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October 31, 2004

満月伝説 #1 レリーブドホテル

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小高い山々の上で機体は低空飛行に入った。
人家などまるで見えない山の中だ。
墜落しているのかと心配になり、小さな窓から下を覗いた途端、滑走路が目に入った。
秋田空港は山の上にあった。

小さな空港には人が溢れている。
一日往復各一便しか無い小牧からの便は満席だった。
アナウンスを聞くと離発着が何便か集中しているようだ。
その上に、東京からの便が一時間も遅れて到着したのが、この混雑の原因らしい。
 
昌義は足を引きずっている妻の分の荷物も持ち、外に出て、ホテルからの送迎バスを探す。 
愛知県の家を出るときには、汗ばむほどの陽気だったが、この空港に降り立った途端、空気は澄んで冷たく、上着を一枚着なければならなかった。

秋田市内行きのバスや田沢湖方面行きのバスもある。
一台の大型バスが止まっている。
前に回り、行く先を見ると、名札は出ていなかった。

若い学生風の男女が添乗員の指示でぞろぞろと乗りこんでいる。
こんな集団は小牧では見かけなかったから、どうやら、東京から来た便の搭乗客だろうと、昌義は推察した。

ほかにも何台か小型の送迎バスが止まっていて、少人数の団体や個人客が乗っていたが、昌義たちの泊まる田沢湖レリーブドホテルからのバスは見当たらなかった。

溢れていた客は十五分もすると、それぞれ、バスや、タクシー、個人的な出迎えの車って消え、山の上の空港は閑散とした。
昌義は焦って、ホテルに電話を入れる。
「はあ、まだ着いておりませんか、申し訳ございません。
もうすぐ到着すると存知ますので、今しばらくお待ちくださいませ」
やけに丁寧な応答をする男性がでた。 

美奈子のイライラが伝わってきたが、送迎バスが出ているというのでは待つしかなかった。
「ねえ、もう、タクシーで行きましょう」
美奈子に急かされても、そのタクシーが、もう一台も見当たらない。

三十分以上待たされて、これ以上はと思ったとき、ようやく、バスが到着した。
小型のマイクロバスから、色黒の中年男が降りてきて、人懐っこそうな笑顔を見せる。

「いやあ、まんずまんず、申し訳ねすでぁ。とつうで、パンクすちまって……」
人のよさそうな秋田弁の運転手は、どうやら、本当に申し訳ない、途中でパンクしてしまってといっているらしい。

「まったく、どれだけ待たせるつもりなの」
美奈子は運転手に怒鳴る。

この時代に、美奈子の言葉が通じないわけは無いと思うが、運転手はニコニコしながら、マンズマンズというばかりで埒が明かない。
さすがの美奈子も呆れて黙った。

そのバスに乗ったのは、昌義たちだけだった。
貸切状態のバスの中で、空港からホテルまでの一時間、美奈子は一言も口を利かず、怒りを体中で表現していた。

お嬢様育ちの美奈子には他人の失敗を許さないわがままなところがある。
それは、父親の山田鑑三と通じるところで、その狭量さに、昌義は父親のDNAを感じて心が萎えてしまう。

何の特徴も無い田舎の道を走って、田沢湖町に入ると、様相は一変した。
山脈の連なりの中に一際高い山が目に入った。
駒が岳というその山は、活火山で、何十年かごとに噴火するという。

「花火みだくドカンドカンと、何分置きかに噴火すて、そりゃあ、綺麗だすでぃあ」
運転手は楽しそうにその様子を説明する。
話を推測するとどうやら噴火も観光の目玉になっているらしい。
 
マイクロバスはその駒ヶ岳に向かう白樺林となだらかな草原の丘を、大きくカ―ブして道を登り、やがて、ホテル街に出た。
大きなホテルが何軒も並んでいるその一角で曲がり、また上る。
素晴らしく紅葉した雑木林に入り、三叉路の真ん中を上る。
少し走ると道は大きく左にカ―ブして、林に隠れるように古ぼけたホテルが見えてきた。

