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November 23, 2004

満月伝説 #5 幽霊

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「山田さん」
呆然と立っていた昌義は、その声に飛び上がった。
三人が立っていた。
歩夢が心配そうに声を掛けてくる。
「どうしたんですか?」

「あ、いや、今、ここに子供がいたんだが……」
夢だったのかと昌義は思う。
あれは昌義の出た小学校のジャ―ジ―だった。
真冬でも、ずっと、杉崎は短パンで通していた。この北の国の寒い秋に、あの頃のことを思い出したのだろう。

――それにしても、白昼夢を見るとは、俺も終わりだ。

「もう、行きませんか? 玉川温泉まで、もう少しですよ」
祐一がそう言い、先に歩いていく。
歩夢とももこが続き、昌義も振り返りつつ、車に戻った。

それから、小一時間、車で走った。
もうひとつの新しいダムの側を走り、山道を走ると、やがて、焼けたように削り取られた赤い山肌が見え始めた。
煙がもうもうと上がっている。
玉川温泉だ。

硫黄の強い臭いがする。
車を上の駐車場で止めて、谷底のようなところに下りると、もう、そこは地面が熱く、ところどころに湯が吹き出ていた。
「凄い、こんなところから湯が沸いているよ」
歩夢が驚きの声を上げる。
「周りが黄色いのは硫黄分だな」
「硫黄の臭いって、何だか腐った卵みたいな匂いじゃない?」
後の二人は醒めた表情でそんなことを言っている。

歩夢は少しでも足場の悪いところでは、ももこに手を差し伸べる。
ももこはそれを自然に受けている。
昌義は歩夢を見て、小学生の頃の同級生、男女を問わず人気のあった少年を思い出した。
彼は多くの女の子の初恋の人になった素直で優しい可愛い顔立ちの少年で、今は福祉関係の仕事をしていると聞いた。
祐一は個性の強い優等生タイプ、結構、運動神経も良いように見える。
少し近づきがたいほど整った顔立ちは誰かに似ているような気がしたが、その誰かを思い出せず、昌義は胸に何か痞えているような気分になった。
ももこには、何ともいえない違和感を感じた。
可愛い女の子なのに、およそ色気と言うものが無い。
そんなまるっきり個性の違う三人が、阿吽の呼吸で、相手の言いたい事やしたい事を理解しているように見えるのは不思議だった。

温泉施設には入らずに遊歩道を歩くことにした。
遊歩道の側を熱湯の川が流れている。
「玉川毒水だ」
祐一がその川を指差す。
「この水が川に流れていた頃は、川水は毒水で、生き物が棲めなかったそうだ。
この川の水が流れ込んでいたから、田沢湖には魚がいなくなったというよ」

どこから、仕入れた知識か知らないが、祐一がそんなことを言う。
昌義はその強烈な匂いに、あのホ―ムペ―ジの文章を思い出していた。
強烈な酸性の温泉の成分、それが空気まで酸性にしている。
だから、金属はすぐに錆びる。テレビや冷蔵庫さえ、置けない温泉。

「なんだか、毒をもって毒を制すと言う言葉が実感できる匂いね」
病人が聞いたら、怒りそうなことをももこは言っている。
「ももこさん、僕ら、待っているから、入ってきたら?」
祐一が、信じられないほど優しい声で言った。
「そうだよ、入ってきたら。
僕ら、この辺で、ぶらぶらしているから。いいでしょ? 山田さん」
歩夢が昌義を見る。
いやだと言える立場でもないので、昌義は頷いた。

「いいわ。もう、帰りましょう。
少し、疲れたし、ここでは、昼食を取るのは無理だわ」
「そうだな、食事を出来るようなところも無いし、帰ろう」
昌義も異存は無かった。

急な坂道を登る。
硫黄の匂いの上に坂道が急なので、眩暈がして、昌義は途中何度か立ち止まったが、少年たちはいたって健康なようで軽い足取りだった。
だが、ももこは息が苦しそうだ。
「大丈夫ですか? ももこさん」
昌義が声を掛けると、ももこは青白い顔で笑う。
そのやり取りで、少年達は気がついたらしい。
歩夢が「おんぶしたげようか?」などと言い出したが、ももこは首を振る。
漸く駐車場に戻ったところで、昌義はももこに声を掛ける。
「運転、代わろうか?」
「お願いできますかあ?」
ももこはほっとしたような顔をした。
あどけない顔がさらに子供に見える。

昌義が運転し、史記は助手席に座った。
運転して見ると、ジャガーは見た目よりは運転しやすい車だった。
「いい車ですね」
快適なエンジン音は気分を高揚させる。
「ええ、結構、気に入っているんですよ」
そう言いながらも、助手席に座ったももこはまだ顔色が悪かった。
「どこか、具合が悪いんですか? ももこさん」
「え、どうして?」
「いや、少し、顔色が悪いから……」
そういった途端、後部座席の歩夢が、持ってきていたポットを取り出しカップに中身を注ぐと、ももこに差し出した。
車内に良い香りが広がる。
ほんのり暖まるような匂いだ。
「少し車を止めて、山田さんも如何ですか?」
祐一の言葉に従って、昌義は新しいダムに掛かった橋の上で車を止めた。

