け込んでいるように見えた。

大きな瞳、明るい唇、白く輝く顔、艶々とした絹の光沢のむき出しの肩。
彼女のいる場所はスポットライトを当てられたように輝いている。
エレベーターの開ボタンを押したまま、昌義は二人の到着を待った。
さっきのエレベーターの残り香が近づいてくる。
やはり、あれは彼女のものだったらしい。
「名画の貴婦人」と言うのは嘘じゃないと微かにため息をつく。

「一階で宜しいですか?」
昌義が我に返って尋ねると、
「すみません、二階を」
丹波夫人から答えが返ってきた。

「二階には、何かあるんですか?」
二人の女性は顔を見合わせる。
「二階には、バ―とダンスホ―ルがありますの」
丹波夫人が答えた。
「へえ、行ってみようかな。誰でも入れるんですか?」
「ええ、宿泊客なら大丈夫ですわ」
岡夫人は、何も答えず、もっぱら、丹波夫人が答える。

エレベーターのドアが開くと、名画の貴婦人は、当然のように先に降りた。
後から、丹波夫人、そして、昌義が続く。

照明が抑えられた廊下に、ジャズのナンバ―が漏れ流れている。
どうやらバンドが入っているらしい。
廊下にドアマンがいて、重そうなドアを開けてくれた。

中に入ると、部屋の正面にステ―ジがあり、生バンドの演奏で黒人の女性ボ―カリストが歌っていた。
気だるい本格的なジャズを歌っている。
ステ―ジを囲むように、小さなテーブルがあり、キャンドルが灯り、飲み物が置かれている。
客はステ―ジに向かって座っている。

岡夫人たちはステ―ジの正面の丹波が座っているテーブルに案内された。
昌義は若いカップルの席の隣、部屋の左隅に案内された。
そこしか空いている席はなかったので、仕方がないと納得した。
いかつい顔をしたカップルの男性は、結構、愛想良く昌義に会釈する。

水割りを注文する。どうやらここは禁煙らしい。
テーブルの上に灰皿は無かった。
手持ち無沙汰に、歌を聴きながら客を観察する。
宿泊客はほとんど揃っていた。

大楠碧子は連れの女性と一緒に丹波の右隣に座っていて、軽く会釈をする。
その横にはあの少年たち三人組までいる。
もちろん、酒ではないだろうが、茶色い液体の入ったゴブレットが、テーブルに置いてある。
彼らは大人しく、ジャズを聞いている。
いまどきの高校生が珍しいと昌義は思う。
今年の新入社員と、歓迎会で話したとき、共通の話が無くて困った。こんなジャズなど彼らは聴いていないだろう。
 
丹波の席の後ろで、金沢陽子は一緒に食事をしていた男性と楽しそうに語り合っている。
昌義が神楽坂史記と思った、地味なメガネの女性はいない。
仕事をしていると陽子が言っていたのは本当らしい。

――それにしても、鴇野雄一郎、神楽坂史記、岡敏郎、丹波光彦の成功がお諸仏さんのお陰だとすると、すっげえ仏様だ。

鴇野雄一郎、自己破産して何もかもなくした男が、たった十年足らずの間に三十億もの資産を作ったって?
神懸りとしか思えない。

神楽坂史記が、中国の砂漠から、ミステリ――大賞に応募して、若干二十六才で大賞を取ったのも、兄にお諸仏さんを教えられた結果なのか?

岡敏郎の成功は、あの目の前の名画の貴婦人と結婚したときから始まった。
一研究員に過ぎなかった彼が、あんな美人でリ―ドの創業者一族の娘と結婚した。
だが、そのとき、創業者一家には、長男がいたはずだ。
そのままでは、彼の社長の目は無かっただろう。
だが、その長男一家は、彼らが結婚した翌年、交通事故で一家全員亡くなった。
岡敏郎を阻むものはなくなったのだ。これも神懸りといえよう。

それから、丹波光彦、彼自らが、あの超人コンテストでグランプリを取れたのはお諸仏様のお陰といっている。

「やはり、お諸仏さんのお陰だろうか?」
「そうですよ」
昌義は、声を出して言っていた自覚が無かったので、誰かが相槌を打ってくれて、驚いた。

慌てて振り向くと、隣のいかつい顔の青年が頷いている。
「…………?」
「華楠のことでしょ?」
「カナン……?」
――ああ、あの女の子は……
昌義は、碧子の連れの若い女に目を向ける。

――そうだ、あの女は、最近売り出し中の歌手、十九才にして今世紀最高の歌姫と評判の華楠だ。

ちょうど曲が終わり、黒人ボ―カリストがステ―ジから華楠になにやら話しかけている。
華楠は手を振って、断っていたが、やがて、説得されて、ステ―ジに上がった。

「今日は、ろくに発声練習もしていなくて、お恥ずかしいんですけど」
と、拍手に勿体をつけて、バンドになにか指示する。
突然、アカペラで「サマ―タイム」が流れた。
素晴らしい歌声だということは、ジャズの素養の無い昌義にも分かった。
やがて、バンド演奏が始まる。
華奢な身体の何処からこんなに迫力のある声が出るのだろう。 
彼女自体が一つの楽器でもあるかのように、澱みない歌声が部屋を満たしていく。
見えない液体に浸されていくかのようにその歌声はその場にいる者の全身に沁みていく。
昌義には名前も分からない曲を三曲歌って、華楠はステ―ジを降りる。
一同はぼうっとしていて、華楠が席に座ろうとする頃に、漸く拍手が起こった。
皆、言葉にならない喚声で賛辞し、拍手はしばらく鳴り止まなかった。
昌義もその圧倒的な歌唱力に雑念を忘れて拍手していた。

華楠がステ―ジを降りると、演奏はしばらく休憩になるらしく、部屋のライトが少し明るくなり、席を立つものもいた。
昌義も席を立って、一服しに外に出る。

廊下のエレベーターと反対側の突き当たりにドアが見える。
そこがダンスホ―ルらしい。
そのドアの前の廊下に向かい合わせにソファが二つとスタンド式の灰皿が置いてあり、丹波光彦と金沢陽子、大楠碧子、中年男性が座って一服している。 
彼らは相変わらず、ドレスアップしたままだ。

男性二人が右側の席に座っているので、「失礼します」といって、昌義は中年男の隣に座る。

「あら、山田さん、奥様は?」陽子が馴れ馴れしく声を掛けてくる。
少しほっとして、昌義は「もう、寝ました」と答えた。
奥に座った丹波が
「それは良かった。どきどきしましたよ」とお道化けて言う。