三階建位だろうか、趣があるといえば聞こえは良いが、壁の一角が剥がれている。古いホテルだ。
大きな流れ屋根の建物の正面は入り口が階段の上にあり、その横はオーニングが架かるテラスデッキになっている。
「レリーブド=Relieved=癒し」というには程遠そうなぼろぼろのホテルだ。
隣りの美奈子が息を呑んでいるのがわかり、昌義は憂鬱になった。


「まったく、あなたってこんな簡単な手配も出来ないの?」
フロントの前で、美奈子は昌義を怒鳴りつける。

チェックインのサインをしようとペンを持った時、背の高い若い女性のフロント係が申し訳なさそうに言い出した。
「実は、湯元からのパイプが事故で壊れたため、本日は大浴場をご使用いただけません。
ほかのホテルをご紹介しようと手配したのですが、あいにく、この近くのホテルはすべて満室でございまして……各室のシャワ―は使用可能なのですが」

その説明を聞いて、美奈子は怒り出し、フロント係りに散々文句を言った挙句、昌義に怒鳴ったのだ。
客たちの視線が、自分に向けられるのを感じて、昌義は顔が紅潮するのを感じた。

タクシーで後から着いて、チェックインのために、ロビーで順番待ちをしている若い男女、男と女二人の三人連れ、中年のアベック、美奈子が怒り出してから、何組かの客がやってきて、ロビーで所在なさそうに待っている。

「私は、玉川温泉に行きたいの。
どうしてこんなところに部屋を取ったのよ?」
フロントの前で、銀縁のメガネを右手で直しながら、昌義はささやかな抵抗の言葉を口にする。
「でも、あそこは、予約が取れなかったんだよ」
「だったら、来るんじゃなかったわ」
「美奈子、ここに泊まって、玉川温泉に行けばいいじゃないか?」
「あなたってば、本当にいい加減なんだから。
こんなホテルに、どうして泊まらなきゃならないのよ」
古びたホテルのロビーを見回して、美奈子は、ほとんど叫んでいる。

フロント係は、こわごわと、昌義に声を掛ける。
「お客様、キャンセルなさいますか?」
「誰も、キャンセルするなんて、言っていないじゃない」
美奈子は、今度は、フロント係に噛み付く。
美奈子がこうなったら、手がつけられない。

昌義はフロント係に頭を下げて、美奈子の手を引いて、ロビーのソファに座らせ、チェックインの手続きにもどる。
美奈子は、座ると周りを睨み付けた。
ロビーの椅子に座って、様子を伺っていた客たちは目を伏せる。
シガーを吸っている隣席の中年の男性に美奈子は噛み付く。
「あー煙い、ここは禁煙じゃないのかしら?」
穏やかそうな髭の男は、大人しくシガーの火を消して、立ち上がった。
同伴の女性があわてて後を追う。
トレッキングでも出来そうなチェックのシャツを着て、ウォ―キングシュ―ズを履いたカップルだ。

隣のテーブルで地図を広げていた三人組みの男女は、あっけに取られ、目を丸くして、美奈子を見ている。
若い女性と高校生くらいの少年二人。
この山奥のホテルでは、かなり目立つ三人だった。
美奈子は三人を睨み、ふん、と視線を外す。

「それでは、三泊のご予定で、お受けしてもよろしいでしょうか?」
様子を伺っていた昌義は、フロント係の慇懃な嫌味を聞き流して頷いた。


部屋に入っても、美奈子はホテルの設備や部屋の造作について文句を言い続けている。
いかにも一昔前の温泉宿の客室という造りの、床の間つきの和室と、簡単な応接セットのおいてある洋室の二間続きの部屋が気に入らないらしい。
だが、掃除は行き届いているし、畳も新しい。古いながらも、清潔で、使いやすそうな部屋だった。

「お前がいつも行っている銀座のホテルや、新宿のホテルのような設備の整った豪華なホテルが、この山の中にあると思うのか」
そう怒鳴りたい気持ちを抑えて、昌義は猫なで声を出す。
「温泉に入りたいなら、マイクロバスで近くの温泉に連れて行ってくれるそうだよ。
ほら、秘湯で有名な鶴の湯とか、黒湯にすぐいけるってさ、どうする?」
美奈子は返事をしない。昌義は窓を開けて深呼吸する。
「見てごらんよ。田沢湖が見えるよ。
なんか、山の上にあるようで、不思議な湖だね」