このダム湖は行きに車を止めたダム湖よりも急峻な山に囲まれていて、幅が狭い。
向うのダムが湖のような佇まいなら、こちらは山の中の大きな川のように見えた。
五百mほどの長さの橋の先の道は行き止まりになっている。
ダムを囲む山々は紅葉が素晴らしく、風に葉が裏返るのか、きらきら光っている。
 
歩夢に貰った飲み物を持って車外に出ると、吹きぬける風は身を縮めるほど冷たかった。
だが、それが心地良かった。
祐一も飲み物を持って車から降りて来る。
昌義の隣に並ぶと、身を乗り出して、欄干から湖水を覗く。

昌義が、この風の中でもしっかり香る紅茶の匂いをくんと嗅いで、首を傾げると、
「ア―ルグレイですよ」
「え?」
「その紅茶」
祐一が昌義を見ていた。
子供っぽいことをしているのを見られたのを恥じ、昌義は必要以上に褒めてしまった。
「ああ、なんだか、いい匂いだね。それに美味しい」
「温まりますよね」
「ああ」
昌義はカップを橋の手すりにおいて、タバコに火をつける。
祐一は風に飛ばされないように、そのカップを支えた。

「この下に、昔、玉川という集落があったそうですよ」
「今は、水の底か……住んでいた人たちはどこに行ったんだろう?」
「生保内という田沢湖駅のあるところに移ったそうです」
「オボナイ?」
「アイヌの言葉らしいですよ。生きる、保つ、内、と書いてオボナイ、深い川という意味だそうです」
「このあたりは、お諸仏さんといい、アイヌ名のついた場所といい、古くからの由緒のある土地なんだな」
 ――こんな山の中に、何故、皆住もうと考えたんだろう?
「こんな所にねえ……恐ろしく不便そうだ」
その疑問を口にすると、祐一はニコリともせずに即座に答えた。
「なんといっても、東北地方は三内丸山遺跡のある場所ですからね。
縄文人が居た場所ですから……
その時代は歩いていける範囲が生活圏で、そこにすべてが揃っていれば、どこに行く必要も無かったんでしょう。
この山を見てください。
豊かな恵みをもたらしたに違いない。
ここにいれば山や川が生活に必要なものを与えてくれたんですよ」
祐一は頭の良い子らしくそんな知識をひけらかす。
そして、じっと昌義を見ると、訊いた。
「さっき、男の子がいたって、言ってましたよね?」
「ああ、思い違いだった。あんなところにいるわけがない」

昌義は苦笑いする。
車に戻ったときに、辺りを見回したが、その駐車場には彼らの車しかなかった。
その下の駐車場にも、道路にも、止まっている車は無かった。
それに、杉崎の少年時代とそっくりの少年がこんなところに居るはずが無い。

「それより、彼女、どこか悪いのかい?」
ももこの様子が心配になり、訊ねると
「ええ、去年、ちょっと怪我をしましてね。寒くなると痛むようなんです。
冷えや、疲れすぎは禁物なんですよ」
祐一は車を見やりながら言う。
その口調は優しさに満ちている。
「君たち、ずいぶん、彼女のこと大切にしているんだね」
昌義はからかい口調に言ったのだが、
「彼女は僕らの大事な人なんですよ」
祐一はなんの衒いも無く答える。

「へ―、年上の恋人なのか、恋愛関係には見えないけど……」
昌義の言葉に祐一は照れくさそうに笑うと、
「そんなんじゃないですよ。少なくとも、僕はね」
そして真面目な顔になり、言った。
「彼女は、居なきゃいけないんですよ。僕らのためにも、この国のためにも」
「この国のためって、大げさだな。
そういえば、クリエ―タ―って、どんな仕事なの?」
あんな小娘が日本に何かを与えられる存在とは到底思えなかった。
「木を植えているんですよ」
――木を植えるって、植林?
昌義が聞き返そうとするのを遮るように昌義に紙コップを渡すと、祐一はさっさと車に戻った。
歩夢が窓から顔を出し、声を掛ける。
「そろそろ行きましょうか?」

最後の一服をしてタバコを消し、紅茶を飲み干し、昌義も車に戻った。
ももこは大分顔色が良くなっていた。
「ごめんなさい。ご心配かけて……少し、冷えてしまったみたい」
「それじゃ、とっとと、ホテルに帰りましょうか?」

「田沢湖に行きませんか?」
歩夢が言い出す。
「今、ももこさんと話していたんだけど、田沢湖に寄って帰りましょう。
昼ごはんもまだだし……」
「ああ、いいけど、うちの奥さんはどうしているかな?」
「ああ、そうですね。この次の集落に着けば、きっと携帯が使えますよ」