到着早々、美奈子にシガーのことで文句を言われたのを皮肉ったのだろう。

「そうだわ、山田さん、坂田先生とは、まだ、ご挨拶されていらっしゃらないでしょう?」
陽子が昌義を振り返る。
坂田先生というのは、どうやら、もう一人の中年男性のことらしい。
「はあ、まだですね」
隣の男に、昌義は黙礼する。男もタバコを吸いながら黙礼を返す。

「坂田英次先生、東都大学経済学部の教授をなさっていらっしゃいますのよ。
それと、ご存じかしら? 英明塾。
起業家のためのセミナ―を開いていらっしゃるんです」

昌義は、自分でも、声のト―ンが上がったのが分かった。
「坂田先生でしたか?お世話になります。
来月の信金連合セミナ―は先生が講師をしていただけるんですよね?」
中年男は、タバコを消しながら
「ああ、全国信用金庫連合のセミナ―ね。それでは、お宅は信用金庫の関係の方ですか?」
「山田様はね、信用金庫の支店長さんなんですって」
碧子が答える。

昌義は急いでポケット探り、名刺を取り出し、坂田に渡す。
そのついでに、丹波、陽子、碧子にも渡していく。
「そうですか。たしか、今回の会場は名古屋でしたね。お世話になります」
「い、いいえ、こちらこそ、こんなところで、先生にお目にかかれるとは、光栄です」

「お宅も、お諸仏さんに会いにいらしたんですよね?」
坂田が、さりげなく言う。
昌義は音がこの場の全員に聞かれてしまうのではと思うほど、胸がどきどきしてきた。
坂田のような大学教授でさえも、お諸仏目当てで、こんな山の中にきているのだ!

「いや、私らは、偶然です」声が震えた。
「偶然、それはすごく幸運な方だ。こんな時に、偶然、このホテルに来るなんて……」
坂田が目を見張る。
「お諸仏さんというのは、そんなに霊験現たかな仏さんなんですか?」
昌義はタバコを吸うのも忘れて問いかける。
四人が、四人とも、黙って頷く。

「それでは、坂田先生も?」
「僕は、二十年まえ、学生のころに、偶然、このホテルに泊まったんですよ。
そのときから、僕の人生は変わりました」
坂田の言葉に、碧子も丹波も陽子も、意味ありげに微笑む。

「山田さんもこんな時にここに来たのは、お諸仏さまのお導きですわ。
ぜひ、願い事を適えていただくとよろしいわ」
陽子の言葉に、昌義は思いっきり頷いた。
「そうですね……で、どうすれば良いんです?」

「お諸仏さんのご利益を受けられるのは、一年に一人。
まず、今年はお諸仏さんに指名されることが大事。
指名された人は、次の年の満月の夜までに、願い事実現のために努力する。 
お諸仏さんのおめがねに適えば、願い事は適うし、お気に召さなければご利益は無い」
碧子が淡々と説明する。

「願いって……?」
昌義が問い返したとき、若いボーイが呼びにきた。
「第二部が始まりますので、お集まり願います」
皆、急いで席に戻ろうと立ち上がる。
昌義は、碧子を引きとた。
「今回、初めての人は、誰ですか?」
碧子はにっと笑う。白く綺麗な歯並びがこぼれた。
「ライバルは、あの三人組と若いカップル、丹波夫人、それに、あなたの奥さんよ」
「それでは、ほかの人は……?」
「去年の指名者は、華楠。私が連れてきたの」
碧子は急いで、バ―に戻っていく。
昌義は震える手でタバコに火を点け、咽込んだ。

――ついに、俺にもツキが回ってきたと思って良いのか。
しかし、この話はドッキリテレビとかじゃないのか?

昌義は思わず、辺りを見回した。カメラらしいものは見当たらない。

――もし、願いが何でも適うなら、俺は大金持ちにもなれる。
そうすれば、美奈子の顔色を見ながら生きなくて済む。
美奈子には金を与えておけば、文句は言わないだろう。
好きなことが出来る。
もし、これが本当なら……
なんとしても、お諸仏さんに指名されなければ……
それにしても、選ばれる基準は何なのだろう?
傾向と対策は?

昌義がバ―に入ると、皆が乾杯をしようとしているところだった。
隣のカップルの青年に「何の乾杯ですか?」と聞くと
「華楠さんの海外デビュ―が決まったのと、碧子さんが漫画のT賞を受賞したお祝いですよ」
青年は自分のことのように誇らしげに言った。
「T賞?」
「漫画の世界では直木賞みたいなものだそうです」
「ふうん、直木賞ねえ」
「お諸仏さんはやっぱり凄いなあ」
いかつい顔の青年はため息をつく。

乾杯が終わり、また黒人歌手がステ―ジに出て歌いだす。
静かなジャズのバラ―ドが流れ出す。

昌義は陽子がこの若いカップルをライバルといっていたのを思い出し、探りを入れることにした。
声を潜めて話しかける。
「そうそう、申し遅れましたが、私は山田といいます」
ポケットから名刺入れを取り出し、一枚、青年に渡す。
「あ、オレ、大野雅文です。彼女は理沙」
名刺を受け取り、昌義の肩書きを見ても、青年は興味が無いようだった。
自分の名刺を出そうともしない。

「お宅たちは、やはり、その、満月の……?」
「ええ、ウチのおじさんたちが、ぜひ、行って来いというから来たんですよ」
大野はあっさりと肯定する。

「おじさんたち……?」
「ええ、おじさんとおばさん、八年前に、事業に失敗しましてね。
小さな電気屋をやっていたんですが、量販店に押されて、一億の借金を抱えて、死ぬつもりでこの辺を彷徨っていたらしいんです。
偶然、このホテルに泊まって、お諸仏さんに宝くじに当たりますようにってお願いしたんですよ。
そしたら、何か、課題を出されて……疑いながらも、死に物狂いで頑張ったら、十ケ月目に宝くじに当たったんですよ。
一等前後賞あわせて、三億円」
「三億円!」

昌義は、二回も出てきた三億円という額に、その札束を思い浮かべた。
仕事柄、そんなものは一般人よりは見慣れているが、自分のものである三億円となると話は別だ。
つい、興奮してしまう。