美奈子はソファに座り、お茶請けの饅頭に手を伸ばす。
一口頬張って、「あら、美味しいわ」と言うと、それを手に持ったまま立って、昌義の隣りに来た。
周りを見回し、口を尖らす。
「山ばっかり、いやんなっちゃう」

紅葉した林や銀色に光る湖の景色の素晴らしさは、美奈子には通じないらしい。

「まあ、秘湯が有る様な所だからね。玉川温泉はここよりもっと山の中らしいよ」
「や―ね、骨折なんて、あなたのせいよ」
美奈子は昌義を睨み付ける。

その言葉に唖然として、昌義はつい、口答えしてしまった。
「僕のせいって?」
「あの日、あなたが送ってくれなかったから、あんな駅で待ち合わせしたのよ」
美奈子が骨折したのは、友達と食事をしようと予約したレストランに行く途中の駅の階段を踏み外したからなのだが、そんなことも、あなたのせいと美奈子は言う。
確かに、その日、昌義は接待ゴルフの予定が入っていて送ってやれなかったが、そこまで言われると開いた口が塞がらない。

「…………」
「もう、あなたと結婚して、私の人生、めちゃくちゃ」
そういうと、美奈子はソファに戻り、昌義の分の饅頭に手を伸ばす。
痩せたい、痩せたいと言って、高価なダイエット食品を買い込んでエステ通いをしているくせに、美奈子は少しも痩せない。
そんな物を食べるから太るんだと口に出掛かった言葉を、昌義は慌てて飲み込んだ。
「タバコ、吸ってくる」

タバコとライターだけを持って、昌義は、部屋を出る。煙嫌いの美奈子はついてこない。
タバコを吸う時間だけが、昌義の解放される時間だ。


エレベーターでロビーに下りて、灰皿が置いてあるテーブルのソファに座る。
シンプルだがゆったりとしたソファに深く腰掛け、国産の愛用のタバコに火を点けた。

この山を下り、川沿いに青森県のほうに向かい、ダム湖を二つ越えたところに玉川温泉はある。
最近はマスコミに取り上げられ、かなり有名になった玉川温泉は、北投石という珍しい石を温泉の力で作り出す。
ガンと診断された大物政治家が湯治をしていたとか、ここの湯に漬かって、ガンが治るとか評判の温泉で、美奈子はその話を聞き、自分の怪我の治療に行きたがった。
たかだか骨折で、こんなところまでと言う気持ちもあったが、美奈子は言い出したら聞かない。
昌義はその願いを適えるために、秋の連休の予約を入れようと、ホ―ムペ―ジを見たのだが……

「一般的に温泉といえば、行楽面や便利さ、豪華さ等を連想しがちですが、 玉川温泉は、不便なアクセス、斜面を利用した階段の多い施設、テレビ・冷蔵庫等のない客室(強酸性の空気の影響で金属類が腐食しやすいため)等々、 決して良い環境とはいえませんが、「温泉」だけは他に類をみないほど素晴らしいものです。
環境や状況をご理解いただいた上で、是非一度お試し下さい。……玉川温泉地内の大噴(おおぶき)から湧き出る温泉の影響で、空気中の酸性濃度が高く、金属類が腐食しやすいという特殊な環境のため、殆どのお部屋に冷蔵庫・テレビ・エアコンなどの家電製品が備えつけられておらず、バス・トイレも備わっておりません。
また、室内の照明も午後十一時以降は消灯となりますので、あらかじめご了承下さいますようお願い申し上げます」

ホ―ムペ―ジに、こんな断りの出ている宿泊施設に、美奈子が我慢できるとは思えなかった。

そこで、昌義は出勤前に美奈子に玉川温泉の話をした隣家の奥さんに相談しに出かけた。
彼女が、昔、この近くに住んでいたことがあって、その温泉の効能について美奈子に話したのだ。
責任を取って貰おうというような気分だった。