ダム湖を抜けて小さな集落についてすぐに、車を止めて、昌義は美奈子に電話した。
何回か呼び出すと、美奈子が出た。
かなり雑音がひどい。

「あら、あなた、さっきから何回も電話していたのよ」
それが本当なら、普段はこんな穏やかな声ではないが、今日は余所行きの声を出している。
どうせ、岡夫人が傍に居るのだろう。
「あなた、私、岡さんにご招待いただいて、今、東京に向かっているの。今日は帰れないわ」
「帰れないって、お前……」
「あなたのタキシードは、岡さんの運転手さんが持っていってくださったから、心配しないで」
「なんだよ、それ」
「私は岡さんと丹波さんとご一緒に、今、東北新幹線の中なの。また、連絡するわね」
自分の言いたいことだけ言って、美奈子は電話を切る。

「奥さん、どうなさったの?」
「いや、あいつ、岡夫人たちと東京に行くって、今、新幹線の中だそうだ」
「あら、それは、それは……」
ももこが呆れたように言うのに対して、歩夢は
「置いていかれたんですか? 寂しいですね」
慰めるように言う。
この少年には悪意というものがまるで感じられない。馬鹿かと思えるほどだ。
「ま、いいけどね」
と言いながら、昌義は、内心、ほっとしていた。
お諸仏のことを夜までに話さなければ不味いかもしれないと思っていたのだが、話さずに済んで幸いだった。
「岡夫人ともなると、お諸仏さんのご利益なんか要らないんだな」
昌義のつぶやきに祐一がませた口調で言う。
「人の幸不幸は、他人には見えないものですよ」

「とりあえず、田沢湖に行きましょう。お腹空いたわ」
ももこの言葉で、皆、空腹を思い出した。
高原には戻らず、田沢湖に向かう。
 
田沢湖にはその道から小さな山を登っていく。
坂道を登りきると目の前に湖があった。
小さな湖だ。
周りにはホテルや土産物屋がごちゃごちゃと並んでいる。
田沢湖は直径約六km、周囲二〇㎞、面積二五.五平方㎞の六角形に近い円形の小さな湖だ。
だが、その深さは最深四二三mと日本一、世界でも十七番目の深さを誇る。
まるで、お風呂の湯を汲む桶のような形をしていることになる。

噴火の後に水が溜まったカルデラ湖と思われているが、実態はわかっていない。
湖面の標高が二四九mなので、湖底は海面下、一七四mに達することになる。
透明度は大きく、水色と藍色の美しい湖だ。
今日は風が強く、白い波が立っている。

湖畔のレストランに入る。
デパ―トの食堂のように、なんでもありのメニュ―の中から、四人は、辰子定食というものを頼んだ。
刺身が付いているので心配だったが、結構新鮮で煮物も美味しかった。
昌義が不思議だったのは、彼らが食事をしながら、なにか物足りなさそうにしていることだった。
そして、食事のスピ―ドがかなり速いのに驚いた。
なにかに追われているように食べている。

彼らは、食後の飲み物が出て、ようやく落ち着いたようだった。
昌義はタバコが吸いたくて、「ちょっと、出てくるよ」と断って、外に出た。

ぶらぶらと、目の前の砂浜に向かって歩く。
観光シ―ズンが終わったからか、寒いからか、砂浜には人影が無かった。
小さな湖の水は風が強いせいで、ゼリ―のように震え、波立っている。
細かな砂を踏みながら水辺まで歩く。
海辺で育った昌義には砂浜は見慣れたものだが、三河湾の広がりに比べて、この湖は手を伸ばせば、対岸に手が届きそうで面白かった。

子供の頃、昌義が杉崎と遊んだ海岸は、埋め立てられてもう無い。
国立公園の中にある市は、山を開発できず、海へ海へと市街地を延ばしている。

振り返ると、駒ヶ岳が、青空にくっきりと聳えている。
頂上には白いものが見える。その山に続く稜線がなだらかな線を描いている。
――今頃、彼らはどうしているのだろう?

「この水、凄く冷たい……」
角館に行くと言っていた碧子たちのことを考えながら、タバコに火をつけてほっとした瞬間、後ろから声が聞こえた。
思い振り返ると、中学生くらいの少年が波打ち際に裸足で立って昌義を見ていた。

「昌義は、泳ぎ下手だもんな。こんなところで泳いだら、溺れちゃうな」
綿のチェックのシャツ、紺色の長袖セ―タ―を首にかけて袖を結んでいる。
ジーンズの裾を打ち寄せる波が濡らしている。
杉崎だった。