大野は話を続けている。
「それで、借金はすべて無くなり、今は、悠々自適の生活です。ハワイで静かに暮らしていますよ」
「うらやましい話だな」
唸るように昌義は言った。大野も頷く。
「僕らは、互いの両親に、結婚を反対されていて、おじさんに相談したら、お諸仏さんに頼んでみろといわれて」
「それでは、願い事は結婚できるようにということですか?」
大野と理沙は、顔を見合わせて、嬉しそうに頷く。

昌義は、そんなもので、お諸仏を使うなんて……といいかけて止めた。
若い彼らに結婚の無常を言ったところで馬の耳になんとやらだ。

「山田さんはどんな願い事ですか?」
「どんなって?」
昌義は言葉に詰まった。
煮詰まった状況から抜け出したいとは思っていたが、具体的な願い事は考えていなかった。
「まあ、いろいろと……」
言葉を濁したが、黒人ボ―カリストの気だるい声を聞きながら、自分の願いというのを考えてみた。

漠然と今の状況から逃げ出したいとは、常々思っていたが、果たして、願いなどあったのだろうか?
金が欲しい、無ければ、これ以上やっていけない。
だが、それは願いとは違うような気がした。

その夜、昌義はかなり飲んだ。
ふらふらと酔っ払って部屋に帰ろうとして、ドアを開け、電気を点けようとしたが、点かない。
「あれ、変だな」
「何、なさっていますの」
冷たい声が聞こえた。
神楽坂史記と、昌義が思っている女性が後ろに立っている。
「そこは私の部屋です」
「あ、それは申し訳ない、間違いました。
あ、でも、この部屋、電気切れていますよ。フロントに連絡しましょうか?」
「わざと暗くしていますので、どうかお構いなく」
そういうと女性は、中に入り、鍵をかけた。

「なんだかなあ、やはり、作家というのは変人が多いんだな」
そう言いながら、隣の部屋のドアを開け、中に入ると、聞きなれた美奈子の鼾が聞こえてきた。
そこで意識が途切れた。

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November 02, 2004

満月伝説 #2 ディナー

初回へ ― 次回へ

客が少ないのは、大浴場が使用不可のせいか、あまりにも古ぼけているせいか、と昌義はロビーを見回す。
ロビーには人がいない。静かだった。表も薄闇に包まれ始めている。

昌義が一本目のタバコを吸い終えると同時に、新しい客が、タクシーで着いた。
客は二人連れ。
真赤なスーツを着た派手な顔立ちの貫禄のあるロングヘアーの女性と、地味な紺のスーツにおざなりな化粧をし眼鏡を掛けたショートヘアーの女性で、女社長と掃除のオバサンという感じだ。

ベルボーイが大きなヴィトンのスーツケースを三つも運んでいる。
通り過ぎる女性たちのほうから、強い香水の匂いが漂ってきた。
女社長が付けているのだろう。

ふと、その香りに、亜里沙を思い出す。
「昌義さん、本当なの? 奥さんと旅行なんて……
二人で旅行なんて、やはり、奥さんのこと愛しているのね?」

大田と別れた後、亜里沙と待ち合わせて部屋に行くなり、亜里沙はそう言って泣いた。
「そんなことないさ。あいつは言い出したら聞かないからね。
僕が愛しているのは君だけだ。心配しないでくれ」
その切なげな泣き顔に、胸を締め付けられ、昌義は亜里沙の肩を引き寄せて抱いた。
細く白いうなじが目に入り、愛おしさに腕に力が入る。
亜里沙は小学校の頃、実母を亡くし、後から来た継母に虐められて、毎日泣いていたと話したことがある。
高校卒業後、デパートで化粧品販売の仕事につき、家を出た。
「本当にビンボーだったけど、その時、この世の中にこんな幸せがあるかしらと思ったわ」
そういう亜里抄の横顔を見て、
――この女のためなら、何でもできる。と、昌義は思った。
それだけの価値のある女だ。妻の不機嫌な顔を忘れさせてくれる、癒しの存在。

去年の冬、海の側の埋立地に建築中の高級マンションを見て、亜里沙が、「あんな素敵なマンションに住めるのはどんな人かしら」と呟いた時、昌義は何が何でもそのマンションの一室を手に入れようと心に決めた。 

「そんなものいらないわ。あなたがいてくれればそれでいいの。無理しないで……」
健気なことを言った亜里沙。
「無理なんかじゃない。心配するな」
マンションの部屋を見て、亜里沙は本当に喜んだ。

昌義はマンションを買ったことを後悔していない。
だが、やはり、年収の3倍の価格のマンションは無謀な買い物だった。
その支払い金を捻出するために、昌義はかなり危ない橋を渡っている。

それでも、喜ぶ亜里沙の顔を見るのが嬉しかった。
彼女を守ることが、生きがいのように思えた。
そのためには、どんなことも我慢できる。
不機嫌な怪物のご機嫌取りだってする。

「あなたがいなくなったら、私、生きていけないわ」
亜里沙の声が甦る。
もう、一日たりとも、あなた無しでは生きられないという亜里沙。
それは昌義も同じだった。
「亜里沙……」
昌義の夢想を残して、ランコムのトレゾアの香りが遠ざかる。
 

「黄泉の国に行った恋人や、奥さんを追いかけて、黄泉の国に行った英雄や神様は、決して振り返ってはいけないという言葉を守らず、振り返る。
そして、そのあまりの醜さに顔を背けて、逃げ帰る。
彼女たちの本質は変わっていないのにね。

愛する人を早く見たいと振り返ったというのに、その容姿が醜いというだけで、それまでの試練や努力を捨て去って、愛する人を裏切る。
これが男の本質ね。

男の愛なんて、見かけが変われば変わる。
そして、平気で裏切る。
男は身勝手で、裏切り者と、神話の世界でも決まっているのよ。
で、女はそんな男を恨んで、仇を成すものになるのよ。地獄でね」

「女の人はどうして、夫を迎えに黄泉の国に行かないの?」
「女は、どうして、黄泉の国に出かけないのか?
女はそんなことしても無駄と知っているもの。
無駄なことはしないのよ。
それに、失ったものは、記憶の中にある。
いつも、記憶の中で会うことが出来るわ。自分の都合の良い恋人にね。
記憶の中の愛人は、ちゃんと自分を愛してくれるし、自分を見ている。
だから、サロメはヨカナーンの首を切るのよ。
ヨカナーンが最後に見るのは自分ひとり……」

