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2007.03.06

冬の部屋――池田晶子さんへ

昨日の夜、久しぶりに「finalventの日記」さんを訪問して、過去記事の中で池田晶子氏の死を知った。

腎臓がん発見から一年未満、46歳の早い死だったようだ。

 

池田さんの文章は週刊新潮の連載記事を読んでいたくらいだったけど、親しい人が亡くなったような寂しさを覚えた。

これと指摘できる文章は手元に無いのだが、あの方の文章から受けた印象で、「この人はある日ひっそりと死んでいるのが発見されるような死に方をするのでは」と思っていた。

未婚だと思い込んでいたけど、結婚されていたようだ。

だから、私が思っていたような死に方ではなかったのだろう・・・

それでも、世間的には「ある日ひっそりと亡くなっていたのが発見された」に近い。

 

私は最近、忙しくて「週刊新潮」を読んでいなかったけど、二月の最後の週まで、彼女の連載は続いていたようだ。

その二月最後の週のエッセーは、「混浴の温泉場」という題。

「例年になく暖かいこの冬も、あと1年経てば、その「例年」に組み込まれてゆくのだ。人は、「例年」の異常さに慣れてゆく、慣らされてゆくのだから、例年も平年もじつは作為的なものであるとニベもなく言うことはできる。異常気象などじつは存在しないのだと。あるいは逆に、すべては言葉なのだと言うことができる。」

――全ては言葉・・・

 

昨夜、池田さんの死を知ってから、ジャニス・イアンの「冬の部屋」を聴きたくなった。

風邪で具合の悪い夫とサクラはさっさと寝てしまったので、一人、「mora」で探してダウンロードし、繰り返し繰り返し、聴いた。

風が強く底冷えする夜に、ジャニス・イアンの歌声はよく似合う。

「池田晶子」と検索して、あるガン患者の作家がテレビ出演された折の池田さんの感想を知った。

「個人のあられもない内面を、得体も知れない誰かに向けて吐露したいというその心性が、理解できない。気持ちが悪い」

「そういう個人の大事なことは、他人に報告するより先に、自分で考えるべきことではなかろうか」

「死ぬということは、人が本質的にものを考え始める絶好のチャンスなのである」

その言葉どおり、彼女は死に直面したときの自分の心象風景を語らずに逝ってしまった。

池田さんは亡くなる直前のエッセーでも、ご自分の病気のことには少しも触れていなかった。

自分らしい生き方をし、自分らしい死を迎えたと言える。

――それで良かったような、残念なような・・・

今はもう、「どうか、安らかに・・・」としか言いようがない。

  

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そして、彼女の存在も言葉になってゆく・・・

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