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2005.03.03

2005年の雛祭

Dsc04736x今日は雛祭。
女の子のお節句。
なのにどうして休日じゃないの?
男の子のお節句は休日なのに・・・
プンプン!

かつて、女の文化と男の文化は、見事に分けられていた。
女は女らしく、男は男らしく・・・それに戦前から女性達は抵抗し、青踏派などの運動があったわけだが、その文化は占領軍の鶴の一声、「民主化」のもとので、秩序無く崩れた。

今、残っている性差の名残はお雛様くらいのもの?

女の子と男の子を分けるのはおかしいということで、男の子の節句に女の子の祭も合併され、端午の節句は「子供の日」なんて無味乾燥な名前を付けられている。

この前から、性同一障害の人の話をよく耳にする。
それを聞き、心と身体が異なるということは、とても負担なこと、そのことにより、自殺する人が何人もいるほど、大変なことなのだと分かった。

そのことから色々考えていて、思うようになったこと。それは・・・

もしかして、性差の無い心を持つということは、男にも女にも本当は辛いことなんじゃないか?

男としての身体、女としての身体がなすべきことは自ずと違う。
平等と言う点で言えば、男女は決定的に平等ではない。
なぜなら、男は子供を産めない。
女の心で育った男たちから見れば、それこそ、とんでもない不平等のはず。

子供を産める身体、それは女性の身体へのギフトなのだ。
どんな境遇にあろうと、女は自分の遺伝子を未来に繋ぐことが出来る。
子供を育てるには、時間が掛かる。
女性が子供を生める期間が短いのはそう言うことなのだろう。
人生80年の時代が長く続けば、女性の生殖期間ももう少し延びるかも。

男達はいくつになっても生殖能力があるが、女に選ばれなければ、その機会は無い。
だから、男は金や、権力や、才能で、自分を飾り、こんなに自分には立派な遺伝子があるのだとアピールするしかなかった。
それが出来ない男は体力や腕力で、家族を守れることをアピールした。
体力や腕力が男の身体へのギフトなのだ。

でも、男も女も、自分へのギフトを忌み嫌い、日本は少子化している。
これは、自分の性を見失った結果なのでは?

いろんな出来事に遭い、いろんな思いを経て、私はここにいる。
辛い事が有ると、その瞬間には生きている事を呪ったり、親を恨んだりもしたが、今は、産まれて来て、この年まで生きてこれてよかったと思う。
私は何も持っていないおばさんだが、生きている身体のこの五感で感じる世界は本当に素晴らしい。

だから、私はギフトをちゃんと活用できなかったことを、後悔している。

今頃気付いても遅いことだけど、未来が灰色に見えても、本当に灰色かどうかなんてことは誰にもわからない。
私が駄目人間だからといって、子供が駄目人間になるとは限らない。
どの時代にも、人はその範囲で懸命に生きてきた。
だからこそ、私はここにいる。
私と夫の遺伝子の未来を閉ざす権利は私には無かったのに・・・

そんなことをつらつら考える2005年の雛祭。

c-rawumber
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