しゃがれた甘ったるい声が流れる。
その話の内容とその声が、あまりにもミスマッチだったので、昌義は思わず立ち聞きしてしまった。
部屋に帰る前に、もう一服しようと、湖を見下ろすサンデッキに出たときのことだ。

サンデッキには、テント布の新調したばかりらしいけオーニングが掛かり、真新しい木製のガーデンセットが、3セット置いてある。

ロビーの出入り口から、一番遠いセットに、チェックインのときに、ロビーにいた男女三人組が陣取っていた。

その言葉は、その中の大学生くらいの女性が発していた。
後の二人、高校生くらいの少年二人は、けっこう真面目にその言葉を聴いている。
その中の一人など、うっとりとその女性を見ている。

確かに、可愛い女性だが、物凄い美人でもないし、背も低くて子供のような体型だ。
昌義のように、高級クラブのホステスを見慣れている大人には「小娘」にしか見えなかった。
着ているものも、ピンクのTシャツにジーンズという安上がりの格好だ。

少年たちは、行儀良く利発そうな感じで、最近テレビで見かけるJ事務所のタレントのように、スタイルも良く、かなりのハンサムだった。

――変な組み合わせだな。
その思いを声に出していったつもりは無いが、そう思った途端、彼らは一斉に昌義のほうを振り返った。

「え、いや、立ち聞きするつもりはなかったんだが……」
つい、言い訳をしてしまう。
こんな子供たちを無視するのは簡単だが、なぜか、そう出来なかった。

「面白い話をしているんだね、君たち、学生?」
三人は顔を見合わせる。
その中の一人、華奢で可愛い顔をした少年が答える。
「僕と彼は高校生です。彼女は社会人ですけど……」

太い丸太のサンデッキの手すりにもたれたまま、昌義は「そう、この辺の人じゃないみたいだね」と聞いてみる。
「僕ら、東京からです。おじさんは?」
話はもっぱら、華奢な少年がしている。
もう一人の、きりりとした顔立ちの少年と、童顔の女性は黙って紅茶を飲んでいる。

「愛知県から来たんだ」
「ずいぶん、遠くからいらしたのね」
甘くしゃがれた声で女性がようやく、口を開いた。
「隣の奥さんが、この近くに住んでいたらしくてね。
玉川の温泉の湯が、良いということを教えてくれたんだ。
あいにく、あっちは予約が取れなくてね。ここに来たというわけさ。
ウチのは、思い立ったら、即実行の人だから……」

三人は、また顔を見合わせる。昌義の言葉に納得しているのだろう。

「愛知県、どちらですか?
ぼくのおじいちゃんち、蒲郡なんですよ」
また、華奢な少年が訊ねる。
「へえ、うちは蒲郡の隣だよ。
奇遇だな。こんな山奥で、蒲郡を知っている人に逢うなんて」
「そうですよね。なんだか、うれしいな。
ウチのおじいちゃんちは、新しく出来た遊園地の近くなんです」
昌義はなんだか嬉しくなった。
「そう、それじゃ三谷のほうだね。私の実家は竹島のほうだよ」
「あ、行ったこと有ります。あそこ、景色の良いところですよね」
やけに愛想の良い子供だ。
今時の高校生が、こんなに愛想が良いとは意外だった。

少年は声を潜めて問いかける。
「ね、知ってますか?
このホテルに、神楽坂史記がいるんですよ」
「神楽坂史記って、あの作家の?」
「そう。従業員の話を聞いちゃったんです。今日、神楽坂史記が来るって。
でも、どの人が神楽坂史記かわからないそうです」
「ふうん、偽名で泊まっているの?」
「そうらしいですよ」
 
謎の推理作家・神楽坂史記の記事は去年あたり週刊誌を賑わせていた。
普段はゴシップ記事をあまり読まない昌義も読んだ記憶があった。
「週刊誌には、まだ若い女性だと書いていたが……」
「どんな人か、楽しみですね」
少年はニコッと笑う。
昌義は職業柄、有名人や、金持ちとなるとアンテナを立ててしまう。
――神楽坂史記と知り合いになれたら、何かメリットがあるだろう。話の種になるだけでも、メッケモノだ。

「山田様」
フロント係がサンデッキに顔を出す。
「奥様が心配なさっていらっしゃいますが……」
美奈子からフロントに電話が来たのだろう。
フロントの女性は顔が引きつっている。

「同宿のよしみで、また、話をしてください。それじゃ、失礼」
もう少し、話していたかったが、美奈子のご機嫌を損ねるのはまずい。
愛想の良い少年が手を振る。後の二人も会釈を返した。

――それにしても、神楽坂史記と同宿になれたとは……
こんなのボロいホテルに本当にそんな有名人が来ると思えんが……
あの子供たち、俺を騙しているんじゃないか?
だが、本当なら、有名人に逢える。
口笛を吹きたいような気分だった。

神楽坂史記、三年まえのミステリ―大賞受賞者。
その後、次々と新作を上梓して、ベストセラ―作家となった。
そればかりか、最近、実兄鴇野雄一郎の遺産十億を相続したと記事には書いてあった。

――十億、しかも、プラスの十億。
億っていい響きだなあ。
この不況の時代に、十億を貰えるなんて……顔を見てみたい。
昌義は、一時、美奈子の不機嫌な顔を忘れた。


夕食は五千円のお任せコースしかないという説明に、昌義は、一瞬、青ざめた。
しかしこんな山奥で、土地勘も無い身ではどうしようもない。
「当ホテルのシェフのコースは、ご好評いただいております」
フロントの若い女性の言葉を信じるしかなかった。

ロビーの奥のダイニングに向かいながら、美奈子はぶつぶつ文句を言い続けた。
「こんな山の中のこんなホテルで美味しいとは思えないわ。
山菜定食とかじゃないでしょうね?
私、山菜とか川魚とか蕎麦なんて、いやよ」
美奈子の言葉に、昌義も不安を抱かずにはいられなかった。

さらに驚いたことに、用意されたテーブルは七つしかなかった。
広いダイニングの中央に大きなアレンジメントが飾られた十人は座れそうなテーブルがあり、その周りに4人がけのテーブルが配置されている。
ダイニングに入ったのは、昌義たちが一番乗りだった。
各テーブルにはキャンドルが灯り、カットグラスにバラの花が飾ってある。結構、雰囲気は良い。
最初のコンソメスープを一口飲んで美奈子が思わず声を上げた。
「嘘みたい。こんなホテルで、こんなに美味しいスープが飲めるなんて」