海の側で生まれ育ったというのに、昌義は泳ぎが苦手で、杉崎はいつもそれをからかっていた。

「竹島で、いつか、お前、溺れただろう? 
あの時は焦ったよな。あんなところで溺れるとは思わなかったもん」

そう言うと、少年は二十m位沖にある飛び込み台を指差す。
「あそこでも、かなり深いんだって。
それに、田沢湖は湧き水だから冷たい水の塊があって、心臓麻痺で死んだ人が結構居るんだよ」
「杉崎……」
「まったく、お前って、泳ぎだけじゃなく、危なっかしいな」
そういって笑う顔は、確かに中学時代の杉崎だった。

「杉崎……」
そういって、少年に手を伸ばそうとした昌義は、
「山田さん」
突然、後ろから呼ばれて、振り返った。

歩夢と祐一が立っている。
「どうしたんですか?顔色、悪いですよ」
歩夢が心配そうに言う。
「今、ここに……」
振り返ると、そこにはただ、波が打ち寄せているだけだった。
杉崎の姿は消えていた。

「ももこが、疲れちゃっているみたいだから、帰ろうと思うんですけど……」
「わかった。今、行くよ」
祐一と歩夢は砂浜を先に戻っていく。
その後を追いながら、昌義はこの意味を考えている。

――誰かのいたずらだろうか……だが、何のために?

竹島で溺れたことは、昌義と杉崎の秘密だった。
昌義が恥ずかしいから言わないでくれと、助けてくれた杉崎に頼んで、杉崎はそれを律儀に守っていた。

――何よりも、あのいたずらっぽい目、あれは紛れもなく中学時代の杉崎だ。


高原のホテルに帰りついたのは、三時近かった。
車を運転しながら昌義は、ずっと、杉崎のことを考えていた。
ももこはかなり調子が良くないようで、歩夢と祐一はその心配をしていて、昌義には興味が無いようだった。
まっすぐ部屋に戻るという彼らとロビーで別れて、テラスに出ると、碧子と坂田がガーデンチェアに座り、ビ―ルを飲んでいた。

「お子様方とのお出かけは如何でした?」
碧子が笑いかける。
「楽しかったですよ」
「玉川温泉に行ったんですか?」
坂田が訊く。
「ええ、ついでに鳩峰神社とお諸仏さんと田沢湖です」
「ほう、それは盛り沢山ですな」
「疲れたでしょう?」

確かに昌義は疲れていた。
碧子の隣の椅子のどさっと座り、タバコに火を点ける。
「角館は如何でしたか?」
「スッゴク良かったわ。いっぱい買い物してきちゃった。
天気も良くて……明日も晴れそうね」
碧子は嬉しそうに言う。
「雨だと、お諸仏さん、来ないんですかね」
「そんなことは無いが、やはり、満月の中で迎えるのが一番だ。感動的だよ。」
坂田は何かを思い浮かべるように、虚空を見つめる。
「もう、願い事は決まっているの?」
碧子は興味津々と言った様子で昌義に尋ねる。
「まあ……」
煙を吐き出しながら、曖昧に昌義は答える。

――お諸仏さんなんて荒唐無稽の話、本当に信じて良いんだろうか……
でも、杉崎が、どうして……死んだ人間が現れるんだ?

「ところで、奥さんは?」
坂田が辺りを見回す。
「ああ、岡夫人や丹波夫人と東京に行きました」
「まあ」碧子が目を見張る。
「それじゃ、今晩は帰らない?」
坂田の問いに、「そうみたいですよ」と答えると、
「まあ、それは、それは……」
碧子は呆れる。

「夫婦って、面白いわね」
「碧子さん、ご結婚、まだですか?」
昌義は、これはセクハラと思われるだろうかとヒヤヒヤしながら、訊いて見る。
「ええ」
「やはり、そうですか」
「あら、どうして、やはり、独身だと?」
「やはり」を強調して、碧子はキッと昌義を睨む。

「いや、やはりって、その……」
慌てて弁解しながら、昌義は言い出したことを後悔した。
「昨日、税金を一億払われたと聞いて、そんなに仕事しながら主婦業も、では大変だろうなと思って……」
「ああ、そう言う事……確かにね、私の手は主婦業まで回らないのが現状ね」
碧子は納得したように頷き、右手の中指の救急バンドを取った。
「これ見て」

中指には大きなペンダコがあり、それが割れている。
「痛そうですね」
昌義はそのペンダコの大きさと、傷口の深さに顔を顰める。
「こりゃ酷い、これは痛いでしょう?」
覗き込んだ坂田も、思わず声を上げる。

