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September 27, 2004

#21 光溢るる野辺に

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「カルヴァドス」は志保美さんの自殺、毅彦さんの遺体発見という報道にも拘らず、予約が殺到していて、スキャンダルで人が引くという事は無かったらしい。

丹波さんは、「料理の超人コンテスト」というテレビが主催するコンテストで優勝した。
世界的なシェフが得意の腕を奮い、世界から集められた美食家が審査するコンテストだ。
その番組の打ち合わせのおかげで、彼は事故にあわずに済んだのだ。

今度のことで辞退を考えていた丹波さんだが、周りがそのまま出場するようにと勧めた。
松井純一郎がマスコミを抑えたのだという説もある。

丹波さんはさらに有名人になり、「カルヴァドス」の予約はさらに難しい状態になったが、史記の席はいつでも設けますと丹波さんからは連絡があった。 
 
その特権を史記が行使したのは、夏休みも終わりの頃だった。
丹波さんの料理はさらにパワーアップしていた。
僕らは海の中を彷徨って海老や帆立貝や鮑に出会い、高原を散策して牛や夏野菜に会い、青林檎の木の下に来た。
青林檎を使った薫り高いデザートのムースに史記は歓声を上げた。

丹波さんは史記が喜ぶ姿を見てニコニコしている。

「そう言えば、藤江さんはお元気ですか?」
僕が訊くと、丹波さんは、
「今日、皆さんにお目にかかりたいと申しておりましたが、向こうの次女が風邪を引きまして……」
と残念そうに言う。

「藤江さんのお子さんたちと、お付き合いがあるのですか?」
あまり驚かない祐一でさえ、少し、驚いているようだ。
「ええ、あの子達は、良く遊びに来ますよ」
「こだわりが無いんですね」

――自分たちを捨てて、愛する人の元に行ってしまった母親、その母親の愛人のところに遊びに来るなんて!

丹波さんは照れくさそうに、髭を撫でる。
「あの子達が、藤江さんに離婚を勧めてくれたんですよ。
別れても、自分たちはパパとママの子だということに違いが無い。
私たちは悲しい顔をしているママを見ているより、幸せそうなママを見たいから、もう、好きに生きると良い。
それから、パパだって、家のローンや生活のために汲々としなくて良いよってね」
「凄い」
「自立してるね。信じられない」
僕らの賞賛に丹波さんは嬉しそうに笑う。

「本当に凄い子達です。
今、父親は大阪に単身赴任しているので、自宅を人に貸して三人でアパート借りて暮らしていますよ。
一番上は就職していて、二番目は高校生ですけどね。
そういえば、君たちと同い年かな?
三番目はまだ、中学生ですが、しっかりしています。

共同生活の規則を自分たちで作って、当番で自炊しているし、門限も自分たちで作って守っているし……頭が下がります。
でも、病気になると心細いようで母親を呼ぶんですよ」
自分の子供の自慢をするように得意げに丹波さんは語る。

そんなに早くから、親元を離れて自分たちだけで暮らそうとするなんて、凄い。
母親の恋愛に気が付いて、彼女たちはショックを受けなかったのだろうか?
それとも、ショックを受けた結果、自分を守るためにそんな選択をしたのだろうか?
奥さんと子どもに去られた父親は慣れない土地でどうしているのだろう?
つい、そんなことを考えてしまう。

「結婚式はいつですか?」と史記が聞く。
「式は致しません。
この秋に、内輪のちょっとしたパーティを催す予定です。
招待状をお送りさせていただきますので、ぜひ、皆さんで、ご出席ください」

「まだ、別に住んでいらっしゃるの?」
史記の問いに、丹波さんは照れくさそうに、
「いいえ……籍はもう入れました。
藤江は志保美に遠慮して、もう少し後にしようといったのですが、私が早く一緒に暮らしたかったものですから」
「おめでとうございます」
祝いの言葉を述べながら、僕は少し複雑な気持ちだった。