昌義夫婦と同じく、隣の夫婦には子供がいない。
夫婦ともに四十代だろう。物静かな夫婦で、普段あまり物音も立てない。
飼い犬の鳴き声が聞こえるくらいだ。
おとなしそうな夫とは、会えば会釈を交わすが、引越しの挨拶に来て以来、四年間、ろくに口を利いたことが無い。
奥さんは、専業主婦でめったに家から出ないと美奈子は言っていた。
庭の手入れなどもしないようで、いつも、荒れ放題に木や草が伸びている。
たまに、庭に出て、家の中で飼っている犬を遊ばせているのを通勤前に見かけることがあったが、あまり、愛想の良い人ではない。

昌義の家と並んでいる隣りの家は、同じように東南に庭があり、その庭を越えて玄関に入るようになっている。
その庭は、 建てた当時は芝を植えていたのだが、今は色々な植物が植えられていて芝が消えている。
門から覗くと、庭先に人影が見えた。

彼女は庭先で白い花を切っていた。
そんなに広くない庭のあちこちにその花が、ランダムに咲いている。
どういう基準で植えたのかわからないが、その白い花は、あちこちにぽつんぽつんと咲いている。
最近はやりのガーデンニングというには、この家の植物はかなり出鱈目な植え方をしているように見える。
庭で遊んでいた犬が、気配を感じたのか、昌義を見つけ、吼え始めた。
飼い主に似て、愛想の悪い犬だ。
奥さんが振り向く。

「ム―ちゃん、静かにしてね」
犬は吼えなくなったが、あんたがうちのお母さんに何かしたら許さないよとでも言うように、昌義を睨んでいる。
「おはようございます。綺麗な花ですね」
昌義はお世辞の心算で言ってみたのだが、彼女の答えは驚くべきものだった。

「野生の百合ですわ。どこからか飛んでくるんです」
百合の花が飛んでくるとは信じられなかった。
昌義の家は隣だが、百合が飛んできたなどと、美奈子が言っていたことは無い。
「ユリってのは……飛んでくるもんなんですか?」
無数の白い百合が宙を飛んでくるのを想像して、昌義は首を振る。
「植えた覚えが無いので……」
無愛想に彼女は答えた。

話の持って行き様が無く、つい、通路の真ん中に植えられた大きな椿のような葉っぱをつけた木を見つけて、昌義は言った。
「立派な木ですね」
「鳥が運んできたんですわ」
「鳥……?」
「この木の実を食べてうちに糞を落としたんです」
「……木って、そんな風に増えるもの、なんですか?」
彼女は微笑して頷く。

確かに、そう言われれば、通路の真ん中に意図して木を植えるのは変だ。
この庭は、計画的に植えたとは思えないところに木や草や花が生えているが、みな、飛んできたり、鳥が運んできたりしたのだろうか?

気を取り直して、昌義は本題に入った。
「玉川温泉ですか?」
奥さんは眉を顰める。
「ええ、美奈子が行きたいというものですから」
「二・三日では結果が出ないかもしれませんよ。みなさん、あそこへは湯治のつもりで、何週間、何ヶ月と、いらっしゃるみたいだから」

彼女はそう言うと、昌義の匂いを嗅ぐために足元をうろうろしている白いプ―ドルを抱いた。
「まあ、結果云々より、とりあえず、行けば気が済むと思うんですよ。で、どこか、よいホテルをご存じないかなと思って……」

奥さんはじっと昌義を見詰める。実を言うと昌義は、この女性が苦手だ。
彼女に見つめられるとムカムカして、なにか、わあっと怒鳴りたくなってしまう。
美奈子も、以前、言っていた。
「あの奥さんのこと、みな、苦手なのよ。
何、考えているかわからないし、見つめられると、なんか、背中がぞわぞわするのよね。
年だって、もう五十近いという話なのに、三十代にしか見えないし……
付き合い悪くて、家に籠もって何しているのかしら?」

たとえ美奈子の意見でも、その意見には異存が無かった。
整った顔立ちの色の白い人なのに、なんだか、嫌な感じの違和感を感じる女性だ。

「私、あちらには最近帰っていないんですよ。向こうの事情は判らないくて、ごめんなさい」
奥さんはにべも無く断る。
「そうですか。それでは、どこかの旅行社に頼んでみます」
「お役に立てなくて……」

仕方なく昌義は本屋で温泉の案内本を買って、勤務先の信用金庫の自席で読むことにした。
「支店長、どうされたんですか?」
お茶を持ってきた前田美佳が昌義の手元の本を覗き込む。