「痛いわよ。とっても」
碧子は小さなバッグから新しい救急バンドを取り出し、昌義に渡す。
昌義も何気なくそのバンドを受け取り、指に貼り付けながら訊く。
「こんなになるまで書くんですか?」
「これだけじゃないわ。腕だって、これ以上、上がらない」
そう言うと、肩の辺りまで腕を上げる。
「腱鞘炎、慢性になっちゃって……」
「自分の身体を痛めて、漫画を描いているんですね」
「この指先がこんなでなければ、もっと描けるんだけど、人間の皮膚って柔なもんだから、ペンに勝てないのよ」
「そんなに酷使されて、その言われ方では指が怒りますよ」
坂田が笑う。
「書きたいことは一杯あるから、寿命が足りるかどうか、心配」
 そう言うと、碧子は愛しそうに指先を擦る。
「漫画家って、身を削る職業なんですね」
昌義は感嘆し、「それにしても、同じ女性でうちのと碧子さんじゃ偉い違いだな」
思わず愚痴を言ってしまった。
「うちのは、自分が守られて、安泰なのは当然と思っているみたいで……見栄と意地の張り合いをして、周りを振り回す。どうしようもない奴で……」

坂田がその場を取り成すように口を挟んだ。
「まあ、良いじゃないですか。自分の稼ぎで妻子を養うっての男の甲斐性ですよ。
僕も奥さんには専業主婦で居て欲しかったな。
僕が結婚した人はとても元気な人で、うちに閉じ込めて置けなかったから、離婚してしまったけどね」
「まあ、坂田さんってバツイチ……」
碧子が目を丸くする。

「ええ、元奥さんは経済産業省のキャリアだったんですよ。
僕は結構、わがままだから、奥さんには家に居て欲しかったんです。
帰ったら、部屋が片付いていて、お風呂が沸いていて、食事が出来ていて、子供がそこらで遊んでいる……」
「ああ、そんな人、私も欲しいわ」
切実そうな声を碧子は出すが、直ぐに我に返ったようだ。坂田を睨む。
「でも、キャリアにそれを求めるのは無理じゃない? そんなの国の損失だよ」

「何のお話?」
陽子が、ダイニングからコーヒーカップを手にやってきた。
「坂田先生の理想の家庭の話」
碧子の返事に、陽子は眉を上げる。
「どんな?」
「綺麗に片付いた家に帰ると、お風呂が沸いていて食事ができていて、可愛い子供がそこいら辺で遊んでいるんだって」
「子供は居ないけれど、そんな生活、私、していますわ」
立ったまま、陽子が馬鹿にしたような目で坂田を見下す。
「家政婦さんがやってくださいますの」

坂田は苦笑して昌義を見る。
「僕の周りの女性は、皆さん、陽子さんや碧子さんのように頑張りやさんでね。男以上の頭脳と知恵を持って世に出ている。
だから、僕はいつまで経っても再婚できない」

陽子はカップをテーブルに置くと、坂田の隣のソファに深く腰掛け、足を組み、タバコに火を点ける。
昌義はその長く美しい足に釘付けになってしまった。
「結婚なんて、しなくて結構。
結婚すると、どんな優秀で自立した男でも、女でも、相手に甘えて堕落していく。
一人で立っていた人間が、結婚した途端、凭れあって、相手に要求ばかりするようになるんです」

坂田は力なく笑う。
「はは、相変わらず、君は結婚に手厳しいね」
「出来ない人間のやっかみだと思っていらっしゃるんでしょ?」
コーヒーを口に運びながら、陽子が突き放した口調で言う。
碧子も「そうそう」と相槌を打つ。

「君たちのように何もかも備えた女性が、嫉むような相手が居るとは思えないが……」
「ま、お上手ですこと」
彼らの会話を聞くともなしに聞きながら、昌義は亜里沙を思い出していた。

――亜里沙は今頃どうしているのだろう? 
あの夜以来、会わないまま、ここに来てしまった。
亜里沙なら、良き妻、良き母になるに違いない。
家に帰るのが楽しみな、楽しい家庭を作ってくれるだろう。
子供だって夢じゃない。
父親になれる。そうだ、帰ったら、美奈子と別れよう。
信用金庫を辞めて、違う土地に行って亜里沙と結婚しよう。

昌義は使い込みの件には目を瞑り、一瞬、楽しい夢を見る。
突然、携帯のベルが鳴った。
ポケットから取り出し、表示を見ると、亜里沙を示すAの字が出ている。
――ここにきていることは知っているはずなのに、どうしたのだろう?

「はい」
「亜里沙です」
「ああ」
「今、話していて大丈夫?」
「ああ、良いよ」
思わず声が和らいだ。
それを聞きつけて、碧子と陽子が意味ありげに囁き交わし、笑っている。
「奥さんは?」
「東京に行った」
「まあ、あなたは?」
「ホテルに居るよ」
「そうなの。私、どうしても会いたくて、田沢湖に居るの。
会いに来てくださる?」
「今から?」
切なげな声が言う。
「ほんのちょっとの間でもいいの。ね、来て」
その言葉に抗うことは出来なかった。
電話を切って、立ち上がろうとすると、碧子と陽子がニヤニヤして声を掛ける。
「あら、奥様がお出かけした途端に、彼女と待ち合わせですか?」
「山田さん、なかなかやりますね」
碧子と陽子に冷かされながら、フロントに行き、タクシーを頼む。