志保美さんは間違っていた。
偽りで愛を得ようとした。
毅彦さんを殺した。
……その報いで彼女は殺された。
だから、志保美さんの死は丹波さんのせいではない。

ようやく愛する人と結ばれた丹波さんの幸せを喜びたいのはやまやまだが、なぜか、あの夜の志保美さんの姿が心の底に沈んでいる。
くちなしの白い花のような志保美さんの思いつめた横顔が・・・ 

だから、丹波さんが席をはずした後、つい「志保美さん、可哀想だな」と言ってしまった。
史記と祐一に責められるかと思ったが、祐一は黙り、史記は、ムースを口に運びながら言った。

「人の愛には液体のように満遍なく行き渡る時と、氷のように固まって、たった一人にしか与えられない時があるのよ。
凍ってしまった愛は人を傷つけるの。
どうしようもないことだわ」

愛が人を幸せにすると限らないことを、僕らは知っている。
それは二年前、祐一と僕が知り合った事件でもそうだった。
その頃、僕らはまだ、史記と知り合っていなかったけれど、彼女の小説の中の一説を拠り所にその日々を切り抜けた。

「神はただ、存在するもの。
常に人の隣にいて、人生を見張り、その行動を断罪する。
裁きは常に行われている。
ただ貴方が気づかないだけだ」

丹波さんはこれから、いつも、何をしていても、きっと、志保美さんの存在を感じながら生きるのだろう。
それは、自分の愛のために他者からの愛を切り捨てた丹波さんに下された罰だ。

薫子夫人はあの後、入院し、その精神科の病院から出られなかった。
志保美さんの殺害については、薫子夫人の自供が得られるような状況ではなかったので、雅文さんは上司に報告したが、立件できなかったらしい。

毅彦さんの殺害については、志保美さんのお母さんは関与を否認した。
その日、彼女は近所の人と旅行に出ていたという明白なアリバイがあるため、彼女を共犯とすることは出来ず、状況から、志保美さんの単独犯行として、被疑者死亡のために不起訴となった。
だが、あの堆肥を彼女が置いたのは間違いない。

結局、あの事件で掴まったのは、追突事故を起こした佐藤だけだ。
蒲田は証拠が無いのをいいことに最初の自供を翻して、自分は事故の犠牲者と言い張っている。
佐藤の場合も、窃盗と当て逃げでは刑が確定するだろうが、殺人未遂では難しいかもしれないと雅文さんが言っていた。

国枝さんの殺人については、香織さんの上着の話から毅彦さんが犯人と思われるが、上着も凶器も見つかっていないのでどうしようもない。
香織さんはあの席では上着の件を話したが、事情聴取の席では否認したらしい。
雅文さんが女性不信に陥っていなければ良いが……

そうそう、ホームレスの徳さんの事件も、結局は事故死で落ち着いた。

だから、表向き、この一連の事件は毅彦さんと不倫関係の志保美さんが何らかの事情で毅彦さんを殺し、自殺したという形で決着している。
多分、松井純一郎がそうであることを願ったのだろう。
いい具合に、証拠物件が何も無いから、警視庁もそう決着せざるを得なかったのだ。

香織さんは、丹波家を離れた。
しばらく、外国に行くと丹波さんに話したらしい。
いろんなことを知っている彼女を松井純一郎氏が放っておくはずは無い。
きっと、彼の指示だろう。

史記は「ビューティ」のインタビューで顔を晒して覚悟していたが、カメラマンが佐藤で、場所が「カルヴァドス」というのはスキャンダラス過ぎた。
そのインタビュー記事は没になってしまった。
「ビューティ」は、この一連の事件については沈黙したいらしい。
カリスマ主婦として持ち上げていた元のスタッフの起こした事件は、あの雑誌の読者には馴染まないのだろう。
だから、相変わらず、史記は謎の作家のままだ。