「ああ、玉川温泉に行こうと思って……」
「どこにあるんですか?」
「秋田県」
「うわあ、ずいぶん遠いんですね」
「ああ」
美佳は勤続五年のベテランで、この支店に来て二年、女子職員の中心人物だ。
落ち着いた性格の良い彼女を昌義は気に入っていた。
「支店長と温泉なんて、イメージが会わないわ」
美佳はえくぼを浮かべて笑う。
「そうかな?」
「ええ、支店長の旅行って、スポーツをするとか、ゴルフとかのイメージですもの」
「今回はね、ほら、うちのが骨折しただろう? その療養に出かけるんだ」
美佳の目が光る。
「相変わらず愛妻家なんですね?」
「そんなこと無いよ」
「奥様が羨ましいわ。そんなに支店長に大事にされて……」
「前田君だって、そろそろ、良い話があるんじゃないか?」
取引先の社長たちも美佳が気に入っているようで、名前を聞かれたり、彼氏はいるのと探りを入れられることがよくあるのを、昌義は思い出した。
「支店長のような人、なかなかいませんから……」
 ドキッとするような言葉を残して、美佳は立ち去ろうとしかけ、足を止めた。
「そう云えば、私の知り合いが旅行代理店に勤めているんです。
良かったら、聞いてみましょうか?」
「ああ、良いホテルは無いかな?
探しているんだけど、何処が良いものやら……君たちくらいの若いこの方が良く分かるだろう?」
「聞いておきます」

美佳とそんな会話を交わした日、珍しい人から電話が入った。
「支店長、東京の大田さまから電話です」
東京で大田と言うと、一人しか知り合いはいなかった。
大田俊夫は昌義の学生時代の先輩だ。

「先輩、久しぶりですね。お元気ですか?」
「ああ、元気だ。今、東京から帰ってきているんだ」
「それは、それは……それじゃ、今晩、久しぶりに一杯やりますか?」
「いいのか?」
「勿論ですよ」

二人は学生時代によく行った居酒屋で待ち合わせ、腹ごしらえをした。
大田は学生時代柔道をしていて、背は高くないががっしりした体型だった。
今でも少しは緩んでいるが筋肉質の体付きをしている。

「先輩、どうですか? 仕事のほうは……」
一応、聞いてみると、意外な答えが返ってきた。
「ああ、オレ、最近、転職したんだ」
「え? 前の商社、辞めたんですか?」
「ああ、ちょっと、小さな会社に移ったんだ。引き抜かれたといったほうが良いかな。
今日は新しい店舗展開のための下調べで、こっちに来たんだ」

そんな景気の良い話をする大田は、肌が艶々している。
去年、大田から転職したいのだが、いいところは無いかと言われて会った時とは大違いだ。
この不況の時代にはなかなか良いところはなかったのだが……
「景気の良さそうな会社で良かったですね」
「ああ、結構、景気が良いよ。小さい会社だけどな。
女社長で不安だったんだが、任せてくれるし、遣り甲斐があるんだ。
もう、今年、三店舗出店して、結構良い成績なんだ。オレ、出張出張で、大変だよ」
そう言いながらも、大田は嬉しそうににやけている。
次の店は、昌義の行きつけのクラブにした。
「マリエンバ―ド」はさほど大きなクラブではないが、この市では美人が多いと評判の店で、昌義は接待にも利用している。

「それでは、待遇もかなり良いんじゃないですか?」
昌義は大田の今の会社について探りを入れた。
これはほとんど彼の職業病のようなものだった。

「まあまあだ。前の会社のように大企業じゃないからな。
でも、前の会社はいまや倒産寸前だからな。
それに比べれば、今度の会社は未来に向かっての展望がある。
だから、遣り甲斐があるよ。
そうそう、この前なんか、社員旅行、国内旅行だったけど、すごい豪華版だったよ」
「わあ、うらやましい。どこに行ってらしたんですか?」
自慢げに言い出した大田に女の子が相槌を打つ。