フロント係は「そういえば、奥様からということで、これをお預かりしていました」と奥から箱を持ってきた。
運転手に頼んだタキシードのようだ。
部屋に持って上がり、箱を開くと、やはり、タキシードだった。
クロ―ゼットにタキシードを掛け、ロビーに降りると、もう、タクシーが来ていた。

見慣れた坂道を下る車の中で、昌義は亜里沙の白い横顔を思い浮かべ、幸せな気分になった。

亜里沙は御座の石神社で待っているといっていた。
御座の石神社には、さっき、昌義たちが通った道からさらに湖を回って対岸にいく。
砂浜のあった場所から二十分も走ると、岩場になり、赤い鳥居が見えてきた。
タクシーの運転手に待っているようにと頼んで、降りて亜里沙を探す。
鬱蒼と繁った杉林の中に神社がある。
真っ赤な鳥居は神社と道を挟んだ反対側、湖のほうにあった。
ここにもやはり、観光客はちらほらとしか居ない。

鳥居の向こう、湖に突き出た大きな岩の上に見慣れない皮ジャンと皮のパンツ姿の亜里沙の、すらりと背の高い華奢な身体が見えた。
いつも女らしいピンクや柔らかい素材の服を着ている亜里沙にしては珍しい格好だ。
今まで皮パンツ姿など見たことが無いので、別人かと思うほどだった。
だが、スタイルの良さは隠しようが無いし、サングラスを掛けていても、形の良い唇が目立っている。。
亜里沙が歩くと、すれ違う数少ない観光客が振り返る。
黒の革ジャンは、亜里沙の整った日本人形のような顔と、細い身体を引き立てている。
亜里沙は目の前まで近づいて、サングラスを取った。
その笑顔に昌義は見惚れる。

「ご免なさいね。わがまま言って……」
そう言うと上目遣いに昌義を見る亜里沙は、砂糖菓子のように甘く、美しいと昌義は思う。
絶世の美女だったという辰子姫がいたら、きっと、こんな姿だろう。
そんな女性と親しげに話すことに優越感を覚えながら、「いや、良いんだ。俺も会いたかったよ」と肩に手を回す。
亜里沙もごく自然に、昌義にしな垂れかかる。

「奥さん、どうなさったの?」
「ああ、あのホテルで知り合った奥さんたちと東京に行った。
今日は帰って来ないとさ」
「せっかくの旅行なのに、旦那様を置いて行っちゃうなんて、亜里沙、信じられない」
亜里沙は眉根を寄せて美奈子を非難する。
その姿がまた可愛くて、また、昌義は幸せな気分になった。
「あいつはそういう人なんだよ。亜里沙とは違う」
「そういうものかしら。私なら貴方を一分でも一人にはしないわ」

それから二人は、神社の石段を登り、おみくじを引いた。
昌義は吉だった。
「おい、吉だってさ。
 待ち人、遅いが来たる。家内運、波乱が起こる、注意。
 金運悪し。病、健康なり、安心せよ。
 人の姿に騙される。人は自分の鏡なり……なんじゃこりゃだな」
亜里沙を振り返ると、亜里沙はおみくじを見つめて、肩を震わせている。
「どうした?」

「大凶、ですって」
亜里沙は昌義を見て、ようやく言った。
「大凶? 珍しいな。大凶なんて……」
「失礼しちゃうわ、なによ、この神社」
その言い方は、いつもの亜里沙に似合わない蓮っ葉な言い方だった。
昌義の怪訝そうな表情に気づいたのか、亜里沙は慌てて、
「大凶なんて、初めてなの。折角、あなたと一緒に居るのに、つまんない」
と誤魔化す。
「たかが、おみくじだよ。気にするんじゃない」
「そうね」

近くの木の枝におみくじを結びつける。
社務所の近くにある木という木に、おみくじが結びつけてあり、彼らのおみくじもその群れに紛れた。
「私、この先にあるホテルに泊まっているの。奥様がいないのなら、こっちに来れば良いのに」
「今晩は、ちょっと……ホテルを空けるわけには行かないんだ」
昌義は断腸の思いで断った。
亜里沙は寂しそうな顔をする。
だが、明日の満月に備えてお諸仏さんのことを、もう少し、聞いておかなければならない。

「レンタカ―を借りているから、少しドライブしましょうよ。
それから送るわ。それなら、少しでも長く一緒にいられるでしょ?」
「ああ、それなら、いいよ」
「ねえ、さっき私が居たところで写真撮りましょうよ。
折角の記念ですもの」
「あの岩の上でか?」
「すごい断崖になっているんですって。
覗いてみたけど、結構深そうで、面白かったわ」
「ふうん」
「アー、わかった」
「何?」
「怖いんでしょ?」
「そんなこと無いよ」
「道路の側の駐車スペ―スに車を置いてあるの。
戻りがてら、もう一度鳥居の向こうの岩で写真を撮りたいわ」
「わかったよ」
亜里沙のおねだりに負け、鳥居のところに戻ることにした。