スタイルの良い細面のソムリエが注いでくれたワインも美味しくて、美奈子はますますに上機嫌になっていたのだが、それも、他の客たちが入ってくるまでの話しだった。
係にそれぞれの席に案内される彼らの服装に、二人は唖然とした。
美奈子はス―プのスプ―ンを取り落としそうになった。

たかがこんなホテルのディナーと思っていたので、昌義も美奈子もリラックスできるカジュアルな服装だった。
昌義はポロシャツにチノパン、美奈子はシンプルなアンサンブルにパンツという格好だったのだが……

次々にダイニングに入ってくる他の客は、ブラックタイとロングドレスといういでたちで、温泉宿特有の浴衣姿のおじさんなど一人もいなかった。
昌義はホテルからの案内のどこかに、ブラックタイディナーだと書いてあったかと思い返したが、そんな文章は無かったと改めて思った。

二人は突然場違いになってしまった自分たちの服装を恥ずかしく思いながらも、出てくる料理の美味しさについ食が進んだ。
コンソメ・ス―プ、ホタテとエビのジュレ寄せ、キンキのポワレ、牛フィレと香草のグリエ、リンゴのシャ―ベットをメインに三種類のケ―キやパイが盛り合わせてあるデザ―ト。
どれもが今まで食べた経験のない味だった。
同じ食材で、同じような料理を食べた記憶はあるが、比べ物にならない最高の味だった。
この料理だけでも、このホテルにして良かったと、しみじみ思えるほどだ。

ふと、昌義の耳に後ろの会話が入る。昌義の後ろはあの三人組だ。

「……たとえば、百m走で、一生懸命に走っていたとする。
二十mくらいも走れば、差は歴然としてくる。
トップを走っている人間は自分がトップであることを自覚する。
高揚した気分で走っていると、七十mくらいのところに大きな穴が開いていて落ちてしまう。
落ちて足を挫いて、もう、走ることは出来ない。

トップがいなくなって、二番手はこれ幸いと頑張る。
でも、今度は七十五メートル位で、同じように落ちる。
三番手は八十メートルで落ちる。みな、どんなに頑張っても完走できない。

次のグル―プはそれを見ていて、用心して走る。
でも、どんなに用心しても、穴があって、完走できない。

その後のグル―プはそれを見ていて、そうか、完走は出来ないのだと、思ってしまう。
それなら、全力疾走して、骨折するのは馬鹿らしい。
そこそこ、走って、落ちる手前でリタイヤしよう。そのほうが賢いと思う。

成功したモデルが必要なのはどの世界でも同じ。
成功者の幸せそうな顔を見て、人は妬むし嫉む。

だけど、あの人が出来るなら、自分だってという意欲と自信も与えて貰える。
誰も成功しない、誰も幸せになれない世界は、生きる力を失わせる。

そこで、頑張っている人の頑張り度が、高ければ高いほど、無力感を増幅する。

あんなに頑張っても、あれ程度にしかならないなら、やるだけ無駄だと、思わせてしまう。
今の日本の状態は、まさにそうよね。
無力感に、生きる力が失せてしまうの。集団自殺は、時代の犠牲者よ」

彼らの席には、まだ、グリルが運ばれたばかりだった。
舌で蕩けるフィレ肉を口に運びながら、あの小娘はまるで演説さながら、一方的に話している。
少年二人は、その話を聞きながら、ときどき、ちゃんと頷いたり短い合いの手を入れている。

小娘はノ―スリ―ブのシンプルなサテンの真紅のロングドレス。
胸には大きなダイヤモンドが真ん中に入り、周りに真珠を廻らせたバラを模った飾りつきの友布のチョ―カ―をしている。
あんな大きなダイヤが本物だとは思えない、偽物に違いないと昌義は決めてかかった。
だが、小娘と思っていたが、ちゃんと化粧をし、そんな格好をすると、それなりに気品もあり可愛い顔立ちの女の子だった。

高校生の男の子二人も、ちゃんと、タキシードを着ている。
彼らほど、タキシードの似合う高校生も珍しいだろう。
スリムな体型にサッシュが良く似合って、へたなタレントよりも輝いて見えた。
もともと、彼らは顔立ちがよいし、つるつるの肌をして、今はやりのメンズエステにでも行ったような顔をしている。
背の高いほうの少年はさらさらの長めの前髪が印象的で、もう一人は女の子顔負けの可愛さだった。

その二人に比べると、女の子はちょっと可哀想だった。
百五十センチそこそこの小柄な体型、可愛いが子供っぽい顔。
しかも、その顔に似合わず、話している内容は変なことばかりだ。
見かけとはかなり違う。

――それにしても、あいつら、どういう組み合わせだ?
この時期に、こんな山のホテルに、どうしてあんな子供たちが着ているんだ?
もしかして、今、流行の、インタ―ネットで知り合った自殺志望同士?
とすると、女が、少年たちを誘って、自殺を持ちかけているのか?

「あなた、あなたったら!」
美奈子のきんきんした声が耳に入った。どうやら、少し前から、昌義を呼んでいたらしい。
「どうした?」
「ね、聞いた?」
テーブル越しに身を乗り出して、およそ遠慮というものをしない美奈子が驚くべきことに声を潜めて話している。
「何を?」
つい、昌義も小声で答える。
「私の後ろの人たちの会話、聞いた?」
「いや」
「このホテルに、料理の超人の丹波シェフがいるというのよ」
「丹波シェフ?」
「あら、知らないの?」
むっとしたような美奈子の表情に、
「料理のことなんか、僕に分かるわけないだろう」
あわてて言い訳する。
「この前、『世界の料理の超人』で、超人になったフレンチの代表よ。
あなたも一緒にテレビ見たじゃない」
昌義にはそんな記憶は無かった。
美奈子のご機嫌とりで、たまに一緒にテレビを見るが、美奈子の好きなファッションにグルメ、歌番組には興味が無い。
その時は、見ているような振りをして、亜里沙のことでも考えていたのだろう。

「東京の代官山の店は、予約三ヶ月待ちのカリスマシェフよ」
「よく知っているね」
「あのあと、すぐに予約したのよ。そしたら、そんなこと言うのよ」
「ふうん、で、止めたのか?」
「まさか、予約したわよ。来月の十一日のランチ。夜だと、もう少し先になるから」