僕が予感したように、集まったピースをすべて当て嵌めてみると、出来上がったのは悲しい残酷な物語だった。
まだ見つからないピース、永遠に見つからないピースもある。

たとえば、あの夜、志保美さんがどんな風に毅彦さんと会い、どんな話をし、どうして毅彦さんは死んだのか、どうして、わざわざ、あの山間の畑まで運んだのかとかは、もう見つからないピースだ。

車に残っていた血痕で、その状況は推察できるが(毅彦さんは志保美さんの車の中で、刺されたらしい)、志保美さんの気持ちはどこにも残っていない。
ただ、あの畑を、志保美さんは私の大切なものを埋める「思い出のセメタリー」としている。
その言葉によれば、志保美さんにとって毅彦さんは大事なものだったことになる。


その後、僕は時々、さやか夫人のパーティで、松井純一郎氏に会うようになった。
或る時、純一郎氏と二人きりになる機会があって、僕は薫子夫人の消息をこっそりと聞いてみた。

純一郎氏は細い目をさらに細くして、
「ああ、この前、見舞いに行った。
人形を抱いて、毅彦さんがおなかを空かせているから、あなた、ミルクを作ってきてと言われたよ」
「ミルク、作ったんですか?」
純一郎氏は首を振る。
「見舞いの果物を渡したら、この子はまだそんなもの食べられないと言って悩んでいた」

――ため息が出る。

「母ですね」
「ああ、どこまでも、母だな。
あんなになっても、まだ、毅彦のことばかり想っている」
つい、二人とも黙り込んでしまった。

志保美さんは樹里君の実の父親を殺し、樹里君を救うために、自ら薬を飲んで死んだ。
薫子夫人は最愛の息子を殺した相手に復讐した。
志保美さんのお母さんは娘の罪を隠すために、長年、丹精込めて作っていた庭園を堆肥で埋め尽くした。
藤江さんは愛のために、三人の子供を手放した。
さやか夫人は、祐一との接点を持とうと一生懸命努力している。
彼女は育児を放棄していた償いに必死だ。
そして、僕のママはイギリスに行って帰ってこない。

子供はかつて身体の一部だった。
その感覚は、僕には永遠に理解できない。
「母」と一括りで呼ばれる彼女たちは、一個の女としての自分と、母としての自分の間で、悩み、傷つき、間違い、他者を傷つけ、道を模索している。
人間として彷徨っている。
今回の事件で、僕はそのことに気が付いた。

――だから、ママ、好きなだけ、自分の時間を持つといいよ。
僕とパパは待ってくるからさ。
そしていつか、陽射しを一杯浴びて、ふかふかになったお布団みたいに自分をぱんぱんに膨らませて、僕らの元に帰ってきて……


沈黙を破ったのは、純一郎氏だった。
「少し話さないかね?」
純一郎氏はガーデンの椅子に僕を誘った。
ガーデンには秋の気配がして、どこからか金木犀の香りが漂っている。
それは、あの六月のくちなしの花を思い出させた。

「ところで君と祐一君と史記さんは、今までもいろんな事件に巻き込まれているそうだね」
「ええ、祐一と知り合って二年、史記とは一年ちょっとですけど、かなり、色々ありましたよ」
「君たちは同志のようなものかな?」
「僕みたいに平凡な人間があの二人に同志なんて言ったら叱られちゃいますよ」
「そうか、君は祐一君をどう思う?」

あの常葉の社長が、祐一の言葉を嬉しそうに聞いていたように、この日本経済の重鎮が、祐一の名を口にするとき、少し嬉しそうにしている。

――この人は松井財閥の総帥として、彼は祐一を量っているのだろうか?
だったら、余計なことは言えないな……ま、いいっか、僕の答えで何かが変わるわけでもないだろう。

「凄い奴ですよ。優秀だけど冷たくは無いし。
ちゃんと他人のことを考えられる人間です。
僕なんか、足元にも及ばない」

僕の答えに頷き、純一郎氏は面白そうに聞いた。
「君は、祐一君の理想の人物を知っているかい?」

――そんな人いるのか?でも、もし、いるとするなら・・・
「史記……お父さん、どっちかな?」

ゆっくりとシガーに火をつけると、純一郎氏は話を続ける。
「この前、彼と個人的に話すことがあってね。
今の君との様に……
それで、彼に聞いてみたんだよ。
君の理想の人はってね。
私も、父親か、史記さんかと思ったのだが……」

