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2006.07.22

前世療法

久しぶりの晴れで、日中は暑かったけど、今は涼しい風が部屋を抜けていく。

最近、「前世からのメッセージ」(PHP出版 ブライアン・L・ワイス著)を読んでいた。
彼の最初の著書「前世療法」はまだ読んでいない。

ワイス氏は催眠療法で過去にさかのぼり、生まれる以前の記憶に行き着いた。
そして、患者の想いや病が過去生の影響を受けていることを知り、前世を知ることにより今生の病を治す「前世療法」を確立した。

前世を知ることで、今の病気が完治するのはなぜかというと・・・・

まず第一に、抑圧した、もしくは忘れていた傷になっている辛い思い出を思い出すことによって、医学用語でいうカタルシス(感情浄化)、解除反応と呼ばれるものが起る。

第二に、過去生の、他の身体、他の時代にいる自分を体験することにより、自分の魂が永遠であると実感でき、
この肉体だけがすべてではない。
自分の魂は死なず、愛する人も死ぬことは無い。
という魂の真の本質に気づくことが癒しとなる。

と言うことらしい。

――「オーラの泉」で江原さんや美輪さんがやっているのは、まさに前世療法?
過去生の自分を教えることにより、ゲストの癒しになっていると言うことなのだろう。
そこに、オーラの色とか、守護霊と言う言葉が無いだけで、ほとんど、内容的には同じように見える。

肉体は滅びるが魂は不滅。
人は学びのために転生している。
多くの宗教が神と呼ぶものは、それぞれ別なものではなく、同じものを指している。

この彼の主張はスピリチュアルな考え方とほとんど変わらない。

宗教に関しては入る門が違うだけで、行き着くところは同じだとずっと思っていた。
それどころか、人は宗教と言う門を通らなくてもそこに行けるのだと私は思っている。
なぜなら、そここそが魂の故郷だから・・・我々は「そこに行く」のではなく、「還る」のだ。

さまざまなことを人は日々忘れていく。
それは誰しもあたりまえのこと。
だから、今はその場所のことを忘れていても、不思議じゃない。
いざ、死を迎えればきっと思い出せるさ。


私がそう考えるようになった理由は、4歳前、多分3歳半ばの頃のある「記憶」。

その日、私はナイフで柿を剥こうとしていた。
家には誰もおらず、なぜ、私がそんなことをしようとしたのかも覚えていない。

私の手には柿もナイフも大きすぎ、私は指に怪我をした。
その瞬間、私は「自殺」と言う言葉を思い出した。

そして、そのまま、そこに横になり、こうやっていれば「出血多量」で死ぬのだと思った。
「死」「出血多量」と言う概念もまた、容易に出てきた。

横たわったまま、私は眠っていたらしい。
学校から帰ってきた姉が、あわてて私をおんぶして、母のところに連れて行ってくれた。

姉はそのことを今でも時々口にする。

――あの時は本当にびっくりしたわ。血だらけになって倒れているんだもの。

私はその言葉に今まで返事をして来なかった。

私がそれを覚えていて、しかもそのときにそんなことを考えていたなどと、きっと信じないだろうと思っていたから・・・

死は生まれたばかりの私にとって身近なものだった。
それだけでなく、私は子供の頃、本当に多くの事柄を理解していたと思う。
人の気持ちも手に取るようにわかった。

だが、歳をとるにつれ、だんだんいろんなことが曖昧模糊としていった。
私は生まれたときが一番賢かったのだろうかと、学生時代に思ったくらいだ。

そして今、私はいろんな経験を経て、昔覚えていたことをまた手に入れている。
ああ、これも覚えていたと思うことが多い。
わたしはたぶん、過去生の記憶のかけらを持って生まれたのだろう。

時々、前世の私のひとりは自殺したのだろうかと思うときがある。
3歳半の時にはナイフを握り、柿を剥けたというのに、その後、私は刃物を恐れるようになり、18歳を過ぎるまでナイフを持てなかった。
あの刃物への恐怖は3歳半のときのトラウマではなく、前世のトラウマなのではと今は思っている。


なので、実は、私は子供は記憶を持って生まれないと主張しながらも、記憶を持って生まれる子供もいると密かに思っているのだ。
ただ、それは、あまり幸せなことではないかもしれないとも思うのだけど・・・・


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