俺が必死で、理事長のご機嫌取りや、部下を叱咤激励しているときに、こいつは三ヶ月先の昼飯の心配か、と昌義はうんざりする。

「そんな凄い人が、この古ぼけたホテルに何をしに来ているんだ?」
「そんなの、私に分かるわけないじゃない」
「もしかして、この料理はその名人が作ったのかな」
機嫌が悪くならないように、昌義は話を合わせる。
「何、馬鹿なこと言ってんのよ。
あの人が料理したら、一人前三万は下らないわ。
このホテルの五千円の夕食コースで、そんなことあるわけ無いじゃない」
「確かに……」
「そういえば、こんなところに、泊まりに来るのも考えられないわ」
「いや」
昌義はさっきの少年の話を思い出した。少しはポイントを稼げるかもしれない。
「このホテルは、結構、侮れないかもしれないぞ」
「なんでよ?」
「さっき、神楽坂史記が泊まっているっていうのを聞いた」
「うそ―」
美奈子の大きな声にひやひやしたが、皆、こちらを無視している。

美奈子は、さりげなく、客たちを見回す。
この客の中にいるとすれば、すぐに分かりそうなものだが、それらしい人物は見当たらなかった。

出口から一番近い席、美奈子の後ろには、女の二人連れ、姉妹には見えないが親しそうに話している。
グリ―ンのドレスを着た背の高い理知的な女性と、黒のドレスの痩せた若い女性。
若い女性は化粧気がないが、素肌が輝いている。どこかで見たような気がしたが、思い出せなかった。 

美奈子の左横は、中年の男性と例のいかにも切れ者そうな派手な女性と地味な女性の三人組。
男はタキシードにブラックタイ。
派手な女性は納得のオレンジ色に大胆なグレ―の模様のドレス。
地味な女性のほうは納得の紺のシンプルなドレスを着ている。
もっぱら、派手な女と男が談笑し、地味な女は黙々と食事をしている。

右横は用意されているが空席だった。

昌義の左横は中年の銀縁の眼鏡を掛けた髭の男性と同年輩の女性のカップル。
あの、美奈子がシガーに文句をつけた男性だ。
アカデミ―賞に出席する個性派俳優のように、彼にはタキシードが似合っている。
同伴の女性も上品な藤色のドレスを無難に着こなしている。

昌義の右横はいかつい顔のがっしりした体型の男性と賢そうな現代的な美人の若いカップル。
二人とも二十代だろう。
男性は体格も良く、いかつい顔をしていて、ブラックタイが窮屈そうだ。
女性はサ―モンピンクのドレスが可愛さを強調している。

昌義の背後があの若者三人組。

神楽坂史記が鴇野雄一郎の妹だというのなら、三十八才以下でなければならない。

――髭の男の同伴の女以外はなんとか当てはまるな。
あの若いカップルの女か、ぎりぎりのところであの二人組の女たちのどっちか。
金持そうに見えるという点では彼女たちが怪しい。
まさか。あの小娘とは思えない。あんなのとても億万長者の推理作家には見えんぞ。
それにしても、やはり、大浴場のせいで、キャンセルが多かったのか?
古ぼけているといっても、大きなホテルだ。
そんなところに、たった七組・十四人しか客がいないとは。
従業員のほうが多いじゃないか。
そういえば、このホテルの従業員は、やけに、若い子が多いな。
フロントの女も、掃除をしている女も、食事を運んでいるウエイターも、まだ、学生みたいな若さだ。
もしかして、経費節減のために、フリ―タ―で営業しているのか?

想像をめぐらし、昌義は美奈子との食事中だというのに、なんだか楽しくなった。
「何か良い事あったの?」
ニヤニヤしている昌義に美奈子は不審気な目を向ける。
「いや、別に……」
そのうちに、どの人が神楽坂史記か聞きだす機会もあるだろうと昌義は思う。

三十代半ばの、背筋の通った細身のタキシード姿の男が、入り口でダイニングを見回し、一礼すると、つかつかと昌義たちのテーブルにやってきた。

「山田様、本日は、当田沢湖高原レリーブドホテルにご宿泊いただきましてありがとうございました。
支配人の迫田でございます」
この年で、支配人というからには、よほどの切れ者か、自分のようにオーナーの身内なのだろうなどと、昌義は考えてしまう。
「大浴場が使用できず、申し訳ございません。
食後にバスを出しますので、よろしければお近くのホテルの温泉にご案内いたしますが……」
「いや、いいよ、今日は。明日、玉川温泉にいくから」
「それでは、ほかの湯に入るのは止められたほうが良いでしょう。
あそこの湯は、格別に強ようございますので。
ディナーはいかがでございましたでしょう?」
「こんな美味しいお料理は初めてですわ」
美奈子はうっとりと、その支配人を見上げながら、最近、昌義が聞いたこともない優しい声で答えている。

よく見ると、支配人は、少し釣り気味の目は涼しくあごは尖っていてすっきりとしたハンサムなのだ。
細身の長身で、目元の涼しい、整った顔立ちが、美奈子の好みなのだ。
彼の容貌に、うっとりしているのだろう。
昌義も若い頃はそうだったが、最近、腹も出て、あごも丸くなってしまった。
そうなると、美奈子は昌義に興味は無くなり、最近は悪友たちと上京しては歌舞伎町のホストの元に通っているらしい。
美奈子から気持ちが離れたのは、美奈子の病気が原因で子供が出来なくなったことでギクシャクしたのもあったが、それも一因だった。
友人との電話でそのことを話しているのを立ち聞きして、美奈子に抱いていた幻想が崩れたのだ。

「当ホテルのシェフは、若手ですが、素晴らしい腕の持ち主です。
お気に召して頂いて光栄でございます」
「こんなに、美味しいお料理なのに……ぼろ、いえ、あの、やはり、大浴場のせいで、キャンセルが出たの?」

さすがの美奈子もこのホテルがぼろだからと言う言葉はこの支配人には言わないんだと昌義は苦笑する。
支配人は真面目な顔で台詞のような言い回しをする。
「いいえ、キャンセルはございません。
定員が一杯なのです。月が満月に近づいておりますから……」
「…………?」
美奈子は怪訝そうな顔をしたが、支配人はその言葉の説明をせずに、にっこりと愛想笑いをして「どうぞ、ごゆっくり」と挨拶すると、美奈子の後ろのテーブルに移っていった。
デザ―トが運ばれている席を回っているらしく、昌義たちの席に一番に来たのだ。

