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2006.05.06

「真夜中の弥次さん喜多さん」を観た

昨日、伊勢から帰って「わらじや」の釜飯を食べ、夫が観ていた「真夜中の弥次さん喜多さん」録画DVDを観るともなしに観た。

これはしりあがり寿氏原作、宮藤官九郎氏映画初監督作品なのだそうで、それだけで、ただものではないと分かるけど、それにしても・・・

物語はお伊勢さんからの「リヤル(現実)は当地にあり」というDMに誘われ、長瀬智也扮する弥次さんがヤク中の同性愛相手の喜多さん(中村七之助)を連れて旅に出るというもの。

しかし、物語にリヤルはない。

だが、考えてみれば、どんな映画作品も所詮、同列に並んでいる。
三船敏郎の侍と七之助のヤク中のホモ男は、どちらも、リヤルではないという点では同じだ。
そう思って観れば、怒ることはない――なんとなく自分を宥めながら観ていた。

途中で席を離れ、戻ると、もう、話も終わりに近づいていた。
なぜか、弥次さんは殺されたらしく、三途の川の源流を探し幽界を彷徨っている。
そこで出会う死人は、皆、同じ顔(荒川良々)。

一方、喜多さんはキノコのカクテルで幻想を見ている。

つい最後までじっくり見てしまった。

――この物語は、「魂」の物語なのだな。

人は笑いながら、馬鹿にしながら、あるいは怒りながら、この死生観を憶えるだろう。
それは大事なことかもしれない。

死と向き合うことのない現代人には、死について考える時間が必要だ。
死がどのようなものかをイメージしていなければ、行くべきところにいけないと、聞いたことがある。
無になると信じている人は、死んでも、自分の死を認識できず、自爆霊や浮遊霊になるという。

物語で弥次さんは生き返りを願う。
許しを与え、許しを得なければ再生はない。
生きている時間にどれだけのことをしたか、が重要なのだ。
特に、誰かの許しを得るためには・・・

死は終着ではない。
死は別の始まりだ。
その始まりには前生の行いが問われる。

そんなことをきちんと織り込んだ映画だった。

ただ、老化した頭には少し、ハードだったけど。

そんな映画を観て寝たせいか、長々と夢を見た。
なんとなく憶えているのは警告の夢と母の夢。
警告の夢は自分の慢心のせいで、困ったことが起きるという夢。
気をつけよう。
母の夢は母に連れられてどこかに行き、私の娘だよと紹介される夢だった。
あれはどこだろう?

そんな長い夢を見たにもかかわらず、目覚めは良く、朝から大掃除をした。
掃除をしながら、ふと、思ったのは・・・

許すことにより、救われるのは相手だけではない。
誰よりも自分が救われる。
地獄は外に在るのではなく、自分の中に在る。

そんなことだった。

連休ももう四日目。
天気も怪しくなってきた。
明日は雨かな~。

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