「ねえ、私、ちょっと」
もう、一年近い付き合いだというのに、亜里沙はトイレに行くときに「ちょっと」という。
そんなところも可愛いと昌義は思う。

「あなた、さっきの鳥居のところで待っていてくださる?」
そう言って、亜里沙は持っていたカメラを差し出す。
亜里沙が社務所に入るのを見て、昌義は階段を下りかけた。
つい、頬が緩んでいるのを自分でも感じる。

カメラの操作方法を確認しながら降りていた昌義は、階段半ばで、ぐっと、腕を掴まれて引っ張られた。
二十代くらいの体格の良い男性が昌義の腕を掴んで、階段の横の大きな秋田杉の根元のほうに引っ張る。
「昌義、行っちゃ駄目だ」
「お前は……?」
逞しい腕の、日に焼けた青年だ。
それは、確かに、大学時代の杉崎だった。
ボ―ト部に所属していた杉崎はいつもに日に焼けて、筋肉モリモリだった。
そのままの杉崎が、今、目の前にいた。

「ちょっと、こっちに」
杉崎に引っ張られて、直径二m近い杉の大木の裏に隠れる。
「なにを……?」
「シッ!」
杉崎は口に指を当てて、黙るように指示する。
そのままの状態で、五分も経つと、階段を上ってくる人影が見えた。
若い男だ。
少し長めのヘアースタイル、細身のサングラスをかけている。
ジーンズにTシャツ、革ジャンを身につけている。
彼は昌義たちの隠れている杉の木の手前で立ち止まり、あたりを見回している。
その時、軽い足音がして、亜里沙が上から下りてきた。
不審な男と鉢合わせするのを心配して、昌義が木の陰から出ようとするのを、杉崎は物凄い力で抑える。

「何しているのよ」
亜里沙が男に近寄ると、厳しい声で言った。
どうやら、二人は知り合いらしい。
思いがけない展開に昌義は耳を澄ます。

「いつまでたっても、あいつが来ないから探しに来たんだ」
「すれ違っちゃったんじゃない。さっき、下りて行ったわ」
「だが、鳥居の影で待っていたけど、来なかったんだ」
「ちゃんと、見ていたの。よそ見してたんじゃない?」
「そんなこと無い」
「使えない人ね。いいわ、私が探すから、あなたは鳥居の影に居て。
連れて行くから、うまくやるのよ」
「わかった」
男は階段を下りていき、亜里沙は階段を上り、神社のほうに向かった。

「御座の石神社の鳥居の岩がある岸は、山で言えば絶壁になっていてさ、水深四百m近いらしい。
落ちたら、お前みたいにろくに泳げないやつは、そのまま、ずぼずぼと沈んじゃうだろうな。
ま、溺れる前に心臓麻痺ということも考えられるな。
なんと言っても、この季節のこの冷たい水だからな」

耳元に聞こえる杉崎の囁きは、悪魔の声のようだった。
「亜里沙が、俺を殺そうとしているというのか?」
声が震えているのが自分でもわかった。

「あの男、見覚えないか?」
「いや……」
と答えてから、あの細身の姿に、なんとなく引っかかった。
「亜里沙の店のバ―テンだ」
杉崎が囁く。

いつも、お仕着せのチョッキと蝶ネクタイの姿しか見ていなかったし、亜里沙に夢中でほかのものには気を使っていなかったので、昌義は彼の存在など気にもしていなかった。

「大学時代にバ―テンのアルバイトを始めて、そのままずるずると本業になって、今は大学を辞めて女に食べさせて貰っている、寄生虫のような男さ」
「その男が、どうして……?」
「寄生虫は宿主と一緒に居るものさ」

昌義はその言葉に衝撃を受け、杉崎を見つめる。
一瞬、杉崎と目が会った。
懐かしい優しい目だ。

あの男が亜里沙の愛人と知っているくらいだから、杉崎は亜里沙と昌義の関係も知っているに違いない。
それにしてはその目は穏やかだった。
正義感の強い以前の杉崎なら、こんな時、出て行って亜里沙を糾弾したに違いないのに、と昌義は不思議な気がした。

――この男は杉崎ではないのか……?