昌義は、満月という言葉を聞き違えたのかと思ったが、
「ねえ、今、あの支配人、満月が近づいているからって言ったわよね?」
と美奈子が確認したから、やはり、そう言ったのだと納得した。
「ああ、どういう意味だろう?」
支配人の隣の席での会話に、聞き耳を立てる。
「いかがでしたか?」
「そうね、組み立ては、有り溢れているけど、味はいいわ。
グリエのソ―スは絶品ね。色彩は、流石だわ。
パテシエは、ちょっと、問題ね。
最後のデザ―トは料理の余韻を引き立てるもの。
今日のでは、自己主張が強すぎるように思うわ」
「かしこまりました。ほかに、何かございますか?」
「ソムリエは、体重を五キロ減らして、ウエストを五センチ縮めなければね。
ラインが綺麗に出ないわ」
「良く、申し伝えます」
「そんなところね」
「ありがとうございます」

派手な長い髪のオレンジ色のドレスの女性の言葉に、昌義も美奈子もあっけに取られた。
料理についてはともかく、ソムリエの体型までは聞いていないだろう?
だが、支配人は緊張した面持ちで、畏まって聞いている。
「この料理は、予算内で出来ているの?」
眼鏡を掛けた、紺のシンプルなドレスを身に着けている女性が聞く。
――彼女が口を開くとは! 
低音だが、はっきりした発音の声は彼女の風貌にぴったりだった。
「はい、予算どおりです」
緊張した支配人の声が聞こえる。
「ふーん。料理はよいと思うけど、キャンドルは少し、匂いがきついわ。変えたほうが良いと思う」
「はい、畏まりました」

「なんとも、恐るべき女たちだ」と思ったのは、甘かった。
支配人は次に、中年カップルの席に回ったが、そこでの会話ははっきりとは聞き取れなかったが、なんと、十分近く、男は支配人に何事か話し続けている。
切れ切れに聞こえてくる内容は、フロントの対応から、従業員の態度、調理時間に至るまでのチェックをしていて、何のためにそんな話をと、昌義は訝しんだ。
パリやロ―マの一流ホテルと、このホテルを比較して話しているのだが、こんな田舎の古ぼけたホテルと比べるのもどうかというばかりでなく、おおむね、評価は良く、それも不思議だった。

そして、女二人連れ。彼女たちは口々に料理を褒めている。

次に、彼は一番奥のカップルのところに行った。
「いやあ、美味しかったですよ」
という普通の感想を聞いて、昌義はなぜかほっとした。

昌義は支配人にあの子供たちが何を言うか、特に、あの変な小娘が言うことを聞きたいと聞き耳を立てる。

「前菜のホタテとエビのジュレは色彩も味も良かったよ。
オレの好みからすると、キンキのポアレは、少し塩っぱかった。
もっと良い塩を使ったほうが良いね。
グリエは素晴らしかった。味も香りも最高だった。
それから、デザ―トのりんごのシャ―ベットだけど、甘味が強すぎる。
りんごの種類が問題だと思う。
ほかの二つは文句なく美味しかった。
さすがに、オオツルさんだけのことはあるね。
だけど、全体の流れとしては、ちょっと、デザ―トが強すぎるかもしれない」
そう答えたのは、あの、端正な顔立ちの、さっきは一度も話さなかった少年だ。 
後の二人は、すごく美味しかったよというだけで、格別コメントはなかった。
昌義は意外だった。あの少年は、あまりおしゃべりではないのかと思っていたが……
支配人はこのテーブルのコメントを、緊張して聞いている。
たかが子供と、馬鹿にもせず、いちいち、コメントに頷いている。

だが、普通、温泉ホテルの料理の感想を、こんなに長々と、微にいり細に入り、話すものだろうか?
なんだか、変な連中だ。
昌義はまるで、料理の品評会に紛れ込んだような気がした。

ダイニングを出て部屋に帰ろうと、エレベーターを呼ぶ。
上の階から降りてきたエレベーターのドアが開くと、ふんわりとフロ―ラルノ―トの香りが漂った。
あの派手な女性とグリ―ンのドレスの女性は、ロビーに出てタバコを吸っている。
この香水の主とは違うようだ。

「ああ、良い香り。この香水の香りは初めてだわ。
爽やかな花の香り……」
美奈子はうっとりしながら残り香を嗅いでいる。
その穏やかな表情に昌義がホッとしたのも束の間、部屋に入るなり、美奈子は怒り始めた。
バッグをテーブルに投げ出すと、
「あなた、よくも私に恥をかかせてくれたわね。夕食のドレスコ―ドがブラックタイとドレスだなんて……」
「いや、僕も知らなかったよ。まさか、こんなホテルで、そんな決まりがあるとは……」

――会社の社員旅行で来たと大田さんは言っていのに……

「どうするのよ、明日から。私、ドレスなんて持ってきていない」
美奈子は今にも泣き出しそうだ。
負けず嫌いの美奈子には我慢できない屈辱だったのだろう。
おろおろしながら、昌義は、
「支配人に聞いてみるよ。明日もそうなのか。そうだったら、明日は別のホテルに変わろう」
「そんなのいやよ。あんな人たちに馬鹿にされたまま、すごすごとホテルを変わるなんていやよ」
「でも、ドレス、持ってきていないんだろう」
「でも、いや、いやよ。何とかしてよ」
とうとう泣き出した美奈子を置いて、昌義は支配人に会ってくるといい置き、あわてて部屋を出る。

ちょうどエレベーターが登ってきていて、直ぐにドアが開いた。
エレベーターの扉の向こうに、あの地味な女が立っていた。
入れ違いにエレベーターに乗りこむ。
見ていると女は昌義たちの部屋の手前の部屋のドアを開けようとしている。
エレベーターのドアが閉まって、ゆっくりと一階に下りる。

ロビーを見渡すと、派手な女とグリ―ンのドレスの女が、灰皿の置いてある席に座っている。
少し躊躇ったが、昌義も、彼女たちの隣の灰皿の置いて有る席に腰掛ける。

――とりあえず、一服。一服。

ポケットからタバコを出し、火を点ける。
思いっきり吸い込んで、煙を吐き出す。この瞬間の開放感が堪らない。

「随分、美味しそうに召し上がられますのね」
隣の胸の開いたシンプルな深緑のドレスの女性が声を掛けてきた。
かなり色白の女性で、右手の中指にドレスに似合わない救急バンドを巻いている。