その時の祐一の言葉を、純一郎氏は仔細に話してくれた。

「僕にとって父親は理想と言う存在ではないんです。
あんな人を父親に持ったら、僕はぐれるか、開き直るしかない。
で、僕は開き直ろうと努力しています。
いつか、力尽きてぐれちゃうかもしれませんけどね。

それから、神楽坂史記は僕にとって別世界の人間なんです。
物語の中で、自在に人を動かし、自己を主張するなんて才能は僕にはありませんからね。

何も無いところに話を積み上げて、人を感動させ、納得させる……それはほとんど詐欺師と同じ能力ですよ。

だが、詐欺師と史記の間には厳然とした違いがある。
詐欺師は人を騙し、自分の利を図るけれど史記は無私なんです。

史記はただひたすら、うちから沸き起こる思いのまま小説を書いている。
成功しようが、認められなかろうが、持て囃されようが、たぶん、史記にとっては何の意味も無い。

彼女は世界の外にいて世界を見ている。
彼女は史記として完結しているから、誰も彼女を変えることは出来ない。
天才なんです。

だから、僕は彼女の才能をうらやましいとは思わないし、彼女を理想ともできない。
神楽坂史記は彼女だけで、ほかの誰も神楽坂史記にはなれないから……

ただ、僕には、うらやましくて仕方ない理想の人間が一人います。
彼のようになりたいと、折に触れ、思うことがあります」

――祐一はどうしてそんなことを、この老人に話したのだろう?
彼が、松井財閥の総帥だから?

――ああ、それは違う。そんなに素直に、祐一が自分を表現したとすれば、それは彼がこの人物に何か感じたからだ。


「祐一は僕が聞いても、それには絶対に答えないと思いますが」
「そうだろうね」

「誰ですか?」
純一郎はにやっと笑うと、シガーを持った手で僕を指した。
「彼はね、君が理想だと言ったんだよ」

――それは嘘だろう。祐一にからかわれたに決まっている。

「信じていないね」
「ええ、とても、信じられません」
祐一のように優秀で何もかも自立しているように見える奴が、理想とする人がいると言うのも不思議だったが、それが僕と言うのはとても信じられない。

僕はいつもぼんやりしていて、祐一のようにクリアーに物事が理解出来ず、彼の言うことを感心して聞くばかりだ。
自分の境遇や才能に不満を持っているわけではないが、それでも、史記や祐一の頭脳で世界を覗く事が出来たら良いのにと思うことがある。
僕が見ている世界と彼らが見ている世界は、全く違うものだろうと思うことがある。

「祐一君は言うんだよ。
自分は黒衣を持っていて、それを羽織らないようにと、いつも、気をつけていなければならない。
だが、歩夢には黒衣は無いと……」
何のことかさっぱりわからなかった。
「コクイって、何ですか?」
「黒い衣さ。アマデウスだよ」
「アマデウス……?」
そんな禅問答のような答えを言うと、楽しそうに笑いながら純一郎氏は行ってしまった。


祐一が実家に寄って帰るので遅くなると連絡があった夜、僕は史記の家でデッサンしながらCDを聴いていた。
ふと思いついて、僕は史記に聞いて見た。
「ねえ、アマデウスの黒衣とかって知っている?」

仕事をしていた史記はキーボードを打つ手をとめる。
「ああ、黒衣の男ことね」と何気なく言う。
「黒衣の男、って何?」
意外そうに史記は僕を見る。
大きな目が丸くなっている。
僕が大好きなちょっと茶色の瞳と子供のように蒼い白目が光っている。

