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2004.12.04

美は人のものにあらず

昨日、サクラの脱走でめげて、書きたいことが中途半端でしたので、続きを・・・

――美(芸術)は人のものにあらず

あの「海峡を渡るバイオリン」の製作者陳昌鉉氏は、ストラディバリに触らせて貰い、自分を失いました。
自分の作るバイオリンをそれに近づけること以外に興味を失ってしまったのです。
そのために妻子は困窮し、命さえ失いかけました。
そこまでしなければ、彼は自分の現実に戻れなかったのです。
果たしてそこで戻ったかどうかも怪しいものですが・・・

美(芸術)と言うものは確かに人の心を養い潤すものです。
が、作り出すものにとっては地獄でもあるのです。
真の美、真の輝きが在る、それを知りながら自分では作り出せない――その絶望は人を狂わせます。

いつも思うのです。

――選ぶのは人間のほうではない。
天才たりうる人と、失敗者の違いはむこうに選ばれるかどうかだ。

あの番組を見てさらにその思いを深めました。

彼はバイオリンの美に選ばれ、作らされたのです。
彼の作ったバイオリンは、この時代の名器として次の時代に残ることでしょう。
そして、いつか、彼のバイオリンの音色に感動し、憑依された人間が、寝食を忘れ、バイオリンを作り始める・・・
そうやって、血筋ではない、バイオリンの美が選んだ製作者の系図が出来ていく。

――あのバイオリン製作者は、今でも、美への渇望を持っているのかしら?
その渇望がなくなったら、もう、作らなくても良いと言う許しが出た時なんだろうなあ・・・

何かに選ばれたかどうかは、それを続けられるかどうかで判ります。
彼はあんな貧困の中でもバイオリンを作り続けられました。
たとえ、それがすべてを犠牲にしてであってとしても、すべてを犠牲に出来る環境にあったのです。

昔、花教室の生徒だった頃、先輩達は素敵な花を生けていて、あんな花を生けられるようになりたい頑張ったものです。
でも、今、その頃の先輩の中で教室を開いている人はほとんどいません。
結婚して遠くに行ってしまったり、仕事や育児が忙しかったりして、花の世界から離れていきました。
うちの教室にも、先生になりたいと決意して入ってくる人もいますが、ほとんど、挫折します。
それは彼女達にとって、花以上に大切なものがあるからです。
つまり、彼女達は花に選ばれなかったのです。
こんな花の世界でさえそうなのです。

結果として、陳昌鉉氏は成功者になりました。
が、宮沢賢治のように石川啄木のように、ゴーギャンのように、生きている間には結果が出ず、貧困のうちにこの世を去る者もいます。
樋口一葉もそうでした。
この世の幸せを手に入れられなくても良いと覚悟しなければ、美を追い求めるのは危険です。
でも、今の日本では名誉や金儲けのために、美を目指すものが多いように見えます。
そういう人の作品が認められ持て囃され経済的に裕福になれたとしても、それが、100年後に残っているかどうかは、また別な話・・・
美の世界の栄誉は、人の人生の時間で測れるものではなく、何世紀と言う単位で測るものなのかもしれません。

何世紀先まで名前が残らなくても、今、食べるものが美味しいとか、見たものが綺麗だとか、誰かのぬくもりを感じて幸せなほうが、一個の人生としては豊かなのだと思います。
そういう人生がどうしても手に入らないのなら、何かに選ばれてしまったのかもしれません。
まあ、そういう人は、傍目には辛く険しい道を歩んだとしても、本人には楽しく豊かな人生になるのでしょうから、心配要りません。
大変なのは、周囲です。

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それにしても、あまり鋭敏ではない神経の持ち主のほうが、人の世で生きるには適しているのかもしれないと、最近の事件を見るたびに思います。
彼らは個性を強要する時代の犠牲者、鋭く研ぎ澄まされた神経こそが素晴らしいのだと思い込まされたのではないでしょうか?

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