「え、ああ、体に悪いといわれても、これは止められませんね」
「タバコって、新大陸からヨ―ロッパにもたらされた時には、血液をきれいにし頭痛を直す薬として広まったらしいですよ。
今のように、隣で吸っているのも健康に悪いなんて、誰も考えなかったのね」
彼女は煙を細く格好良く煙を吐きながら、そんなことを言い出した。
見直すと、二十半ばくらいの綺麗な女性だ。

その隣のもう少し年配の派手な女性はゆったりと足を組んで座り、ニヤニヤしながら、昌義と彼女を見ている。
堂々とした立ち居振る舞いは、昌義も貫禄負けするような女だ。 
ディナーの時のまま、オレンジ地にグレ―の大きな花模様をあしらったオ―ガンディ―のロングドレスに模様と同じグレ―のショ―ルを羽織っている。

「失礼ですが、お二人は、どちらから?」
「…………」
「…………」
顔を見合わせて、女たちは肩を竦める。
「あ、失礼しました。私、山田といいます。私は愛知県から来ました」
名刺を差し出そうとポケットを探ろうとして、ジャケットを着ていないことに気がついた。
「私は東京からです。大楠碧子、よろしく」
グリ―ンのドレスの女が自己紹介する。
「私も東京、金沢陽子ですわ」派手な女がそれに続く。
「こちらには良くいらっしゃるんですか?」
陽子は、ふふっと小さく笑うと
「ええ、毎日忙しく仕事をしていると、こんな田舎の何にもない温泉で、ゆっくりしたくなりますの。
お宅様もそうじゃございません?」
「まあ、私の場合は、妻の御伴ですけどね」
「奥様、このホテルが気にいらなかった?」
碧子と名乗った女性が首を傾げる
「まあ、気にいらないものの方が多いんですよ、あいつは。
このホテルのせいじゃありません」

それでも温泉宿で大浴場が壊れているのは致命的だったなとふと思う。

陽子はタバコを消すと、小さなバッグを開けて、名刺を取り出し、昌義に差し出す。
「私、こう言う者ですの」
肩書きを読み、昌義は驚きの声を上げる。
「グローバルライン、代表取締役社長……それでは、あなたがあのグローバルラインの新社長ですか?」
「グローバルラインをご存知ですの?」
「もちろんです」

グローバルラインが有名になったのは、皮肉なことに前社長だった鴇野雄一郎が亡くなり、その遺産が三十億もあったことからだった。 
鴇野雄一郎は勤めていた証券会社が、ある朝出社したら倒産していて、その時に自己破産した。
その後、投資会社を始め、その独特の投資戦術で、着々と投資に成功したという話は有名だ。
もちろん、グローバルラインという投資会社が、業績を伸ばしていることは業界では知られていたし、株も上場していた。
一般人に知られたのは、鴇野雄一郎の遺産を相続した妹が、ミステリ作家の神楽坂史記で、その遺産相続をめぐってひと騒動があったからだ。
そのあとでも、神楽坂史記の家で何か事件が起こったはずだ。

昌義は、また、習慣で胸に手をやったが、
「すみません、また、後で、名刺は差し上げます。私は山田と申します。
愛知県のL信用金庫に勤務しております」
昌義はすっかり営業モ―ドに入ってしまい、言わなくても良い職業まで言ってしまった。

「あら、やはり、金融関係の方でいらっしゃいますのね。金融関係の方って、独特の雰囲気がございますものね」
陽子は、昌義をじろじろ見ながらそんなことを言う。
「いや、小さな信用金庫ですから、御社のような大きな会社に出入りされているような方たちとは比べられませんよ」
昌義は一応謙遜する。
「そんなこと。ご存知ないかもしれませんが、ウチは鴇野が自己破産してから作った会社ですから、結構資金繰りは大変でした。
でも、それなりに、鴇野を信じてくださる方たちのおかげで、ここまでやって来れたんですわ。
大きな銀行さんは相手にしてくださらなくて、ある信用金庫の支店長さんが、鴇野と私を見込んで協力してくださったおかげで、今のグローバルラインがあるんです。
小さい組織にしか出来ないことがございますわ。
山田さんの力で育った会社もございますでしょう?」

昌義は苦笑いしながら、ふっとある顔を思い出した。
胸の中に苦いものがこみ上げてくる。

昌義のそんな気持ちを察したのか、碧子が話題を変えた。
「まあ、俗世の仕事の話は止めよう。
明日の晩は満月だし……」
碧子の物言いは男に近い。
「そうそう、金融関係の方なら、彼女とお知り合いになっておいて損はございませんわよ。
碧子さんは、とても有名な漫画家でいらっしゃるの。
この前、一億も税金納められたんですもの」
陽子がからから笑いながら、碧子の紹介をする。
昌義は思わず、碧子を見直す。
「凄いですねえ、一億ですか……」

そう言いながら、頭の中で、納税が一億ということは、収入は……と考え、自動的に弾き出した額に愕然とした。
――筆一本で三億も稼ぐ女、化け物に近い……

「ああ、喉が渇いたわ」
陽子はそういうと、また、タバコに火をつけてウエイターを呼ぶ。
「スコッチ、水割りで。山田様はいかがですか?」
「ああ、いただきましょう。同じものを」
「私はストレ―ト、ダブルで」
碧子はかなりの酒豪らしい。そんなオ―ダ―をした。
頬の赤い童顔のウエイターは、下手な俳優の台詞のような言い回しで、
「マッカランで宜しゅうございますか?」と聞いた。
「ええ」

昌義はなんだか気分が良くなって来た。
やり手の美女二人と酒を飲む機会などそうそうあるものではない。
美奈子のことが気にはなったが、満月という言葉に興味が湧いてきたのだ。

「そういえば、ここのディナーはブラックタイだったんですね。
私たちは何も知らなくて、失礼しました」
と、昌義は切り出す。
「ああ、それは、別に決まりではないから、何、着ていようがいいわよ」
碧子は素っ気なく答える。
「そうなんですか? でも、皆さん……」

ウエイターが水割りを運んで来たのを受け取り、陽子は微笑む。
「明日は満月ですから……満月に敬意を表しただけだわ」
陽子は水割りを慣れた手つきで昌義の前に置いた。

「その満月というのは何ですか?
先刻、支配人も満月だからと云っていたが……」
昌義は思い切って聞いてみる。

碧子はまじまじと昌義の顔を見て呟く。
「山田さん、このホテルの満月伝説のことを知らないの?」

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