「お前、このまま、帰ったほうがいい。
あそこに、お前を乗せてきたタクシーが止まっている。
こちらから下りて、あのタクシーに乗って帰れ」
杉崎はそういうと、昌義の手をぐいぐい引っ張って、藪の中をタクシーの側まで連れて行く。
「早く、あいつがこっちを見つけたぞ」

鳥居のほうを見ると、男がこちらに向かって走っているのが見えた。
昌義はその近くにあった岩の上にカメラを置くと、あわててタクシーに乗り込んだ。
「ホテルへ戻ってくれ」

タクシーが階段の下を通りかかったとき、亜里沙が階段の途中でこちらを見ているのに気が付いた。
亜里沙は、何の感情もない冷たい眼差しで、通り過ぎるタクシーを見下ろしていた。
昌義が一度も見たことの無い女の本性がそこには現れていた。

神社が見る見る遠ざかり、ほっとして、隣を見たとき、自分が一人でタクシーに乗っているのに気づいた。
杉崎はいなかった。
「運転手さん、僕と一緒にいた男はどうした?」
運転手はミラ―越しに
「お客さん、からかわないでくださいよ。お客さん、一人だったっしょ」
「そう、だったかな」
「ああ、あの、エンジンを掛けて待っているようにと言いに来た人だすか?」
「え?」
「あのお客さん、急いでいるからすぐに動けるようにして待っててくれって、言いに来た人。
あの人はお友達だすか?」
「ああ」
杉崎だろうと思った。
――この事態を予測していた?

「そりゃ、幽霊ならそれも可能だ」と、昌義は変なことを思って可笑しくなった。
「楽しそうすね、お客さん、良い事あったすか?」
つい、笑っていたらしい。
「ああ、すごく良いことがあったよ」
つい、三ヵ月前の亜里沙との会話を思い出していた。

夏の終わり、昌義と一緒に自分の部屋に帰った亜里沙は、服を着替え、昌義の好きなスコッチの水割りを作って差し出し、何か思い出したように、クロ―ゼットを探った。
A4サイズのファイルをクロ―ゼットの奥から出すと、その中に入っていた証書を昌義に見せる。

「友達が……ほら、あの、前、ウチに勤めていた彩ちゃん、彼女、今、保険の外交をしているの。
亜里沙もあなたを受取人にして入ったのよ」
はにかみながら亜里沙が見せた証書は一千万の額面で、確かに受取人は山田昌義になっていた。
自分を受取人に指名した気持ちが嬉しくて、昌義は涙が出そうになった。
感激で何も言えずに居ると、亜里沙は昌義の顔を覗き込む。
「気を悪くしたの?」
「いや、なんか、感動して……」
 
亜里沙は微笑みながら、昌義の右手を取り、両手で包み込む。
「私、貴方にこんなに良くして貰っても何も返せない。
せめて、私が死んだ時には、貴方に保険金くらい残さなきゃ、罰が当たるわ」
昌義はやっとのことで答えた。
「そんなこと無い。亜里沙が生きているだけで、俺は幸せなんだ。こんな保険、いらないよ」
亜里沙は首を傾げ、昌義の顔を覗き込む。
「でも、彩ちゃん、なかなかノルマが達成できないんですって、協力したかったの」
「亜里沙は、本当に優しいんだね」
「彼女、苦労しているのよ。あの若さで未婚の母でしょ?   
少しは力になりたくて」

彩と言うホステスは、確か二十歳くらいだったような気がした。
子連れとは思えない軽い感じの子だったが……

「あの子が未婚の母ねえ? 人は見かけに寄らないな」
「そうだ、ね、あなたも付き合ってやって下さらない?
彼女、また、今月、一件も取れていなくて、首になりそうなんですって」
昌義は思わず頷いていた。

次の日、早速、彩が勧誘にやってきた。
手回しが良いと思ったが、仕方なくサインした。
自分が受取人の証書を見せられた後では、亜里沙を受取人にせざるを得なかった。

「ほんとに、私が受取人でいいの? 奥様に悪いわ」
三千万の保険の証書を渡すと、それを胸に抱いて、亜里沙は尋ねる。
「大丈夫だよ。心配するな」
死ぬ時までには事態が変わっていると思っていた。

美奈子と離婚して、亜里沙とやり直す。
もしくは使い込みがばれて、会社を首になり、すべてが破綻する。
どっちでも良い様な気がしていた。
どうせなるようにしかならないのだ……
「ね、お願い、私がこんな保険を受け取らなくていいように、私よりも長生きしてね」
たしか、亜里沙はそんなことを言った。
その言葉が嬉しくて、高額の保険の支払いをどうするかという悩みを、一瞬、忘れていた。

「みんな、嘘か……」
波立つ湖面を車窓から眺めながら、昌義は自嘲する。
「運転手さん、男って馬鹿だね。甘い言葉や美しい容姿にころっと騙される」
運転手はバックミラ―越しに昌義を見る。
「おらも、いっぱい女子には騙されたども、まだ、女子のことは愛ごいとおもってら。
男は女子に騙されてなんぼだは」
運転手は方言丸出しの陽気な声で答えた。
それは運転手の優しさだろうと昌義は感謝した。
 
高原への長い坂道を登る途中で、麓は薄闇に包まれた。
だが、駒が岳は、夕日に照らされ、ピンク色に染まり、ますますくっきりと空に聳えている。
月は東の空に、丸いその姿を白い影となって現している。
碧子の言ったとおり、天気のよい月の夜になりそうだ。

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