「秋田、もう、温泉三昧、ご馳走三昧だよ」
「秋田? えー、いいなあ」
女の子たちは口々にあそこは温泉いいのよねとか、秘湯なのよとか言い出した。
偶然のことに昌義は驚き、勢い込んで聞く。
「秋田のどこですか?」
「田沢湖高原温泉郷、良いとこだったよ。 あんなにのんびりしたの久しぶりだな」
「田沢湖……? 玉川温泉って知っていますか?」
「ああ、直ぐ近くだよ。そこにも行ったけど、通るだけで入らなかったな」

昌義は願ってもいない展開に驚きながら、なおも聞いた。
「先輩、玉川温泉に行こうと思っているんですが、良いホテル知りませんか?」
「玉川温泉に泊まれば良いじゃないか?」
「いやあ、テレビも無いみたいで、うちのは、ちょっと我慢できないんじゃないかと思うんですよ」
「あら、奥様とお出かけ? 妬けちゃうわ」
大田と昌義の間に座ったホステスの亜里沙が口を出す。
「いや、玉川温泉は怪我に効くんだよ」
昌義は思わず弁解していた。

亜里沙は大きく潤んだ瞳を見開き、昌義を見つめる。
亜里沙は、昌義の住んでいる市に流れてきた銀座にいたというふれこみのホステスで、三十才だった。
背が高く、モデルのような体型の彼女は百七十五センチある昌義の身長とヒ―ルを履くとほとんど変わらない。
小さな顔に一重の切れ長の目元は涼しく、女らしい優しい色合いの服を好む。

亜里沙は昌義を睨んで、ついでに太ももを抓った。
痛みを堪えながら、昌義は大田に話しかける。
「どこか良いホテル無いですかね?」
大田は迷わずに答えた。
「それなら、僕らが泊まったホテルに行きなよ。良かったよ」
「なんと言うホテルですか?」
「田沢湖レリーブドホテル、癒しって言う意味だとか言っていたなあ。
食事も良かったし、設備も良かったよ」
「どこにあるんですか?」
「秋田駒ヶ岳の麓にある温泉ホテルだ。
あそこからなら、一時間くらいで玉川温泉にいけると思うよ」
「レリーブドホテルですね?」
良さそうなホテルが見つかって良かったと思った瞬間、、またも太ももの痛みに声を上げそうになり、横の亜里沙を見ると、亜里沙は涙を浮かべていた。

翌日、出勤すると、早速、昌義は前田美佳を呼んだ。
「前田君、昨日の件だけど……」
「はい、昨日友達に聞いたんですけど、今日、調べて見るといっていました」
「じゃあ、聞いてくれるかな?
昨日、友人がレリーブドホテルと言うホテルが良いって言ってたんだが……」

前田美佳はその返事を、電話して聞いたようだった。
休憩の終わり前に、昌義のデスクに来て報告する。
「さっきの件ですけど、お勧めだそうですよ」
「そうか、ありがとう」
「予約、お待ちしてますって、友人から伝言です」
「判ったよ、ありがとう」
その日の帰り、昌義は早速、美佳の友人の旅行代理店に行き、予約を入れた。
その日の夜、久しぶりに早く帰った昌義が、車庫に車を入れて、降りると、隣りの奥さんが回覧板を持ってきた。
それを受け取り、
「昨日はどうも、ご迷惑をおかけしました」
「お役に立てなくて御免なさい」
「いや、とんでもありません。そういえば、知人の紹介でよいホテルが見つかりました」
「そうですか、それは良かったですわ」
「ええ、お陰さまで」
「それでは……」
彼女は無愛想に言うと、さっさと帰っていく。
「変な人だ」
口に出すつもりが無かった言葉を耳から聞いて、自分がそれを言ったことに驚いた。

大田の話だけじゃなく、旅行代理店にまで聞いたのに、こんなことになるとは……昌義はため息をつく。

――まさか、浴場が壊れているとは……
こんなにぼろぼろのホテル、何処が豪華なホテルなんだ?

それにしても、あの美奈子の態度。なんて奴だ。
何やっても不機嫌な顔をして、何様のつもりだ。
俺たちの結婚は間違いだった。
ああ、その通りだよ。

まったく、俺たちは何のために結婚したんだか……
暖かい家庭も、次期理事長の座も、みんなパアだ。
どちらも、もう、俺には手が届かない。
残ったのは、何を考えているのか分からない怪物だけだ。

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