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2005.02.15

根はどこに?

誰かを憎むという感情は、誰もが持っている自然な感情だ。
だが、なぜ、それが学校に向かうのか?

そこの構成員は常に流動的で、○○小学校とか、××中学とか名前が付いていても、自分が属していたときとは、まるで違うものなのに・・・
今回、少年が刺した教職員も彼の担任ではなかった。
小学校で担任では無いということは、まるきり、知らない人と言うことだ。

彼は中学二年から不登校になり、閉じこもっていたという。
自分が属した唯一の他人と交わる場を恨んで、今度の犯行に及んだことになる。
揺るがない組織、システム、自分が居なくても成り立っている世界、そこで自分が能力どおりにきちんと扱われなかったから、この状況があると思ったのだろうか?
落ちこぼれた原因が、自分にあるのではなく、その場に有るのだという思い込みが、学校への襲撃と言う形になったのだろうか?

最近、ある習い事の講師をしている人と話した。
彼女は、最近の子供は教室であることについて説明しても、自分に関係はないと思う子が多く、一人一人に話しかけをしなくてはいけなくて疲れると言っていた。
それは花の場合も同じで、大勢の前で説明しても、また、一人一人に同じ説明をしなくてはいけない。
集団の中での自分になれていないのかもしれない。
で、放っておくと、自分勝手に花を生けてくれるので、私は直させてもらうことにしている。
個性は大事だが、何かを習うということは、その手順や形を習うということなので、初歩の段階でそれをさせていない。
この考えは個性至上主義の人には理解できないかもしれない。

だが、「型から入って型を抜ける」という言葉があるように、最初は型を習い、それを習得した時点で、型を抜けて自分を表現しなければ、自分にだけ通じる独りよがりな表現になってしまい、誰かに通じるところまでは行かない。

教育でも同じで、誰とでも通じる言葉や表現を手に入れる場(型を習う場)として小学校があるのだと思う。
故宅間死刑囚や今度の少年が、狙う場所として小学校を選んだのは、彼らが小学校ですでに落ちこぼれ、切り捨てられていたからではないだろうか?
彼らがその時期に抱いた他との違和感から、抜け出せなかったことが、事件の根っこになっているような気がしてならない。
それは学校側の問題だけでなく、親側の学校に対する意識の問題でもあるのだが。

私は山の中で一人きりの子供だったが、小学校に入り、そこで級友達と泥んこになって、汗まみれになって、くちゃくちゃになって遊んだ。
それは私の中でほっこりと温かい記憶になった。
そのおかげで、少しは人と居ることに慣れたが、今でも、私は他人に違和感を抱かせるみたいだし、自分でも適応できていないと思うときがある。
私の人間としての型はいびつなのかもしれない。
それは私の特別な事情だと思っていたのだが・・・最近、他のブログを読んだり、いろんな人と話したりして、人間は、皆、どこかに他との違和感を感じる生き物なのだと思った。

人間はもともと自分勝手な生き物だから、生きる型を先人は作り、それに子供を当てはめてきたのだろう。
その型が崩れて、さあ、好き勝手にしなさいと言われ、人は悩んでいる。
中には人に愛される型になれなかった、もしくは自分は人に愛される型ではないと思い込んでいる人が居る。
それが、犯罪者なのだと思う。

ゲームに没頭し、他の関りを絶っていたという少年、彼にはほっこり温かい記憶が無かったのだろうか・・・


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