「映画のアマデウス、見なかったの?」
「映画って?」
史記は立ち上がり、ホールのミニキッチンに行き、湯を沸かす。

「アマデウス。ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト。ここまでは分かるわね?」
「うん」
史記は紅茶のセットを用意しながら話し続ける。

「あれはモーツァルトと、サリエリって言う宮廷音楽家の話。
サリエリは凡庸な作曲家で、天才モーツァルトを妬んだ。
そこで、彼は黒衣、黒いマントね。
それを羽織り、仮面をかぶり、モーツァルトを尋ね、彼にレクイエムを依頼した。
黒衣の男は死神で、レクイエムは自分への葬送の曲、とモーツァルトは思い込んだの。
そして、彼はレクイエムが未完成のまま、死んでしまう。
黒衣の男を恐れながらね」
「ふうん」
僕はアマデウスがモーツァルトのことだとか、サリエリのことも知っていた。
が、映画は見ていなかったので、その映画の中の彼らの経緯については知らなかった。

――で、それがなんなんだ?

「なんだって、黒衣の男なんかに興味を持ったの?」
紅茶ポットにお湯を入れて、テーブルに運んで、史記が尋ねる。
「祐一が、松井純一郎に、僕には黒衣が無いと言ったんだって……どう言う意味かな?」
「そのまんまでしょ」史記はあっさりと言う。
「え、何、それ?」

史記はテーブル越しに僕をじっと見る。
大きな目がまっすぐに僕の目を見ている。
喉が渇く……

砂時計はあっという間に時間を流した。
僕から視線をはずした史記は、ポットから紅茶をカップに注いでゆく。
部屋の中にアッサムの香りが拡がる。

「私も思うわよ。歩夢はきっと、黒衣を持たずに生きていけるわ。
黒衣が象徴するのは、人への妬みや、憎しみや自分への驕り……
歩夢は人を妬んだり、憎んだり、自分が特別の人間だなんて思ったりしないでしょ?」
「――それって、僕が、単純ってこと?」
「そうとも言うかも……」
僕は思わず憮然としてしまう。

史記は紅茶碗を僕に差し出しながら、極上の笑顔で言った。
「だからこそ、私たち、歩夢のこと、大好きなのよ」

僕はその言葉で、その晩から、少なくとも一ヶ月以上は、ものすごく幸せだった。


小春日和のある日、僕らはまたドライブに出かけた。

奥多摩のダム湖は紅葉には早かったが落ち着いた秋の気配がしていた。
抜けるように蒼い空の下で、僕らは堰堤を散歩し、祐一の作ったサンドウィッチを食べ、ルーとサクラは思いっきり走り回った。

帰りに、また、あの場所に寄ると、そこは……

金色の海だった。
向日葵は、早くなった夕暮れの光に包まれ、優しく輝いていた。
その光り輝く向日葵畑を見ながら、僕らはその春から夏にかけて編まれた悲しい物語に思いを馳せた。

なんだかほっとして、家に帰ると、チャマが暗闇の中から優雅に迎えに出て来た。
僕らの間を、すうっと抜けて、サクラに擦り寄る。
チャマは、純白の絹糸のロングコートのナイトになった。
その気品に、育ちすぎの少し胴長のヨーキー・サクラはかなり負けてしまう。

だが、チャマはサクラに対しては礼を尽くしている。
サクラに甘え、サクラに舐めてもらい、サクラに育てられたことを忘れていないように思えるのは僕だけだろうか?

乳を欲しがる自分のために、出ない乳房を与え、赤く腫れ上がった乳首の痛みに耐えて育ててくれたサクラを、チャマはどう思っているのだろう?

チャマは時々、史記の家の飾り棚、史記が花を飾るためにだけ置いている棚に上って、長い間、外を眺めている。
視線の先はあの樫の木の下のベンチだ。

彼には母親の記憶があるのだろうか?
自分がどうやって、あの下に来たのか憶えているのだろうか?

史記の庭のささやかな謎だ。

 2004.9.27 20:00  「光溢るる野辺に」   了

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